第四話 『古の道と、見えざる猟犬』
灰色の旅路が始まって、既に五日が過ぎていた。
ウィスパーウッド周辺の森を抜けた先には、人の手がほとんど入っていない、深く険しい古の森が広がっていた。ぬかるんだ獣道に足を取られ、名も知らぬ鳥の不気味な鳴き声が、絶えず三人の不安を煽る。
リオスの服は枝に引っかけた無数の裂け目ができ、リーナの顔は疲労で青白い。先頭を行くゼノスの動きだけが、森に溶け込むように滑らかだった。彼は時折立ち止まっては地面の痕跡を読み、風の匂いを嗅ぎ、一行が進むべきかすかな道筋を見つけ出していく。
「少し、休もう……。リーナの顔色が悪い」
昼過ぎ、リオスがうっそうとした木々の下で足を止めた。リーナは黙って頷き、近くの倒木に力なく腰を下ろす。水筒に残ったぬるい水を一口飲むと、荒い息を整えた。
「ごめん、二人とも。私のせいで……」
リーナは、泥だけになった服の裾を握りしめた。
「私がもっと体力があれば、もっと早く進めるのに。こんな森、歩いたこともなかったから……」
「謝るな。お前が一番、慣れてないんだから当然だ」
リオスはぶっきらぼうに言うと、乾いたパンの最後の一切れを、そのままリーナに差し出した。
「それより食え。最後の一切れだ。……俺より、お前が必要だろ」
ゼノスはリオスたちのやり取りを一瞥し、警戒を解かずに周囲を見渡しながら言った。
「感傷に浸るのは後だ。今は一分でも長く体力を回復させろ。追っ手は、俺たちが思うより早いかもしれん」
その言葉に空気が張り詰めた、その時だった。ゼノスが身をかがめ、獣のような鋭さで二人をシダの茂みへと引き倒した。
「伏せろ…! 来る…!」
三人は息を殺し、巨大なシダの陰に身を隠す。心臓の音が、やけに大きく聞こえた。
やがて、森の静寂を破って、複数の足音と、金属が擦れる音が近づいてくる。
木々の隙間から見えたのは、あの黒鋼の鎧だった。五人の兵士が、感情のない機械的な動きで、辺りを捜索している。幸いにも、彼らは三人に気づくことなく、別の方向へと進んでいった。
兵士たちの姿が完全に見えなくなるまで、三人は身じろぎもせずに待ち続けた。
「……追ってきてる。間違いなく、私たちを」
リーナの声は、恐怖に震えていた。
「ああ。だが、ただの追跡じゃない」
ゼノスは、兵士たちが去った地面を指差した。そこには、鎧の兵士たちのものとは違う、もう一つの足跡が残されていた。巨大な狼のそれによく似ているが、その爪痕はまるで黒曜石のように鋭く、土をえぐり取っていた。
「……この足跡、普通の獣じゃない。爪痕が深すぎるし、歩幅が機械のように正確だ」
ゼノスは低い声で呟く。
「奴らが造り出した『魔狼』だ。人を狩るためだけに調整された、人造の獣。『闇の一族』の中でも特に腕利きの猟犬……暗殺者が、これを従えている」
ゼノスの言葉に、リオスはギリ、と奥歯を噛み締めた。恐怖と無力感の裏返しで、彼の声は怒りに震えていた。
「じゃあ、どうしろって言うんだ! また逃げるのか! 村が燃やされた時も、じいさんが殺された時も、俺たちは逃げた! これからもずっと、こんな化け物からコソコソ逃げ続けるだけなのかよ!」
「そうだ。生き延びるためだ」 ゼノスはリオスを真っ直ぐに見据える。 「今ここで感情に任せて剣を抜けば、俺たちはここで死ぬ。犬死だ。グラン様の最後の命令を、お前は無駄にする気か? 復讐とは、生き延びた者だけが成し遂げられる権利だ。それとも、リーナをここで見捨てるか?」
「二人とも、やめて!」
リーナが、震えながらも二人の間に割って入った。
「……ゼノスの言う通りよ、リオス。怖い。私も怖い。でも、ここで死んだら、グラン村長やみんなに顔向けできない。私たちは、行かなきゃいけないの……賢者の塔へ」
その夜。夕食の焚き火を囲む空気は、重かった。昼間の対立が、三人の間に見えない溝を作っていた。
リーナは、命懸けで持ち出した古文書の束を、ただぼんやりと眺めていた。 焚き火の炎が、あの日の村の炎と重なる。熱い。痛い。こんな紙切れのために、グランは死んだ。優しい村の人々が死んだ。私が、この『知識』にさえ手を出なければ、みんな今も笑っていたはずなのに。私の探究心が、みんなを殺したんだ。 涙が、後から後から溢れてくる。もう、学者になる夢も、リオスと過ごす平穏な日々も、何もかも失ってしまった。 その時、涙が一筋、頬を伝い、膝の上の地図にぽつりと落ちた。
はっとして顔を上げると、地図が、光っていた。違う、地図を握る私の掌が、淡い光を放っている。 まるで涙に呼ばれたかのように、その光が地図に染み込んでいく。脳裏に、あの古文書の一節が雷のように閃いた。
――『鍵なる血脈の悲嘆に応え、忘れられし道は、その姿を現さん』
リーナは、震える声で、その古文書に記されていた古代語のフレーズを呟いた。 すると、地図の表面に描かれた山や川の上に、光の粒子でできた全く新しい道筋が、まるで回路図のように、すっと浮かび上がったのだ。 それは、現在の地図にはない、忘れられた古の道。その終着点は、霧深きエルドラ山脈の中心を指していた。
「……古の道。これなら、奴らの追跡を撒けるかもしれない」
ゼノスが、興味深そうに光る地図を覗き込む。光の道筋の横には、小さな古代文字が輝いていた。
「『資格なき者を拒む、試練の道』……」
リーナが、その文字を読み上げる。 リオスは、そんな彼女の顔をじっと見つめると、力強く言った。
「試練だろうが何だろうが、関係ない。俺たちが進む道は、もうそこしか無いんだ」
その瞳には、もう怒りだけではない、仲間を守り、運命を切り開こうとする強い決意の光が宿っていた。
翌朝、三人は地図が示す場所――苔むした巨大な石像が隠す、洞窟の入り口に立っていた。 それは、獣たちですら避けて通るような、不気味な静寂に包まれた古の道の始まりだった。彼らの本当の旅が、今、始まろうとしていた。




