第十九話 『雪渓の獣と、忘れられた道』
ゼノスが見つけた岩壁の紋様は、彼らにとって唯一にして絶対の道標となった。 テオドールから受け取った地図は、この深い山脈の中ではもはや気休めにしかならない。ここから先は、道なき道。ゼノスの、ゲイル・テトラの民としての本能と、彼の中に眠る微かな記憶だけが頼りだった。
「こっちだ」
ゼノスは、険しい岩肌を登りながら、確信を持って一行を導いた。以前の彼からは想像もつかないような、力強い意志がその背中から感じられた。
「風が違う。この岩の向こうは、風の通り道になっているはずだ」
リオスは星喰の剣を背負い直し、ゼノスの後を追う。
「わかった。行こう。リーナは大丈夫か?無理はするなよ」
標高が上がるにつれ、空気は目に見えて薄くなり、リーナの顔には疲労の色が濃く浮かんでいた。
「大丈夫……」
リーナは、心珠を握りしめながら、必死に息をついた。
「なんだか……空気が重い。ストーンクリークで感じた『山の息吹』よりも、もっと濃くて、強い何かが……」
彼女の律動を感じ取る力は、この特異な環境下で、より敏感になっているようだった。
三人は、狭い岩の裂け目を抜けた。 そこは、ゼノスの言葉通り、広大な雪渓が広がる盆地だった。しかし、ストーンクリーク周辺とは比べ物にならないほど、風が荒れ狂っている。
「うわっ……!」
リオスは、強風に煽られ、思わず体勢を崩した。
「気を抜くな」
ゼノスが低く警告した、その時だった。 荒れ狂う風雪の中から、複数の影が急速に彼らに近づいてきた。
「グルルルル……!」
それは、スノーウルフよりも遥かに体躯の大きな、純白の毛皮を持つ狼だった。『アイス・クロウ』と呼ばれる、この高地に適応した恐れべき魔獣だ。
「囲まれるぞ! リーナは中央へ!」
リオスが即座に星喰の剣を抜き放つ。ゼノスも短剣を構え、リーナを守るように背中合わせになった。 アイス・クロウは三体。知能が高く、群れでの狩りを得意とする。
「リオス、右の二体は俺が引き受ける! お前は左の一体を!」
ゼノスの指示は的確だった。
「無茶だ! 一人で二体は……!」
「行け!」
ゼノスの叱咤が飛ぶ。彼は、雪渓の上を滑るように駆け出し、二体の魔獣の注意を引き付けた。その動きは、これまでのゼノスとは別人のように、迷いがなく、獣そのもののような鋭さがあった。
リオスもまた、自分を鼓舞するように叫び、左の一体と切り結んだ。
「うおおおっ!」
星喰の剣が、アイス・クロウの鋭い爪とぶつかり、火花を散らす。魔獣の力は凄まじく、一撃一撃がリオスの腕を痺れさせた。
(くそっ、重い……! でも、ゼノスが二体相手にしてるんだ!)
リオスが歯を食いしばった、その瞬間。
「リオス、足元!」
リーナの叫び声が響いた。 アイス・クロウが、リオスの足元の雪を前足でかき、雪煙で視界を奪おうとしたのだ。
「しまっ……!」
視界を失ったリオスに、アイス・クロウの爪が迫る。 だが、その爪がリオスを裂く前に、一体の魔獣が甲高い悲鳴を上げた。 「ガインッ!」 ゼノスが投げた短剣が、アイス・クロウの肩口に深々と突き刺さっていた。彼は二体を相手にしながらも、リオスの窮地を見逃さなかったのだ。 怯んだ魔獣に対し、リオスは雪煙の中から体勢を立て直し、星喰の剣を渾身の力で叩きつけた。
ゼノスもまた、一体の懐に潜り込み、影纏いの短剣でその動きを封じ、もう一体を蹴り飛ばすという離れ業を見せる。 数分にも満たない激闘の末、三体の魔獣は雪渓に沈んだ。
「はぁ……はぁ……。助かった、ゼノス」
リオスは、肩で息をしながら言った。
「……礼はいい。だが、今のままでは、この先は進めんぞ」
ゼノスは、短剣の血糊を雪で拭いながら、冷たく言った。
「お前の剣は、まだ迷っている。力が、お前の意思に完全には応えきれていない。その迷いを断ち切れ」
「……ああ、分ってる」
リオスは、星喰の剣を握りしめた。ゼノスの言葉は、今の彼には重く、しかし確かに響いた。
戦闘で荒れた息を整えながら、彼らは再び歩き出した。 ゼノスは、戦闘の消耗を感じさせない足取りで、雪渓の奥へと進んでいく。
「ゼノス……なんだか、変わったね」
リーナが、ゼノスの背中を見つめながら呟いた。
「ああ……」
リオスも頷く。
「吹っ切れた、っていうのか……。あいつ、自分の部族のことに、真っ直ぐ向き合おうとしてるんだ」
ゼノスの脳裏には、先ほどの道標を見た時から、断片的な記憶が蘇り始めていた。
『ゲイル・テトラは、山の息吹と共に生きよ』 『我らは、律動の守り人……』
それは、幼い頃に祖母から聞いた、子守唄のような、あるいは厳しい戒めのような言葉だった。
(守り人……? 俺たちの部族が、一体何を……)
彼は、自らの血に刻まれた謎と向き合いながら、足を止めなかった。
日が傾きかけ、猛烈な地吹雪が視界を奪い始めた頃、ゼノスが鋭く声を上げた。
「……あれを見ろ」
彼が指差す先、吹雪が一瞬晴れたその向こうに、信じられない光景が広がっていた。
そこには、巨大な氷河が口を開け、その奥に、まるで自然が作り出したとは思えないほど巨大な、石造りの門がそびえ立っていた。 風化し、雪に覆われてはいるが、その威容は失われていない。 門には、ゼノスが見つけた道標と、同じ紋様が刻まれていた。
「まさか……これが」
リオスが息を呑む。
「……ゲイル・テトラの集落跡……」
ゼノスの声は、震えていた。
忘れられた民の故郷が、ついに彼らの目の前に、その重い扉を開こうとしていた。
さて、卓上の語り部でございます。
第十九話『雪渓の獣と、忘れられた道』、お読みいただき誠にありがとうございます。 今回は、天蓋山脈の険しい道程と、そこで垣間見えたゼノスの変化、そしてついに彼らの目の前に現れた「ゲイル・テトラの集落跡」を描かせていただきました。
道標を見つけたことで、ゼノスの中に眠っていた「ゲイル・テトラの民」としての本能が目覚め始めました。 アイス・クロウとの戦闘で見せた彼の迷いのない動きや、リオスへの叱咤は、彼の内面の覚悟と成長を強く感じさせるものだったかと思います。
そして、物語の大きな節目となる「ゲイル・テトラの集落跡」への到達。 風雪の中にそびえ立つ巨大な石造りの門は、彼らを待ち受ける真実と、世界の根源に迫る旅の序章となるでしょう。
忘れられた民の故郷で、彼らは何を見つけ、どんな真実を知ることになるのか。 ゼノスの過去と、世界の律動の秘密が、ついに明らかになり始めます。 どうぞ、次なる物語にご期待ください。
ps. 更に『アヴェリア物語』の世界設定や裏話に興味がある方は、ぜひ「Table Talker's Log」をご覧ください。物語をより深く楽しめる記事を随時更新しております。https://tabletalker.info/
卓上の語り部より、敬具。




