第1話:不幸な少年の、ある雨の日(第3節)
桜井唯と別れて数日後の金曜日。
あの雨の日から、僕の心は少しだけ軽くなった。
ちくわを看病しているらしい桜井から、時折届くメールには、猫の様子や、桜井自身の小さな発見が綴られていた。
彼女とのつながりができたことが、僕の不幸な日常を少しだけ温かくしてくれていた。
僕はベッドに寝転がり、スマホを手に取った。送られてきたちくわの写真を見て、思わず口元が緩む。
「へへ……」
一人でニヤニヤしていると、コンコンとノックの音がした。
「お兄ちゃん、夕飯だって」
オーバーサイズのトレーナーに、チェック柄のプリーツスカート姿で顔を覗かせた小春が、ピンク色のツインテールを肩で揺らしながら、少し呆れたような顔で僕を見つめている。
「な、なに一人でにやにやしてるの? 気持ち悪いんだけど」
「い、いや、別に……」
僕は慌ててスマホを布団の下に隠す。
「まさか彼女でもできた?……まあ、お兄ちゃんに限って、ありえないか」
「うるさいなぁ、あっち行けよ」
小春は鼻で笑うと、「あっそ、ごはん冷めるよ」と言って部屋を出ていった。
妹のいつもの毒舌には何とも思わないが、それ以上に、桜井とのやり取りが僕の心を浮き立たせていた。
その翌日の土曜日。
午前中までつづいた雨が嘘のように空は晴れ渡っていたが、アスファルトにはまだ黒い水たまりが残り、水が蒸発する匂いが微かに漂っていた。
なんとなく、今日は特別な日のような気がしていた。理由はわからないけれど、胸の奥がそわそわする。ポケットの中のスマホも、なぜか普段より温かい気がするし……
(まあ、ただの気のせいかな?)
苦笑いしながら、僕は特に目的もなく、ただの気分転換にそのスマホをいじりながら、雨上がりの街をぶらぶらと散歩していた。
「あ、ちくわ、まって!」
聞き覚えのある声に振り向くと、一匹の猫が僕に向かって一目散に走ってきた。
見覚えのある、白くてふわふわとした毛並み。僕に気づいた子猫は、まるで僕が飼い主であるかのように、嬉しそうに僕の足元に駆け寄ってきて、体を擦りつけてくる。
「ち、ちくわ!?」
驚いて声を上げると、子猫は僕の腕の中に飛び込んで「にゃあ」と鳴いた。その可愛らしい仕草に、思わず頬が緩む。
そのすぐ後ろから、焦った様子の桜井が駆け寄ってくるのが見えた。
茶色のボブヘアに右側につけたリボン。今日は、白いブラウスにふんわりとした花柄のスカートという可愛らしい私服姿だった。
「ちくわ!どこ行ってたの!」
桜井は僕に気づくと、少し恥ずかしそうに顔を赤くした。
「先輩、ちくわが急に走り出しちゃって……」
彼女の息が少し上がっている。
僕は大事そうにちくわを両腕で抱きかかえ、桜井に手渡した。
「ああ、よかった」
桜井は心から安堵したように、ちくわを胸に抱きしめた。
その優しい横顔を見た瞬間、僕は一瞬、時間が止まったような気がした。
控えめな胸元、でもそのブラウスに包まれた輪郭が妙にドキドキさせて、いやいや、なにを考えているんだ僕は!と慌てて頭を振った。
その瞬間、僕のポケットから滑り落ちたスマホが、カラン、と乾いた音を立ててアスファルトに転がった。
「ああ、またかよ……」
思わず顔をしかめた。僕の不幸体質は、こんな幸せな瞬間さえも許してくれないらしい。
幸い、画面は割れていない。僕は安堵して、スマホを拾い上げようと身をかがめた。
しかし、足元のマンホールの蓋が、なぜか少しずれていたことに気づかないまま、僕は濡れた地面で足を滑らせた。
「うわっ!」
スマホをつかんだ瞬間、僕の体が不規則にバランスを崩し、開いていたマンホールの隙間に片足が落ちる。
「せんぱい、あぶないっ!」
僕は、咄嗟に両手を広げて体勢を立て直そうとする。
しかし、雨で滑る地面は僕の努力を嘲笑うかのように、そのまま僕をマンホールの底へと引きずり込んだ。
「せんぱい!」
最後に聞こえたのは、悲鳴にも似た、切なく澄んだ声だった。
桜井の呼びかけもむなしく、僕の意識を闇の底へと引きずり込んでいく。
ゴツッ!
鈍い音と共に、僕の頭がどこかに強くぶつかった。
僕の視界は一気に暗転し、意識は、底なしの闇へと落ちていった。




