第1話:不幸な少年の、ある雨の日(第2節)
放課後。
しとしとと降り続く雨のせいで、アスファルトには黒い水たまりがいくつもできていた。
「ああ、最悪だ。本当に最悪だ」
思わず頭を抱えた。
平日の夕方、賑やかな駅前大通りから一本外れた人気のない裏路地。
明日の課題に必要な参考書を買いに行く途中だったのに、気づけば財布がない。
たぶん、雨宿りをしようとして入ったコンビニで落としたんだろう。ため息をついて肩をすくめる。
いつもなら潔く諦めて家路につくところだが、明日の課題はそうもいかない。
仕方なく来た道を戻っていると、ゴミ捨て場の隅で、小さな影がうずくまっているのが見えた。
「にゃ......」
弱々しい鳴き声に、僕は足を止めた。白くてふわふわした子猫が、雨に濡れて震えている。
ゴミ箱を漁ったのか、その口元には何かを食べていた跡があったが、とても元気そうには見えない。
「……これしか、ないけど」
ポケットにあったのは、僕の今日のおやつにしようと思っていたちくわだ。
取り出し、子猫の前にそっと置く。
子猫は警戒しながらも、ゆっくりと顔を上げて、ちくわの匂いを嗅いだ。そして、意を決したように一口かじると、猛烈な勢いで食べ始めた。
その温かさに、僕の心も温かくなる。この子も僕と同じで、運に見放されているのだろうか。
僕は子猫の背中を、そっと指先で撫でてみた。
子猫は食べるのをやめずに、小さく「にゃっ」と鳴いて、僕の指に顔を擦りつけてきた。その小さな命の温もりが、俺の心に染みていく。
(ああ、なんか……温かいな)
不思議と、心が軽くなった。
「……先輩、何してるんですか?」
不意に、澄んだ声が聞こえた。
僕は驚いて、反射的に顔を上げた。
そこに立っていたのは、見覚えのある顔だった。図書館で会ったばかりの後輩だ。
しかし、名前が出てこない。日頃から人と関わるのが苦手なせいか、顔は覚えていても名前がなかなか出てこない。
「え、ええと......」
僕が返答に窮していると、
「桜井、です」
少し間を置いて、静かに自分の名前を口にする。その瞳に、ほんの一瞬だけ寂しさが宿ったのは気のせいだろうか。
そう、桜井だ。ごめん、今度こそちゃんと覚えるから。心の中で謝罪した。
彼女は、僕が手に持っていた図書館の借りた本に視線を落とすと、少しだけ顔を僕に近づけてきた。
その距離に、僕は思わずドキッとする。彼女の少し冷たい雨の匂いと、甘いシャンプーの香りが混じり合って、僕の鼻をくすぐる。
うん、この香りははっきりと覚えているぞ。
「先輩、もしかして……動物がお好きなんですか?」
「あ、いや……」
僕は足元の猫を見て、戸惑いながら答えた。
「ただの猫だよ」
僕がそう言うと、桜井は黙って子猫の前にしゃがみ込んだ。茶色のボブヘアがさらりと揺れる。
彼女は、制服のスカートが濡れないように片手で少し持ち上げると、もう片方の手で弱々しい子猫をそっと抱き上げた。
その仕草は驚くほど慣れていて、まるで小さな命を守ることが、彼女にとって自然な行為であるかのようだった。猫は安心したように、桜井の腕の中で小さく鳴いた。
「……飼い主は?」
「たぶん、捨てられたんだと思う。僕が飼いたいんだけど、マンションだから無理なんだ」
僕がそう言うと、桜井は子猫のふわふわした頭を優しく撫でた。
「……私が飼います」
予想外の言葉に、僕は驚いて声を上げた。
桜井は僕の目を見つめたまま、わずかに口角を上げて微笑んだように見えた。
「先輩がくれた『ちくわ』を食べています。」
桜井の声には、温かな響きがあった。
「この子の名前、どうしますか?」
その質問は、まるで二人で子猫を育てるような、そんな響きを持っていた。悠真は気づかないが、桜井の頬はほんのり赤く染まっている。
僕は子猫を抱いた桜井の姿と、空になったちくわの袋を交互に見た。
袋には虎のキャラクターの絵と「生ちくわ」の商品名がかかれている。この子を救ってくれた、僕の今日のおやつだ。
「じゃあ…… ちくわ、かな」
僕がそう言うと、桜井はクスリと小さく笑った。
「……そうですね。ちくわ、と名付けましょう」
そのとき、僕はまだ知らなかった。
この子猫と、後輩との出会いが、僕の平凡で残念な日常を大きく変える始まりに過ぎないことを。




