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第8話

■神崎玲司視点


夜の渋谷スクランブルスクエア。その屋上から見下ろす街は、まるで静止した未来模型のように輝いていた。玲司は一人、風の中に立っていた。その耳に、ミネルヴァの通知音が届く。


《通話要求:発信者・大谷英樹》


「……ついに来たか」


ビル壁面のビジョンに映し出されたのは、政治家・大谷英樹の厳めしい顔。だがその表情には、怒りよりも焦りが滲んでいた。


『神崎玲司……いや、“深淵”。お前がやったのか。渋谷での映像……私の息子の件……』


玲司は黙っていた。答える必要はない。代わりに、Q'S EYEのディスプレイが切り替わり、映像が再生される。


それは、大谷の息子が強姦未遂を起こした直後の現場記録。そして、それを揉み消す父親の音声。


『……頼む。あれを消してくれ。いくらでも払う』


玲司は静かに問いかけた。


「3億円。仮想通貨で、24時間以内に」


『わかった……だが、これは“交渉”だ。脅迫とは違う』


「あなたにその違いが分かるなら、今の政治家にはなっていない」


通話が切れる。その数秒後、ミネルヴァが通知を発する。


《指定ウォレットに3億円相当の仮想通貨着金を確認。資産目標到達》


玲司は小さく息を吐いた。


「これで……ようやくスタート地点に立てたな」


そして、Q'S EYEのビジョンが静かに切り替わる。30秒間だけ映る、“取引完了”のサイン。誰もその意味を知らない。だが玲司にとっては、これが正義と復讐の新たな幕開けだった。


玲司は通話の切れたビジョンを見上げながら、静かに風を感じていた。スクランブルスクエアの屋上は、都市の喧騒から最も遠く、同時にすべてを見渡す場所だった。


「ミネルヴァ、着金した仮想通貨を資産ウォレットに移動。トレーサビリティ排除処理を即時開始」


《了解。分散化アルゴリズム稼働。取引痕跡を21ヶ国経由で分離処理》


玲司の視線は、下界のスクランブル交差点へと向けられていた。あの交差点に立つ誰一人として、今この瞬間に渋谷の中心で行われた“政治的取引”の存在を知らない。


「正義と引き換えに3億か……高いか、安いか」


彼は、かつての自分ならこうした手段を迷っただろうと考えた。しかし今は違う。正義は純粋な理念ではなく、選択と操作の結果として形づくられる“構造”だと知っていた。


その構造を動かすのは、映像と通貨。誰が見たか、何を信じたか、そしてどれだけの価値を動かしたか。それが今の時代の“裁き”だった。


通話前、大谷からの接触は暗号化されたトンネル回線を通じて届いた。玲司はそれを即座に察知し、交渉の準備を進めていた。


《事前に指定された交渉ビジョン、Q'S EYE、109フォーラム、センター街タワービジョンの3面に分割投影。音声は周波数分割処理により双方のみ聴取可能》


玲司は渋谷を一つの“舞台装置”と見なしていた。観客には何も見えず、演者には全てが可視化されている。交渉の全工程が、あらかじめ設計された演目のように完遂されるのだ。


ミネルヴァの表示が切り替わる。


《指定されたキーフレーズ“払えば済むことだ”を検出。音声データは保管済み》


「念のため、最後の切り札も残しておこう」


玲司はラップトップを閉じ、夜空を見上げた。星は見えないが、都市の灯りが空を照らしていた。


その頃、大谷英樹は議員宿舎の一室で独り、映像の再生を見つめていた。取引は終わったはずなのに、胸の中には得体の知れない不安が残っていた。


「奴は……どこまでを見ている?」


彼には、玲司が単なるハッカーではないという確信があった。未来を見ているような、そういう存在。自分たちが守ってきた秩序の外側から、それを解体しようとする者。


再びQ'S EYEが30秒間だけ点滅する。映像には、暗号化されたサインが表示された。


“END-OF-DEAL 001_Ω”


市民にはただの視覚ノイズにしか見えない。だが、大谷にはそれが明確な“取引完了”の証であると理解できた。


玲司は、屋上の端まで歩き、都市の全景を見下ろした。


「資金は整った。これで、家族を奪ったあの連中に報いを与える準備ができる」


彼の目は、すでに次の標的を捉えていた。


帰路、玲司は渋谷ストリームの裏手にあるコワーキングスペースへと向かった。そこには、暗号資産管理システムとミネルヴァのサブノードを稼働させている専用ブースがある。


仮面を外し、平静を取り戻すと、端末が玲司を迎えた。


《資産達成報告:総資産額3億0120万円。仮想通貨内訳:BTC, ETH, XRP, USDT。すべて匿名化ウォレットに保持中》


玲司はスプレッドシートを眺めながら、次の手順を思考する。


「資産の一部を、非営利団体の影響力買収に使う。特定政治家への資金流入経路をブロックしろ」


《了解。“子どもの権利を守る会”および“渋谷市民法研究機構”のスポンサー名義を取得可能。AI構文で声明文を自動生成》


「それでいい。“正義”の皮を被せて、腐敗の根を切る」


その時、颯太から着信が入った。


「よぉ、金入ったってな。何に使うんだよ、3億なんて」


「社会構造の改変。情報、映像、世論、その三つを動かせば、実力で法律すらねじ曲げられる」


「怖えな、お前……だが、見ててスカッとするぜ。政治家の顔色変えさせてやれよ」


玲司は小さく笑った。


「次は“裏金操作”だ。DHC Channelの内部広告ログ、引き続き調査してくれ」


「了解。俺のAIにもクロールさせとくわ」


通話が切れると、玲司は再び都市を見渡した。


全てが動き出している。資金、情報、協力者、そして何より、自らが生きる“動機”が。


スクランブルのど真ん中に立っていた過去の自分を思い出す。家族を奪われ、正義に裏切られたあの日。もう、あの無力さには戻らない。


《Q'S EYE:映像完了まで残り10秒》


玲司は最後に、Q'S EYEの映像へ指示を飛ばす。


「ビジョンに、“I AM WATCHING YOU”の文字を投影しろ。暗号の中に、俺の意思を込めて」


そして、街に静かに現れたその言葉は、誰にも意味は分からないまま、確かに“何か”を感じさせていた。


それが、玲司の望んだ効果だった。


玲司は渋谷ストリームの窓際に腰を下ろし、ゆっくりとコーヒーを飲み干した。深夜のビル街には、ハロウィンの熱気がわずかに残っていた。すでに映像は切り替わり、何事もなかったかのような広告が流れている。


しかし、玲司にとって今夜は“何もなかった夜”ではない。


「ミネルヴァ、次のプロジェクトの計画を開始。第2フェーズに入る。ターゲットは政治家の“供給網”……資金提供者と広告代理店の相関データを抽出」


《命令受理。対象数:103件。クロスリンク解析を開始します》


情報を繋ぎ、金を断ち、映像で心を揺さぶる。


「都市そのものを、俺のネットワークに組み込む。ミネルヴァ、戦争を始めるぞ」


玲司の声には、ためらいも迷いもなかった。彼が追うのは復讐ではない。それは、“世界の再構成”だった。


そして再び、スクランブルスクエアの高層ビル群のひとつで、微かに輝く“深淵”のロゴが、30秒だけ夜空に浮かび上がった。


誰も気づかぬままに。


第8話終わり



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