第7話
第7話
■神崎玲司視点
ハロウィンの夜、渋谷センター街は仮装した若者たちで溢れ返っていた。魔女、ゾンビ、吸血鬼――誰もが“別の誰か”になりきるこの日。だが、玲司にとっては、現実の顔を暴く夜だった。
「ミネルヴァ、109ビジョンの映写準備は?」
《映写映像を最終チェック中。対象:未来犯罪リストNo.5・内田直樹、No.8・田辺慎吾、No.9・岡本亮。拡散ルート準備完了》
玲司は群衆の中、仮面をかぶった姿で立っていた。彼自身も“匿名の存在”として行動するため、身を隠している。
目の前の交差点に、人々が密集する時間帯。音楽と歓声、カラフルな照明が都市の闇を塗り潰していく。
「映写、開始」
その瞬間、109ビジョンがフラッシュする。3人の顔写真と、簡易な罪状。“未来の罪”として編集された映像が、人々の目に焼き付けられた。
騒然とする群衆。スマホが一斉に掲げられ、撮影と拡散が始まる。
《拡散指数、初動から500%超過。タグ“#渋谷の影”急上昇中》
玲司は小さく息を吐いた。
「群衆は判断しない。ただ、共有された怒りを消費するだけだ」
その流れを、彼は巧みに操っていた。
次に、グリコビジョンの音声チャンネルが起動する。そこから流れ出すのは、合成された“被害者の証言”。
『あの男を見たんです。あの時、公園の裏で――』
感情を込めた声色に加工されたその音声は、人々の感情をさらに煽る。実在しない証言、存在しない被害者。それでも群衆は、疑うことなくその“正義”を信じる。
その頃、警視庁では松永警部補が緊急通報を受けていた。
「渋谷109ビジョンに不審映像? グリコビジョンから虚偽音声……またか」
松永はすぐに端末を開き、ビジョン配信経路のログを確認した。
「また“深淵”……だが、今回の映像、やけに完成度が高すぎる」
彼の指が止まる。仮面の中にいた人物のシルエットが、ほんの一瞬、監視映像に映っていた。
「これは……玲司?」
画面を睨みつけながら、松永は確信に近い何かを感じていた。
一方、玲司は作戦の“着地点”を狙っていた。
《拡散終了。次の操作:ハッシュタグトレンド操作、SNSアカウント“深淵の証人”からの声明を投稿》
「声明文を投下。“これは警告だ。未来は今、始まっている”」
投稿が完了したその瞬間、SNSのタイムラインが揺れた。都市伝説“深淵”が再び世間の中心に躍り出たのだ。
玲司の位置から、109ビジョンに群がる群衆の反応が手に取るようにわかった。笑っていた若者が急に口をつぐみ、仲間とスマホを突き合わせて映像を指差している。
「ミネルヴァ、群衆の視線データと動線をトラッキング。どの映像に最も注目が集まっている?」
《現在の注目率:内田直樹の顔に70%以上の視線集中を検出。特定の衣装グループに感情反応が強い傾向あり》
「……やはり。見た目の“軽犯罪”のほうが、感情に火がつく」
玲司はデータを見ながら、仮装した群衆の流れに紛れて歩き出した。彼が目指すのは、センター街の裏手にあるとあるビルの非常階段。そこから、次の“音声操作”に備える。
階段を上りながら、ミネルヴァに命令を送る。
「グリコビジョン、音声制御コードを有効に。予定の“被害者証言ファイル”を再生」
《命令を確認。音声再生開始まで10秒》
彼の背後では、仮装した人々が何も知らずに踊り、叫び、笑っている。その混沌が、逆に“演出効果”を高めていた。
やがて、頭上のスピーカーから、女性の声が流れ出す。
『私は知っている。あの男が私を見ていた――』
震え混じりの声。過度にリアルな間の取り方と、息遣い。全てが合成音声だとは、誰も気づかない。
その声が交差点全体に響いたとき、人々の反応が変わった。最初は笑っていた群衆が、次第にざわつき始める。スマホを握りしめる手が強まり、SNSの投稿が一気に増え出した。
《感情反応曲線、急激に上昇。怒りと恐怖の複合的反応。映像認識率がピークに到達》
玲司は静かに呟いた。
「言葉が“真実”の代わりをする。それが群衆心理の盲点だ」
その頃、警視庁の松永警部補は、自席のモニターで渋谷のライブ映像を監視していた。全ての動作が、意図された“構成”のように感じられるほど、滑らかに情報が動いていた。
「これは……もはや犯罪ではなく、“構造”そのものだ」
彼はため息をつき、ふと映像の中のある男のシルエットを拡大した。
「この歩き方、この姿勢……玲司、まさかお前が」
その疑念が、再び彼の中に沸き上がる。だが、決定的な証拠がない。
一方、玲司は最後のフェーズに入っていた。SNS上に“深淵の証人”名義の投稿を行う。
《投稿完了。“これは警告だ。未来は今、始まっている” インプレッション数、初動10分で30万件突破》
「ミネルヴァ、ハッシュタグ“#仮面の証人”を強調キーワードに追加。投稿の内容を自動的に反応文に変換しろ」
《了解。関連タグを自動リツイート、自動生成AIがトレンド補完を実行中》
玲司の目の前で、ネットの“世論”が形を変えていく。誰が何を言ったのか、真実はもう意味を持たない。ただ、語られた内容が“正義っぽく”あれば、それで成立する。
「虚構で真実を上書きする。今はそれが、唯一の正義なんだ」
ビジョンが沈黙したあとも、交差点のざわめきは止むことがなかった。
玲司は、道玄坂の裏手にあるビルの影に隠れながら、群衆の反応を監視していた。いくつかの仮装集団が、映像に映っていた内田直樹を街中で探し回る様子が見える。SNSには、彼に似た人物を“見た”という投稿が相次いでいた。
「この街の“正義”は、可視化された時点で独立する」
彼はそう呟きながら、今夜の作戦がもたらす“副作用”についても考えていた。
《予測外の市民行動を検知。109前で内田直樹と似た服装の男性に対し、数人が取り囲み中。警察が現場に急行中》
「やはりこうなるか……」
ミネルヴァの中には、すでに“過剰反応モデル”も組み込まれていた。だが、それを止めるという選択肢は今の玲司にはなかった。
「これは“テスト”なんだ。次に来る、本当の地獄に比べれば」
彼の記憶には、未来に起きる“都市型群衆暴動”の断片がこびりついていた。映像、音声、感情を誘導することで、人はどこまで正義を振るうのか。今は、その限界値を測っているに過ぎない。
少し離れたところで、橘颯太がイヤホン越しに話しかけてくる。
「おい、そっちの反応ヤバいぞ。グリコ側の音声に反応したヤツが通報してきた。“幻聴かも”ってな」
「幻聴? それで通報か……面白い」
「お前、他人事みたいに言うなよ。もうちょっとで都市伝説が都市災害になるとこだったぜ」
玲司は笑わなかった。ただ、低くつぶやいた。
「それでいい。“深淵”は、恐怖と混乱の中に本物の真実を混ぜ込む。そうやってしか、この国は変わらない」
颯太の声が少し沈んだ。
「……お前、変わったな。昔の警察だったお前なら、こんなやり方は許さなかったんじゃねぇのか」
「昔の俺は、家族を守れなかった。今の俺は、家族のような誰かを守るために、倫理を捨てる」
玲司の言葉に、颯太はそれ以上何も返さなかった。
その夜、渋谷の空は派手なネオンと仮装パレードで彩られ、誰もが笑っていた。
だがその裏側で、正義という名の暴力が、静かに歩き始めていた。
第7話終わり