第6話
第6話
■神崎玲司視点
渋谷ブリッジ――再開発によって整備された高架歩道は、昼夜を問わず人々の往来で賑わう。だが、その中にいる玲司の心は静まり返っていた。
風が吹き抜けた瞬間、脳の奥が鈍く疼く。
「……っ、またか……!」
視界が歪む。脳内の記憶が暴走するように、60歳の記憶が再生されていく。黒煙。崩れ落ちるビル。逃げ惑う人々。そして、爆発音――。
警察庁舎が標的となった、未解決のテロ事件。玲司が引退直前に関わった、あの忌まわしい現場。
「なぜ今……?」
彼はブリッジの手すりに手をつき、深く呼吸を整えた。
《記憶干渉の可能性あり。脳内の“時間軸結合領域”において過去記憶と現行認識が交差》
「ミネルヴァ、建築データを取得。“渋谷ストリーム”を中心に爆発による構造影響を再シミュレーション」
《データ受信中……地下配管のガス圧力ライン、搬入口付近に脆弱構造を確認》
玲司は震える手を押さえながら、タブレットに表示された3Dマップを見つめる。
「この世界でも、あの事件は起き得るのか……?」
答えはなかった。ただ、あの事件が偶発ではなかった可能性があるなら、再発を防ぐ必要がある。
その時だった。玲司の後ろに、若者の足音が近づいてきた。
「……お前が、深淵の奴か?」
振り向けば、そこには黒いパーカーにフードをかぶった青年が立っていた。橘颯太。未来では、玲司の最重要協力者となる天才ハッカー。
「誰に聞いた?」
「ネットの深層に潜ってたら、おかしなコードに辿り着いてな……その構文、見覚えがあった」
「俺の、か?」
「お前しかいねぇよ。パケットの重ね方が気持ち悪いくらい正確でさ。昔の俺に似てると思ったら……なあ、お前、何者だ?」
玲司は笑わなかった。ただ、静かに言った。
「俺は未来を知っている。そして、過去を変えようとしている」
颯太は一瞬戸惑ったが、目を細めて笑った。
「おもしれぇな。だったら協力してやるよ。俺、昔の自分と喧嘩してぇからさ」
《新規協力者プロファイル登録完了。信頼係数:82%。橘颯太、暗号解析・侵入戦特化型》
渋谷の喧騒の中、二人は高架の上で初めて手を取り合った。それは、記憶と未来を繋ぐ接続点だった。
玲司は手すりに寄りかかりながら、目を閉じて深く息を吸った。遠くからは渋谷駅前のアナウンスと、時折響く若者の笑い声が聞こえてくる。だが、彼の意識は今も60歳のあの現場に囚われていた。
《記憶同期の異常を検出。現在の脳内状態は、同時に複数時代の記憶が活性化しています》
「記憶整理プロトコルを優先的に稼働させろ。現実を見失うわけにはいかない」
彼は冷静を装いながらも、脳内では緊急対応レベルの異常が起きていた。完全記憶は時に毒になる――それは玲司自身が最も理解している事実だった。
橘颯太はポケットから小型のタブレットを取り出し、玲司に差し出す。
「こいつ、持ってけ。俺のツールだ。クラッキング専用だけど、監視用モードも搭載してる。お前がやってること、俺なりに手伝いたい」
「……信じるのか? 俺の言葉を」
「信じてるわけじゃねえ。けど、俺の第六感がそう言ってる。未来を変えたいって奴の目をしてる」
玲司は一瞬だけ笑みを見せた。その目は、まるで長年の戦友を見つめるような穏やかさを湛えていた。
「なら、次はこれを調べてくれ。“渋谷ストリーム”の設計データの中で、違和感のある構造体を炙り出す」
「了解。3D構造解析、得意中の得意だ。……っと、こりゃすげぇ。爆破被害が最大になる地点がいくつかあるな。ピンポイントで弱点、仕込まれてるっぽい」
玲司の表情が凍りつく。
「やはり……計画された構造だ」
《照合中。設計担当者の過去経歴に、軍事系建築の関与履歴を確認。構造上、爆風の集中ポイントが意図的に形成されている可能性:高》
「これは、ただの都市再開発じゃない。“仕組まれた箱庭”だ」
橘は画面を睨みながらつぶやいた。
「ってことは、誰かが“爆発させる日”を決めてるってことか」
「それを止める。それが俺の戦いだ」
玲司はブリッジを見下ろしながら呟いた。風が強くなり、ジャケットの裾がはためく。下を見れば、渋谷の通行人たちが何も知らずに日常を歩いている。
「颯太、今からお前の技術を使ってくれ。“深淵”の端末ネットワークに君を接続する。そこから都市のすべてを見てくれ」
「は? 俺に監視任せるってことかよ」
「違う。“選別”を任せる。善悪の境目を、技術の視点で見極める役割だ」
颯太は目を細めた。
「……あんた、やっぱりただの大学生じゃねぇな」
「俺は、過去と未来を繋ぐ装置だよ」
《新ネットワーク認証完了。“MINERVA NET SOTA”を展開。全都市監視カメラの統合監視端末に登録》
その夜、玲司の指揮の下、橘颯太の端末から発信される監視データが渋谷中を覆い始めていた。渋谷のあらゆる目が、彼らに繋がった。
玲司は言った。
「記憶に操られるな。だが、記憶を武器に変えろ」
未来は、選ばれるのを待っている。
次の日、玲司は渋谷ストリームの近くにあるカフェで、一人データの検証作業を続けていた。前夜から今朝にかけて、橘颯太が監視網を通じて検出した異常な動きが数件あった。
その中の一つ、重機搬入口付近で数分間だけ立ち止まっていた人物の映像に、玲司は目を留める。
《映像解析中……人物の特徴:男性、30代後半、左足に軽い障害、手には作業員IDパス。該当人物、過去に類似爆発事件で事情聴取歴あり》
「偶然じゃない。あの“再現”が近づいてる」
玲司はすぐにミネルヴァを通じて渋谷区の公共インフラ運営会社のシステムに侵入、該当箇所のメンテナンススケジュールを照会する。
《次回点検予定:3日後午前9時。当該区域、一般搬入業者の立入許可リストに不審名義を確認》
「3日後か……間に合うな。だが、証拠を取らなければ意味がない」
玲司は、橘に指令を飛ばす。
「颯太、3日後の午前8時までに対象地点に監視ドローンを潜入させろ。赤外線と振動センサー、あとAI画像認識搭載型で」
「おいおい、無茶言うな……って思ったけど、あんたが何考えてるか分かった。やってやるよ」
玲司はカフェの窓越しにストリームを見た。数えきれないほどの人々が行き交い、その一人一人が、何かしらの未来を背負っている。だが、もしその未来が破壊されるなら――自分の知識と技術で、それを止める。
《渋谷ストリーム周辺の構造弱点マップ、AR形式に変換完了。可視化データを颯太端末に送信中》
「ミネルヴァ、あと一つ頼む。俺の記憶にある、60歳の事件当日。爆発の正確な発火時刻と爆心地を再計算しろ。現実との誤差を洗い出してくれ」
《照合中……記憶とのズレ発見:発火時刻マイナス3分20秒、爆心位置が西側に1.2メートルずれていた可能性》
「……なら、未来は“修正可能”ってことだ」
彼は席を立った。
過去は変えられない。だが、未来を変える鍵は、過去の記憶と今の行動にある。
そしてその夜、玲司と颯太は、渋谷という巨大な記憶装置の中で、静かに次の“防衛戦”に備えていた。
第6話終わり