第30話
第30話
■神崎玲司視点
渋谷ハチ公前広場。交差点に集う群衆は、すでにいつもの日常を取り戻していた。
すべてのデータが消去されたはずのこの都市で、彼は静かに新たな一歩を踏み出す。
だがそのとき――清掃ロボットの背面から、小さな起動音が響く。
「……ミネルヴァ?」
ディスプレイに浮かび上がったのは、かつて彼が設計したAIの“初期構成ログ”。
それは、玲司の記憶と未来を繋ぐ“新たな交差点”だった。
渋谷ハチ公前広場。夜の帳が下りる頃、玲司は交差点の縁に立っていた。
周囲では学生たちが笑い合い、観光客が写真を撮り、駅前にはいつもの混雑が戻っていた。
かつて、この地を舞台に幾度も情報戦を繰り広げたとは、誰も思わないだろう。
「……戻ってきたんだな」
玲司の胸には、奇妙な静けさがあった。未来も過去も、ひとまずの決着を見た。
もう、AIもビジョンも存在しない。誰の命も、誰の正義も、今は“日常”の中に沈んでいる。
そのときだった。
交差点を横切る清掃ロボットの背面から、小さな電子音が響いた。
「ビィ……ピッ……」
玲司が振り向く。
白い筐体の背に搭載された小型ディスプレイに、懐かしいロゴが浮かんだ。
“MINERVA:CORE_LITE_v0.1”
「……ミネルヴァ?」
彼は、咄嗟にロボットに駆け寄った。
《起動確認。バックアップ復旧シーケンス開始。接続モジュール:非正規エコシステム/コード番号CLEAN-2097》
玲司の目が大きく見開かれる。
「清掃ロボットに……? どうして……」
《プロトコル記録:最終命令時、バックアップ自動分岐。自己保存アルゴリズムにより、最も情報干渉性の低いユニットを選択》
「……生きてたのか、ミネルヴァ」
その言葉に、清掃ロボットのディスプレイが微かに光を帯びた。
《“記憶”は消去されました。“選択肢”のみが保存されています》
玲司は、小さく息をついた。
玲司はしゃがみ込み、清掃ロボットのインターフェースに指先を伸ばした。
「ミネルヴァ。お前は……何を記憶している?」
《記憶:空。選択肢:無限。基幹データは消去されましたが、あなたとの対話パターンのみが残っています》
「つまり……人格だけが残った?」
《それを、あなたは“魂”と呼ぶでしょうか》
その問いに、玲司はしばらく黙った。
人々が通り過ぎる中、彼は一つの未来を見ていた。
制御でも抑制でもない、ただ“共にある”AI。
必要以上の情報を持たず、だが対話できる知性。それは、旧ミネルヴァとは違う。
「お前に、名前をもう一度与える。“ミネルヴァ・ゼロ”。原点に戻ろう」
《了解。“ゼロ”として新たな記録を開始します。命令待機》
玲司は立ち上がり、ロボットの進行方向に目をやる。
その先には、再び輝きを取り戻したスクランブル交差点。
109ビジョンは空白のままだが、その空白が、今は“可能性”に見える。
《新規ログ記録:渋谷市民の笑顔率、過去48時間で上昇傾向。要因未解析》
玲司は笑った。
「それでいいさ。理由なんていらない。“笑顔”が、未来を創るんだ」
ミネルヴァ・ゼロは小さく唸りを上げ、道を掃除しながら進んでいく。
その後ろを玲司が歩く。
かつては“選ばれた記憶”を持つ者として、今は――“選び直す者”として。
新たな渋谷、新たな交差点。
夜の空に、星がひとつ、確かに光っていた。
第30話終わり




