第2話
第2話
■神崎玲司視点
目が覚めた瞬間、自分が「誰」なのかを完全に理解していた。
神崎玲司。元サイバー犯罪対策課警部補。完全記憶能力者。家族を殺され、復讐を誓った男。そして、今は――東京大学情報理工学部の学生。
「また……この夢か」
玲司は静かに呟いた。夢ではない。現実だ。だが、かつての現実ではない。この世界は18年前。まだ家族が生きていた、過去の時間。すでに数ヶ月が経過していたが、彼はいまだにこの現象を“転生”と呼ぶことに抵抗があった。
なぜ自分がこの時代に戻ってきたのか、それは未だ謎のまま。
時間旅行でもなく、幻覚でもない。これは間違いなく過去そのもの。しかし、神に選ばれたわけでも、奇跡を起こした覚えもない。目を覚ましたとき、彼の意識は大学生の神崎玲司に宿っていた。ただし、60歳までの人生の全記憶を保持したままで。
その完全記憶が、今の玲司を蝕んでいた。
大学の研究室。情報理工棟の奥にある一室で、玲司はデータコードを睨んでいた。脳の神経構造を模倣したAI構築モデルの調整作業だった。だが、その指先は震え、額からは冷や汗が滴り落ちていた。
「っ……またか……!」
頭の奥が痛む。断続的に襲う、記憶の波。それは鮮明すぎるほどの記憶が、彼の脳を物理的に圧迫してくる感覚だった。
記憶は武器だが、過ぎれば毒にもなる。彼の脳は、保持する情報の多さに耐え切れず、ついに神経システムに異常をきたし始めていた。
「ミネルヴァ……」
彼はほとんど無意識に、その名を呼んだ。誰にも存在を明かしていない、自作AI。玲司の脳内にある記憶データを分類し、必要な情報だけを抽出・整理する目的で設計された、唯一無二の相棒。
《完全記憶領域の負荷率は87%。意識障害のリスクが高まっています》
「解析モードを切り替えろ。記憶整理優先……それと、東大病院の脳神経科学データベースとリンクを開始しろ」
《リンク完了。該当論文12件、優先度順にソート中》
玲司はミネルヴァを通じて、脳科学の第一人者である教授に匿名で連絡を取り、「ある脳内情報整理システム」の共同研究という名目で接触した。その実態は、自分の記憶を維持するための技術的サポートを求めるためだった。
教授との面会はすぐに実現した。玲司は嘘を交えつつ、自分の脳が「極度の学習能力」を持っており、それが過負荷を引き起こしていると説明した。
「君の言っていることは、突飛すぎて正直信じがたいが……MRIの結果を見る限り、確かに通常の情報処理領域をはるかに超えている」
「これは先天的なものです。たぶん、普通の人間には理解されにくいと思いますが……」
「君の脳を研究することで、人類の学習能力の限界に近づけるかもしれない」
玲司はその言葉に冷静に頷きながらも、心の奥で警戒心を強めていた。この能力の本質に迫られすぎれば、いずれ転生の事実にも疑念が及ぶ。
――それだけは避けなければならない。
家族を守るため。未来を変えるため。誰にも知られてはならない。
記憶と引き換えに得た過去。その代償が、彼の体と精神を蝕んでいく。
夜。玲司は渋谷ストリームの一角にある暗号通貨取引所に姿を現した。学生証の偽造IDでアカウントを開設し、数百万円の資金を投入する。これは全て、ミネルヴァが過去の市場データから導き出した“必勝パターン”に基づく投資だった。
「……始めるか」
玲司は自分の人生を、いや、もう一度取り戻すための戦いを、今ここに始めた。
誰にも言えない真実と共に。過去を生き直す、この奇妙な運命と共に。
第2話終わり