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「夜のエレベーターで、」
ビルの最上階まであと少し。
深夜のエレベーターには、私たちふたりきりだった。
軽い沈黙のなか、私は彼と壁の間に立っていた。
ふと、彼がこちらに顔を寄せてくる。
耳もとすれすれに、囁く声。
「髪、いい匂いする」
一瞬、何を言われたのかわからなくて、体がびくりと反応した。
そのとき、彼の指先がそっと私のこめかみにふれた。
かかっていた髪を、まるで邪魔そうに、でもやさしく、払うように。
ふれているのは、ほんの数本の髪。
それだけなのに、肌にまで触れられたような、じりじりした感覚が走った。
髪をなぞる指の爪、かすかな爪先。
触れるでもなく、撫でるでもない、境界線ぎりぎりの動き。
息を飲むと、エレベーターが一度、軽く揺れた。
その拍子に、彼の顔が、さらに近づく。
鼻先に、かすかに彼の匂いが触れた。
開きかけたドアの向こうに、現実の世界があった。
でも私は、そのわずか数秒、ドアが開くまでのあいだ、
彼の指と、熱と、香りに、溺れていた。