潜入
「リルカ」
出掛けようとしていたリルカを呼び止めたのはリルカの父だった。家の経営の立て直しで多忙な父は、家を空けることが多く、在宅しているのは珍しかった。
「出掛けるのかい?」
「ええ、ちょっと。コルアに呼ばれていて」
その勉強会についてで、と言い訳のように伝えると、父は心配そうな顔をした。
「勉強熱心なことは嬉しいが、この所色々あっただろう。あまり詰め込みすぎてもいかんよ。…とそうさせている一因である私が言えたことではないか…」
「いえ!私は毎回楽しく勉強させていただいています!」
「それならいいが…。そういえばルイス卿の方も色々あって、塾は当分休みになったのではなかったか?」
「ん!?…その色々と復習をね、しないと追いつかないのですよ。なにせスパルタ教師ルイス卿ですから」
乾いた笑みをするリルカに、大変なことがあったのに熱心だな、と心配とも呆れともつかない相槌を打つ。
…ルイス卿の事で力になれないかと、裏でコルアと調査中です、なんて伝えれば強く反対されるに決まっている。ただでさえ、色々な事件に巻き込まれたリルカを心配して外出する度に、家族の1人は何かしら言いに来るのだから。
「ルイス卿のところで学んだことをこちらに伝えてもらうのは私も嬉しいよ。少しずつうちでも取り入れられないかと、小規模ながら参考になる上、真似できることも多い。ただ、リルカが倒れては元も子もないからな、無理はしないように」
「はい。父様」
罪悪感でリルカは胸が痛くなった。父にはああ言ったが、今は勉強より、あの人の為に何かできないかと走っている部分が大きいからだ。あの人が笑って、安心して過ごせるようになれば良いのに、なんて。こんな状況でも、想ってしまう。
「そういえば、ルイス卿は大変らしいが、元気かい?もうすぐいい話が纏まりそうとか、言っただろう」
「あ、」
そうだ、あの話の事をすっかり忘れていた。思い出してリルカの頬が赤くなる。
あからさまに顔を赤くしたリルカに、どうした、と父が不審そうな声をかけるが、リルカは赤い顔で何でもないです、と適当に答えた。
何も言わずに浮かれた様子の娘を、父はずっと不思議そうな顔で見ていた。
「――鍵?」
コルアに呼び出され、向かった先はコルアの家の別邸だった。
立て続けに事件に巻き込まれたのもあり、「外では誰が聞いてるか分からないから」と案内されたのは別邸のテラスだった。広い庭だが、柵の少し向こうで通りの人が歩いている様子が見える。使用人も遠くにいるので、婚約していない男女同士でも安心できる空間だった。
目の前のテーブルに置かれたものは小さな鍵だ。
「この鍵は、一体…?」
リルカの問いに、コルアがものすごく言いづらそうな空気を出した。
「実は……ルイス卿の屋敷で預かって…」
「え?コルア、ルイス卿の屋敷に行ったの?鍵はルイス卿から預かったってこと?」
首を捻りながら、小声で「いや…その…」と俯いた。いつものはっきりとした口調とかけ離れている彼は珍しい。
話し出すのを待っていたら、小声でルイス卿の屋敷に向かい、仲介人と奥方の事を話し出した。その様子はさながら、子どもの隠し事が発覚した時に似ていた。
「そう。その事もあってルイス卿は仲介人だったディルド・グレイの事を最初から知っていたのね」
「誘拐未遂事件が起きる前からね」
「今も仲介人の事を調べていてくれてるのかもね…」
コルアは何も言わずに、頷いた。リルカに話したことは仲介人とルイス卿の奥方との件だけだった。
「それで鍵は?」
再びコルアは渋面になったが、口をごもらせながら「そ、その」と説明する。
「ルイス卿の屋敷の方からお預かりして、」
「屋敷の方?ルイス卿本人からではないってこと?」
「……ルイス卿本人はこの鍵を知らないと思う」
という事はよほどの物らしき鍵を、使用人の誰かがコルアに託したということなのだろうか。
「この鍵は何の鍵なの?」
「………」
「コルア?」
「……ルイス卿の奥方の、部屋の中にある物の鍵だって」
鍵を二度見した。奥方の部屋の中にある物という事は、考えられるものも絞られる。
「鍵を預かってから、職人のところに行ったんだ。その鍵は特注のようだからメーカーの名前も彫られてなかったけど、使われている用途はそれだろう、と言われたよ。多分、リルカが想像しているものと同じだ」
「………」
「リルカ?」
リルカは無言で立ち上がっていた。そのまま鍵を持って出ていこうとするので、コルアは慌ててリルカの腕を掴んだ。
「リルカ?まさか行くわけじゃないよね?」
「そのまさかよ」
にっこり笑って振り返るリルカの目は笑っていなかった。止めても無駄だからね、と腕を組んで主張する。
「簡単に通してもらえると?」
「大丈夫よ、きっと。だって、」
コルアに向かって少し大げさな動作で、親指を立てた。
「鍵を託した人は使用人の中でも相当な人だって、コルアの様子から分かったもの」
リルカはコルアの雰囲気から、どう足掻いても断れなかったと察し、依頼人は信頼できる相手だと踏んだのだ。
どう言っても聞かない様子のリルカに、コルアは敗北感のようなものを感じ、あきらめのため息を吐き出した。
向かった先はルイス卿の郊外の別邸だった。噂の奥方が住んでいると聞いた屋敷は、王都内とはいえ、自然が豊かでのどかな地区に建っていた。王都の屋敷よりこじんまりとした別荘風な建物で、門からは美しい花々が庭を彩っているようだ。
門の前であちこち物色しているリルカを置いて、コルアは建物の横の隙間に向かっていく。
「コルア!どこに行くの」
「こっち」
付いていった先は、蔦に絡まれている扉の前だった。コルアが不思議なリズムのノックをして、数秒。扉から顔をのぞかせた人物に驚いた。
「あ、本当にいらしたのですね」
「ええ、まあ」
笑顔で扉を開け、中に入るよう促したのはリルカの危機を何度も救った、あの眼鏡の男性だった。
ご案内しますね、とリルカたちを先導する眼鏡の男性は執事の服を纏っていた。依頼人とはこの人の事だろうか。
「コルア、どういうことよ」
大きな声で話せない空気なので、コルアの耳元に顔を寄せ、説明を求める。
息を吐きながら、コルアは少し考える素振りを見せた。
「見ての通りだよ」
「ってことは、」
「鍵を渡されただけでは、果たせないからね。色々」
案内された場所は、使用人の更衣室のようだった。現れたメイドから渡されたのは、ハウスメイドとフットマンの制服だった。
「屋敷内では目立ちますので、こちらの服に着替えてください。今、奥様は不在ですので、今のうちにお部屋にご案内いたします。あと、ご承知の上でしょうけど、くれぐれも、目立つ行動はしないように」
誰の事を指しているのか丸わかりの言動に、リルカは顔を顰め、コルアは笑った。
制服に着替え、眼鏡の男性を先導に屋敷の奥に進んでいく。外観の様子と裏腹に、広く長い廊下が続いていく。富豪の家は別邸でも立派だと感心して歩いていたところに、別のフットマンが駆け寄ってきた。
「執事長、奥様がご帰宅です」
リルカたちの顔が強張る。執事長と呼ばれた男性はフットマンにすぐに向かうと伝え、リルカたちに振り返った。
「私は奥様を出迎えなければなりません。少しの間、奥様を引き留めるよう努めますので、その間にお部屋へ」
「でも、」
「大丈夫ですよ。」
眼鏡の男性は目的の部屋の位置を伝え、柔和な面持ちで2人を安心させるように微笑んだ。
「奥様を、どうか宜しくお願いいたします。」
その声音は、誰かを案じてか、少し震えているようだった。
美しいー礼をし、眼鏡の男性は足早に去っていった。
怪しい人がいっぱい!な感じですが、そうでもないですよー(きっと)
リルカたちに貸し出した制服はメイドとボーイのものです。モデルはイギリスのヴィクトリア朝のものですね。