実業家の噂
外には夜の暗幕が広がり、街は息をひそめたかのように静まり返っていた。音も消えつつある街のとある一室では、窓から蝋燭の灯りが漏れていた。机に置かれた蝋燭を挟み、2人の男女が話し合っている。
「伯爵」
女性は暗闇に溶けるような、漆黒の衣装を身に包んでいた。手元の扇で顔も隠されているが、雪のような白い肌と緑の瞳が蝋燭の灯りを受け、闇の中で発光しているかのようだ。
「私はお役に立てました?」
女性の言葉に、男は小刻みに笑った。
「ええ、夫人。十分にすぎるほどですよ」
男は我慢の限界といわんばかりに、身体を震わせ哄笑した。
机に置いてあった書類を持ち上げ、ゆっくりと頷く。
「これで事を起こせますよ」
劇場での一件から数日後。リルカは一人、いつものカフェにいた。
あれから数日経ったが、ルイス卿と会えていない。色々と立て込んでしまい、しばらく勉強会ができそうにないと連絡をうけたばかりだった。
そんな折にコルアから、しばらく勉強会がないなら知り合いの実業家のところへ視察に行かないか、と誘いを受け、カフェで待ち合わせることになった。時計を見れば、もう間もなく待ち合わせの時間になる。コルアももうすぐお店に来るだろう。
店の扉のベルが鳴った。コルアではなく入ってきたのは数人の女性客だったので、コルアを待つ間は手持ちの本でも読むことにする。
本を開き、目で数行を追うがなかなか頭に入らず、気づけばため息を吐いてた。
勉強会の連絡と一緒に、劇場の一件でルイス卿から「夫人が迷惑をかけた」と謝罪があった。しかし、詳細についてはルイス卿も知っているわけではないようだった。
夫人がなぜゲスロルド伯爵といたのか、リルカには分からない。ただ、夫や家族を悲しませる行為をする夫人を許せないとは思う。
他にも数人男性といた噂も出ているが、ルイス卿はどう思っているのだろう。
彼の顔を思い浮かべ、胸に、爪を深く食い込ませたような痛みが走った。
リルカが痛みで顔を顰めた、その時だった。
「そういえば、ルイス卿と奥様の噂はお聞きになりました?」
声がした方向を見ると、先ほどの女性客たちだった。紅茶を飲みながら、世間話の続きを話しているだけ、といった素振りだ。
「ルイス卿?」
「奥様とのことで?」
「最近聞いた話なのですが、」
リルカは静かに聞き耳を立てた。
「なんでも、ルイス卿のお子様が別の方との子どもではないか、と言われてるみたいで」
女性客たちの驚きの声があがった。周りの客たちも女性たちの声に、何事かと視線を向けた。
「奥様が!?」
「ルイス卿ではなく別の?」
「詳しくは分かりませんが、お子様がルイス卿にまったく似ていないみたいでして。その上、夫婦仲も悪い噂ばかりでしょう?ルイス卿の噂は全く聞きませんが、最近出始めた奥様の噂は評判が下がっていく一方なのもあって。」
ルイス卿がお可哀想だわ、という声を皮切りに、夫人の悪い噂が出始めた。ゲスロルド伯爵と劇場にいたことも知られているらしい。
話していた女性の一人が何か思い出したような仕草をした後、別の話題を振った。
「ルイス卿といえば、その伯爵の件で大変らしいですわね」
女性客たちはそうみたいですわね、と頷き合っているが、リルカには何のことだかさっぱり分からない。女性客の一人は、周りを見回し「何のことか分からない」という顔をしていた。
「何のことでしょう?」
「あら、ご存じありませんでしたか。ルイス卿の事業は今、買収の危機らしいですよ」
紅茶のカップを見つめていたリルカは、驚いたように表情を止めた。
女性客たちは頷き合う。
「なんでも、ゲスロルド伯爵が買収を提案しているだとか」
「その金額がまたすごいらしくて」
「ゲスロルド伯爵はお金を持っていることは有名ですが、ルイス卿の事業を買収できるほどとは意外でしたわ」
リルカは勢いよく椅子から立ち上がった。会計を手早く済ませ、扉に向かったところに窓の向こうからコルアがやって来るところが見えた。
店を飛び出し、コルアの腕を掴んでリルカは走り出した。
「ああ、あの噂ね。どうも本当らしいな」
目の前の男性が口火を切った。コルアと共にやってきたのは、元々予定にあった視察先の実業家の部屋だ。
同じ経営に携わる実業家なら、より詳しい内容を知っているのではないかと考え、走りながらコルアに説明し、今に至る。
なお、行き先はリルカが走った方向と反対であったため、2人はだいぶ疲弊している。
「本当って、ルイス卿の事業が買収されそうなことですか?」
リルカはまだ息切れを起こしているが、コルアは平然としている。
小太り気味の実業家は頷きながら、新聞を取り出した。
「今朝の新聞に書いてあった通りだ。伯爵がすごい金額で買収を提案しているらしいな」
新聞の一面を広げ、ルイス卿とゲスロルド伯爵の件について説明してくれた。
実業家の話を簡単にすると、ゲスロルド伯爵は他の経営者と共同でルイス卿の会社を買収しようとしているらしい。今回の買収騒ぎは、双方の事業連携を狙ったものでもなく、前触れのない敵対的買収の提案だったようだ。
「で、提示された額もなかなかのもんらしい。他の実業家と共同とはいえ、俺も感心するほどの金額だな」
新聞には掲載されていない、買収で提示された金額を聞きリルカは目玉が飛び出るかと思った。ベネフィット家の目標年間売り上げの数十倍どころではない。
「そ、そんなお金、あの伯爵が持ってるわけないじゃないですか!?」
「共同での提示金額だ。でも確かに変なんだよな。」
数ある実業家の中でもルイスの坊ちゃんくらいしか出せないような額なのにな、と実業家も首を捻る。
机の引き出しを開け、閉じられていた資料を手にし、伯爵の経営状況の欄を開いた。
「今までの記録から見ても、伯爵たちが結集しても、掲示したあの額には届かない。だが、噂では」
実業家が真剣な表情をしながら顔を上げる。
「とある人物が買収に協力し、裏で支援金を送ったのではないか、と言われているな」
リルカたちの脳裏に浮かんだ人物は一人、常に黒を纏った人だ。
眉を顰めたリルカたちを見て、思い当たるようだな、と実業家も目を伏せる。
「あの人が?なんでそんな」
「さあ。あくまで噂だ。元々良くない噂はあっただろ。だから可能性が一番高いのではないかってな」
信じられない気持ちでいっぱいのリルカに、実業家は続ける。
「あの人も実家が相当だからな。その支援金があれば、伯爵たちの提示額に届くだろう」
棒で頭を思い切り殴られたかのように、頭が痛くてくらくらする。リルカが信じたくないだけかもしれないが、現実味を感じられない話だと思った。
駆けた疲れとはまた違う疲れを感じた。
「さっきの話が、全部本当かどうかは分からないよ」
帰り道、急に足を停めたコルアが突然言い出す。
リルカの沈んだ顔見て、一瞬だけ、同じように沈んだ顔をしたが、苦笑に近い笑顔を作った。
「さっきの人もすごい実業家ではあるけど、今回のことは噂程度しか情報を持っていなかった。だから、確信ではないよ」
慰めてくれているのだな、とリルカは感じた。ここ数日、劇場の一件の前から、リルカはずっと胸を痛めていた。それをコルアがずっと、気にかけてくれていたことに、気づいていた。
「……そうね」
劇場での夫人の言葉がずっと引っかかっていた。彼女は、夫に思いを寄せるリルカに気づいた上で、あの台詞を言ってきたのだろう。けれど、何か別の意味も含まれているのでないかと思う。
どちらにしろ、恩人の危機に、リルカが黙ったままでいるわけにはいかない。
リルカは意を決したような面持ちで、自分の考えをコルアに話しはじめた。