邂逅
「見間違いじゃない?」
飲み物を注文する列に並びながら、事もなげにコルアが言い切る。あの光景を目撃してからというもの、数日悩まされていたリルカとしてはコリアの無頓着ぶりに腹が立つ。
「直接見てないからそう言えるのよ!」
「確かに、僕が見た時は既に建物に入ってしまった後だったけど。あんな美しい人がそんな事するものかな」
リルカたちが注文する番が回り、コルアは「コーヒーとお茶を」と勝手にリルカの分も注文し、会計まで済ませてしまう。口を挟もうとしたリルカは、「色々とお世話になってるしね」と笑って言われ、何も言えなくなった。
「まあそんな事は、今は忘れて。せっかくルイス卿が快気祝いに劇を勧めてくれたのだから。今日は目一杯楽しもうよ」
コルアの怪我が全快した事を祝い、ルイス卿が有名な劇作家による舞台を勧めてきたので、今日は2人で劇場にやってきた。王都一の劇場は多くの人で賑わっており、演目は男女の恋と魔法が絡み合う物語だ。
「たまには勉強を兼ねた視察以外で楽しんでこいだって。このボックス席はルイス家がシーズンで取ってるらしいよ。」
「この劇を見に行くと言ったら、母も姉も羨ましいと言ってたわ。この女優、本当に凄いのよ!綺麗なだけでなく、歌もこう、胸にくるような...」
「でた出た。リルカの面食い」
可笑しそうに笑うコルアに、噛みつこうとした時、幕開けの合図が鳴った。
物語は4人の若い恋人たちを中心に展開する。恋人たちは妖精の魔法の力で恋心が入れ替わり、妖精たちに翻弄されながらも、夢と現実が交錯していく。
『惚れた目で見ると,たとえ卑しくても下劣であっても立派で堂々としたものに見えるのよ。
恋は目ではなく,心で見る。
だからキューピッドは,空高く飛べる翼があるけれど,その目は目隠しをされている。
キューピッドは,気まぐれで,冷静ではいられない子どもの姿をしている。
そして,キューピッドは恋の神様なんだって--。』
幕引きと共に歓声と拍手が会場中に鳴り響く。薄暗闇の中でも分かるほど頬を紅潮させたリルカは興奮しながら力強い拍手を送った。
「やっぱり主演の歌声はすごかったわ...!あの歌唱力に演技の素晴らしさ!後援会に入会したい気持ちも分かるわ...」
席を離れた後も、高揚した気分に浸るリルカは、目を潤ませながら口元を手で覆った。
その幸せそうな表情に、コルアもつられて笑みを浮かべた。
「すごいドタバタ喜劇だったけどね。確かに聞き惚れるような歌声だったよ」
「音楽に疎いコルアでも分かるくらいだから相当よね!楽団の演奏も......わっ!」
突然、人と衝突したリルカは勢いよく転倒した。薄暗くてよく見えなかったが、人が立っていたらしい。立ち上がって相手に声をかけようとするも、腰が痛む。
「あの...申し訳ありませ」
「大丈夫ですか?」
相手の方が立ち上がりは早かった。不注意を詫びながら手を差し伸べてくれたので、お礼を伝えながら手を出そうとして、固まった。
コルアも駆け寄ってリルカに声を掛けてくれるが、耳に入らない。
すると向こうも、こちらに気がついたようで、驚きで大きな瞳がさらに見開いていく。
通路でリルカが衝突した相手は、あの緑色の瞳の婦人だった。
なぜここにあのご婦人がいるのか、コルアも婦人に気づいたようで、目を見開いている。
互いに驚愕で動けずに固まっているところへ、靴音を響かせながら誰かが歩いてきた。
「夫人?どうかされましたか」
婦人を案ずるように声を掛けてきたのは、あのゲスロルド伯爵だった。
突如現れたもう1人の人物に面食らい、混乱はますます深まった。婦人と、伯爵がなぜ一緒に現れたのだろう。
伯爵は床に座り込んでいる相手がリルカだとすぐに気づいたようだった。手を貸して立たせようとするが、先にコルアがリルカを強引に立ち上がらせる。その様子に少々残念そうな顔をしたが、すぐに取り繕って微笑んだ。
「これはこれはベネフィット嬢にキルテッド子息。こんなところでお会いするとは。先ほどまで座り込んでいたようですが、何か...」
「気にすることなくてよ。私がこちらの方にぶつかってしまったの」
伯爵の言葉を遮り、婦人が口を開きながら懐から扇を取り出し、口元に翳した。その間も視線はリルカたちに注がれていた。
「改めて。先ほどは失礼をいたしました。私はハルカ・V・ルイス。夫がお世話になってるわ」
「お...おっと?」
衝撃が走った。先ほどとは比べ物にならない、稲妻のような驚愕が襲ってくる。
目の前の人物をまじまじと見つめる。
信じられないが、婦人があのルイス卿の奥方らしい。先日邂逅した時と同じく喪服のような黒い服を一身に纏っており、まっすぐな緑の瞳だけ爛々と輝いていた。
突然の予期せぬ出来事に、リルカたちが絶句したかのように黙り込んでいると、ゆっくりと夫人が口を開いた。
「あの時は気づかなかったけど。夫と仲良くしていると聞いて、一度お目に掛かってみたいと思っていたの」
にこりともせず、棘のある言い草がリルカの癪に障る。ただ商いの事を教わっているだけだというのに。先日遭遇した時とは違い、夫人はどこか挑戦的な様子だ。
「今日は私たちも二人で舞台を見に来ておりまして。お二人にたまたまお会いしたというわけですよ」
--奥さまが男性と町で歩いているのを見かけた方がいるんですって。
--夫婦仲がそれほど良くないと聞いてましたものね。
伯爵の告白に、先日の聞いた噂が想起された。2人が一緒に出歩いていた、ということはつまり...。
「......夫人こそ」
沈黙を破って切り出したリルカに、夫人は瞬いた。
噂を聞いた時から彼女の中で漂い始めていた、ほの暗い感情が、沸々と怒りに変化していくのを感じる。
(--あんなに素敵な相手と幼い子どもだっているのに)
夫以外の人と一緒にいたこと、他にも複数の人と会っていたという噂をルイス卿はどう思っているんだろうかと考え、リルカは悲しくなることさえあったのだ。
怒りは沸点を超え、リルカの中で抑えが効かなくなりつつあった。
「--夫人こそ、他所の男性と出歩いて。夫やお子さんに悪いと思わないのですか」
実直なリルカの視線を受けても、夫人は動じなかった。
リルカの瞳は怒りで煌めき、その姿は圧倒するなにかがあった。
それまで気に留めず、通路を通りすぎようとした人々が足を止める程、以前のリルカとは違う空気を身に纏っていた。
伯爵とコルアも知らぬ間に息をのんでいる。
「...あなたの軽率な行いで傷つく人がいると分からないのですか」
リルカの様子が変わっても、夫人は毅然とした態度を崩さなかった。
ただ、先ほどまでとは違い、夫人の視線は観察するようなものに変化している気がした。
どれくらい時間が経っただろう。遠くから足音が聞こえ始めた頃、夫人がため息を吐き、扇を閉じた。
「名乗らない相手に、応えることなどなにもないわ。伯爵、行きましょうか。お待たせしてしまったわね」
扇を仕舞い、夫人は伯爵と共に踵を返そうとした。気づけば外野が増えており、通行人たちは慌てて夫人に道を開けようとする。
「夫人!まだ話を...」
「ねえ。ヘレナの台詞を覚えてる?」
「え?」
振り返った夫人から感情は読み取れなかった。しかし、瞳に挑戦的な色を乗せている。
「『惚れた目で見ると,たとえ卑しくても下劣であっても立派で堂々としたものに見えるのよ。
恋は目ではなく,心で見る。』」
それは舞台で恋煩いを抱える女性の台詞だった。意中の相手に振り向いてもらえない、嫉妬心から生まれた台詞。
「貴方の怒りの背後に、別のものが潜んでいることは?私に対する思いにも」
言うやいなや颯爽と出て行ってしまい、リルカたちは取り残された。
往来が途切れていた通路はざわめきと共に戻ってきた。
コルアが心配そうにリルカに話しかけてくれる。リルカは夫人が去った方向を向きながらそれを聞いていた。
頭の中に、夫人の言葉が、何度も木霊していた。
心にしこりが残ったようだと、リルカは思った。
演目は「真夏の夜の夢」を使わせていただきました。(シェイ◯スピア作の)
恋は盲目~は有名な台詞ですね。