愛ゆえに
伯爵の屋敷に行った後も、幾人かの実業家と会い、証拠集めに奔走した。
証拠が揃い、後は執事長に託し伯爵一味に裏金である支援金を送った罪で自首しようとした矢先に、証拠が盗まれ、気づけば彼の手に渡っていた。
伯爵一味による買収の目論見が表沙汰になり、噂が大事になっても、彼は何も言ってこなかった。噂が立ち始めた時点で、切り捨ててくれれば良かったのに。
妻としてまるで役に立てていない女など気遣う必要はないのだ。
「……昔、言ってたわね。欲しいものがあると」
昔より逞しくなった体を革のソファーにあずけている。部屋に入ってきたときと同じ、何を考えているのか分からない顔をしていた。
「欲しいものは手に入りそうなの?」
婚約する前、祖母が杖もつかずに歩けていた頃に、ルイス家の家族が実家に来たときのことだ。
2人だけで遊んでいて、何かの拍子で“もしも”の話になったのだ。プレゼントや貰える物があれば何が欲しい、と。自分は確かブランコが欲しいとかそんな答えだった気がする。
自分はくだらない話をしているつもりだったのに、彼はやけに力強くはっきりと言ったので覚えてる。――欲しいものがある、と。
その姿から、いつも面倒臭がったり、ぼんやりしている隣の男の子が、別の人みたいに見え始めた。
時間はかかるがいつか必ず、そう言い切る彼に、出来ないことなど何も無いと思った。彼が欲するなら、金も名誉も、――王位だって手に入るだろう。
でも、彼が望んでいるのはおそらく別のものだろうな、と思った。
「よくそんなこと覚えていたな」
「覚えているわよ」
だって、あなたのことだもの、と胸の中で独り言ちる。彼は物懐かしい時代に思いを馳せている様子だ。
「……ずっと手に入れたくてたまらない。でも届かないんだ」
「届かない?今のあなたなら何だって手に入れられる。……欲しいものがあるのに、どうして手を伸ばさないのよ!」
膝の上でこぶしを握り、昂る感情で身体が震えた。後は彼の選択で、いや、自分がいなくなれば全て収まる。彼女の事や、他の事だって。
ハルは疲れていたのだ。ずっと前から、嫉妬と罪悪感の波に溺れ、どこにもたどり着けずにいる。これだけ時間も経ったのだから、もういいだろう。
彼もハルも、解放されて、自由になるときだ。
それなのに彼は、こちらを試すような、期待しているような瞳を向けている。
「…俺の欲しいものを手に入れるには」
俯いているハルの頬に、彼の手が触れた。
「お前の許しが必要なんだ」
「許し…?」
意味が分からず、混乱する。なぞかけだろうか。
戸惑うハルに対し、彼は真剣な表情だ。
「本当はお前ではなく、お前の両親から許しを貰うのが筋かもしれないが…もういいよな」
頬に触れた手が、引き込むかのように顔の向きを変えさせる。ますます意味が分からなくなっているハルの耳に、顔を近づけた。
「言ってほしい。ただ、一言。許すって」
期待と甘さを含むようなささやきに、あの夜の、夢見るような瞳をした彼の姿が思い起こされた。
何もしていないのに顔から首の付け根まで熱を持っている気がする。
「言って。」
「ゆ、許すわ…あなたを、ゆ、許します」
あの夜以来の距離に戸惑っているハルの両頬に手が回され、ゆっくりと顔を持ち上げられた。恥ずかしさで、瞳をぎゅっと閉じていたハルに、笑みが落ちてくる。
「ハル、こっち見て」
「いやよ」
「見て」
「いや」
じゃれるようなやり取りに彼の笑みがますます深まっている。ハルは逃げようと藻掻いた。
「もう!言う事は言ったでしょ!…これで手に入りそう?」
「ああ。もうこれで関係ないから」
「関係ない?」
目を大きく開くと、そこには、先ほどの笑い声はどこへやら、獲物を狙う狩人のような目をした男が見下ろしていた。
「………散々待ってやれと言われてたけどな。もう待たなくてもいいだろう。なぁ?」
「………え?」
目の前の、この至近距離にいる人は、誰だ。
身体の熱が急速に下がり、背中に冷たいものが駆けていく。
欲望むき出しの目をした人は、うっとりと、見る人が見れば極上の笑みを浮かべたように見えるだろう。精悍な顔立ちの成せる業か、心なしか色気も醸し出している気がする。
だが、ハルにはなぜか罪状を言い渡す、死神の姿に見えた。
「急に結婚に乗り気じゃなくなり、良い人はいないのかって訊ねだしたり、誕生日にケーキも作らなくなって。おまけに結婚したくないと言って泣いて嫌がった、とかお前は。俺がどんだけ気を揉んだと思ってんだ」
「…………え?」
なぜ泣いて嫌がったことを知っているのだろう。あれは両親に口止めしたはずだ。
「結婚を考え直さないかと言われたときは、お前の家を潰してやろうかと思ったほど。結婚しても数年待つ覚悟があるならって条件付きで譲歩してもらったから、渋々了承したけどな。」
「……は?」
彼は一体何の話をしているのだ。先ほどまで裏金の話を皮切りに、彼の望むことの話をしていなかったか。
それなのに、ハルの理解が追いつかない別の話が語られていく。
「お前、気づいてないだろう。お前と密会していた男たち、大半は1,2回しか会えない上、連絡も取れなかったんじゃないか?」
「……そういえば」
色んな男に会っていたが、ゲスロルド伯爵以外は突然連絡がつかなくなったり、もう会えないと言われたりした。狙いがばれたかと思ったが、そうではないと執事長から説明を毎回受けていたので、それで納得していた。
「お前に触れた奴らだぞ。地獄より恐ろしい目に遭わせてやるのは当然のことだろう」
「……」
「今頃あの下種伯爵のところにも、躾のいい犬どもがわんさか行ってるだろう」
あれもぶっ殺しておかないとな、と背筋が凍る恐ろしい笑みでぼやく。捕まるのは彼の方でないことに、疑問を感じずにはいられない。
「不安で揺れる妻のいたずらなんて可愛いものだ。俺の事を想ってのことならなおの事。……いいか?俺は絶対に離婚しない」
ハルが目を見張る。腹の底が握られたように強張った。
「お前が言ったんだ。昔、お前が身勝手に約束しただろ」
花冠の、お屋敷の庭での約束ーー。
ーーおおきくなったら、けっこんしよう。ずっといっしょだよ。
「あきらめろ。お前はどこにも行けないんだ」
彼の太い指がハルの頬を拭う。翠玉の瞳からは涙が零れていた。
静かに涙を流す様子を、少年が、夢見るような瞳で眺める。
「20年待ったんだ。俺はもう我慢しない」
だから、と涙の味がする頬に、口づけた。
「呼んで。俺の名前。お前にだけは呼ばれたい」
好きじゃないくせに、彼は自分の名前が呼ばれることを嫌うのだ。それを知ったのは婚約して随分後だ。
知らずに呼んでいたから、絶対嫌われていると思っていたのだ。
飢えを満たすために強請ってくる、彼の名を、消えそうな声で呼んだ。
そこからハルの視界は、彼しか映らなくなる。
2人が身を寄せ合うソファーの下には、皺だらけになった書類が落ちていた。
悪魔降臨( ´∀` )
夫人さんへの重たすぎる愛を持つがゆえに、ハルの実家から色々と条件が付けられていました。(強い婆ちゃんもいましたし)
しかし、それが解き放されてしまった今、もう誰にも止められない…(笑)