結婚生活1
式の翌日から彼は新当主としての仕事で忙しそうだった。式は新当主のお披露目を兼ねてはいたが、ルイス家の取引先など式に参列していない方へのご挨拶に、名家と縁続きとなったことで演奏会などお誘いが引っ切り無しだった。ハルも夫婦として呼ばれた場合は共に行動し、お茶会などにも参加した。ゲスロルド伯爵や他の実業家と顔を合わせたのもこの頃だ。それでも、結婚の準備で疲れているのを見て、遠慮したのだろう。基本的には彼一人で動いていた。ハルは特に予定がない時は、女主人として屋敷をまわすべく、眼鏡をかけた執事長や先代当主夫人から何かと学ぶことが多かった。
式の翌日から多忙な夫は、代替わりで事業も立て込んでいるらしく、屋敷に帰ってくるのは深夜、もっと遅いと明け方頃の帰宅もあった。
ハルは式のあと、夫の帰りが遅いことを理由に、夫婦の寝室ではなく自室の寝台で寝起きしていた。明け方頃に帰宅する夫は、結婚早々に夜のお相手の元へ通い始めたのかと疑いもしたが、くたびれた姿に目の下のひどいクマを見て違うと思い返した。
円満とは言い切れない新婚の時期に、折しも祖母の容体が急変する。元々臥せってはいたが、医師からは残りの時間は少ないとはっきり伝えられた。祖母に対して思うところはあったが、父母の願いでもあり、会いに行った。
この時、ハルは知らなかった。祖母に会いに行くことが運命を変えることになるとーー
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祖母に会いに行く用事で実家から戻り、どれくらい過ぎただろう。茜色に染まっていた空は、重たげな夜の空に変わっていた。座椅子から一歩も動けず、座り込んでいる。
唐突に、部屋が明るくなったと思えば、灯りの傍に屋敷の主人が立っていた。
「こんな暗い部屋の中で、なにやってんだ」
「あ…、お帰りなさい……。お食事は?」
「いい。それよりお前どうした?今日はお祖母さまの所へ行くって言ったのに、顔が真っ青だぞ。」
そんなに具合は良くなかったのか、と聞いてくる彼に、なんて言おう。
頭の中の思考が定まらない。思考を言葉にしようとしても、先に何か別のものがせり上がってくる感じだ。
突然口元をおさえ、椅子に手をつくハルに、彼は動揺する。声を掛けられても反応できなかった。
気づけば視界は真っ暗になり、ハルは意識を手放した。
目が覚めたハルに告げられたのは、医師の“妊娠”という診断結果だった。
結婚してひと月も経っていないが、人によって症状の現れる時期が違うのだという。あまりに早すぎることで、別の人ではないかと疑われもしたが、相手は彼だけだった。
妊娠を告げられ、ハルは人目もはばからず泣き出した。それは“喜び”の涙ではなかった。結婚に続き、祖母の事、その直後に妊娠という事実に、心がついていけなかった。何より、妊娠してしまっては彼から離れにくくなる。ハルは帰りたいと泣き続けた。傍で、背中を摩り続ける彼の表情は怖くて見られなかった。
ハルは出産まで実家で過ごすことになった。
ルイス家の屋敷でひと月も過ごさなかったため、実家に戻っても懐かしさはなかった。それよりも、ハルは悪阻で苦しみ、他の事に構う余裕もないためほとんど寝台の上で過ごしていた。祖母はあの面会の後、ハルの妊娠を聞き、ずいぶんと元気になったそうだ。危機的な状態だったが、ひ孫に会うまではと今では寝台を離れ、ハルの元に訪れて背中を摩ってくれるほどになった。
彼も、毎日のように土産を持って来てくれていた。妻として何もできずにいたのに、体調を案じ、時間の許す限り傍にいた。
安定期に入っても、ハルの悪阻は続いた。嘔吐は少しだけ収まったが、辛いのは変わらなかった。それでも大きくなるお腹を見ていれば、不思議と母になる覚悟も出来てくる。大きなお腹を撫でながら、このまま、彼と別れずともいいのではないか、と思いもした。
そして、出産の時。
ハルは、お産の場で子どもを腕に抱いていない。難産だった。目を覚ましたときには、既に隣で生まれたばかりの赤子が寝ていた。
傍らには彼が座っていた。起き上がろうとしても力が入らず、彼に寝ていろと押し返される。大丈夫だ、傍にいる。そう言って手を握られた。その様子に、彼が子どもの時に熱を出した時のことを思い出した。
起き上がれるようになった頃、医師の診察を受けた。医師からは、今回の出産についてと、次の妊娠は難しいだろうと告げられた。
けらけらと腕の中で笑う赤子を眺め、ハルはよく分からない気持ちで泣き笑いながら、「そう」と言った。
難産を経て、体調を崩しやすくなったハルは、子どもと一緒に郊外のルイス家の別邸で暮らすことになった。そちらの方が自然も多く、ゆっくり療養できるからと理由だった。本邸の使用人や執事長が来てくれたので、生活には困らない。
子どもは周囲のことなど関係なしに、すくすくと成長した。少しずつ、顔立ちはハルにそっくりなことが分かってきた。ルイス家の両親曰く、耳と鼻は彼に似ているらしい。彼も息子のことは目に入れても痛くないと言わんばかりに構いたがる。息子も父親が来るときは、目一杯甘えを見せていた。
子どもが生まれてから、彼と距離を置き始めた。息子に会いに来た時は、席を外すようにしている。それでも部屋に籠っていると、唐突に現れたりする。
「……俺の奥さんは吸血鬼か別の生き物なのか。こんなにいい天気に部屋に籠りっぱなしとは」
「…うるさいわね。用が済んだならさっさとお帰りになっては」
「それと体調が悪い時は、自己申告することを勧める。……悪かったよ。お前の様子には今気づいたんだ」
「放っておいて頂戴!」
幼い頃の素直さはどこにいったんだ、と呆れながら、抵抗するハルを抱え寝室に連れていき、慣れた手つきで寝台に降ろす。きっと、お相手にはいつもそうしているのだろう。
出産してから何度も彼に訊ねた。昔とは違い、相手がいるのかと率直に聞いても、そんな相手がいれば仕事が滞ると返してくる。訊ねる度に呆れた視線を送ってくるが、それはこちらの気持ちだった。
子どもが生まれて数年、歩けもしなかった赤子が、達者に話せるようになるほどの年月が経った。
そろそろ自らの社会復帰の練習を兼ねて行ってみようと、本邸と実家の往復以外で、久々に外に出た。子どものお昼寝の間に帰ってくる予定だが、万が一起きてしまっても、メイドが見ていてくれるので安心して出掛けた。子連れでない外出など、新婚以来のことだった。
久々に外出着を身に着け、侍女と共に街を歩く。街は青天井の下、活気づいていた。大通りを一通り巡って疲れを感じてしまい、侍女に近くのカフェを勧められたので入ることにした。せっかくの天気なので、テラスの席に座り、紅茶を注文する。ウェイターに運ばれてきた紅茶は仄かに花の香りがした。
「いい香りね」
「おいしい紅茶ですね。なんて紅茶でしょうか」
「それはキームンという紅茶で、アジアの紅茶ですよ」
声の方向に向くと、そこにいたのはゲスロルド伯爵だった。お久しぶりですね、と言いながら席に近づいてくる。侍女が青い顔でハルの前に立つが、下がらせる。
「奥様」
「いいのよ。伯爵はわざわざご挨拶にきてくれた。そうでしょう?」
「その通りです。まさか夫人がうちの店を利用してくれると思いもよらなかったので。こうして出てきた次第です」
席に戻った侍女は今も伯爵に険しい視線を送っている。きっと自分の落ち度を責めているだろう。ハルも気づくべきだった。大通りには伯爵が関与する店舗がいくつもあるのだから。
伯爵は未婚の時から何かと絡んできた。おそらく祖母が高貴な一族出身でもあるので、接点を持ちたいと考えているのだ。
「そういえば夫人とご友人であるベネフィット家のご令嬢を覚えていらっしゃいますか?」
「…ええ、今も連絡を取り合う仲です」
急に振られた話題は学園時代からの友人のことだった。互いに既婚の身になっても、たまに連絡を取り合う仲だ。彼女を思い出すその一方で、数年前に見かけた少女の姿が目に浮かんだ。
「なんでも、今、ベネフィット家は経営で大変な状況らしく、使用人を解雇するほど追い詰められているとのことで…」
「まあ…」
唖然とした。最近のやり取りの中でもそんな話は出ておらず、彼からも聞いていない。伝われば心配すると思ったのか。それに…あの少女はどうなったのだろう。
「それで資金援助を私から提案したのですが、2番目の娘さんの気が強くて…。女性の身でありながら、自分で立て直すから心配するな、と言ってくるのです。」
「逞しいのね」
随分と果敢な気風をお持ちの様。しかし、伯爵相手にそれは悪手だ。伯爵は逆らってくるほど相手に執着し、手段を選ばず屈服させるような人だ。無駄に身分と財力もあるので、正面から堂々と攻められれば経営難のベネフィット家では太刀打ちできず、リルカ嬢は危険に晒されるだろう。
「伯爵」
久々に懐から扇を取り出し、口元を隠すように開き、微笑んだ。
「よろしければ、もう少しお茶をいただけます?」
息子がとっくにお昼寝を終えた時間に帰宅となってしまった。子ども部屋に入ってみれば、なんと彼がいた。不敵な笑みを浮かべているあたり、今日の事はバレているのだろう。
珍しく夕食を共にし、息子が眠るまで帰らなかった。遅くまで父親がいることに喜色満面で、なかなか寝付けなかった。
「お前、今日伯爵と一緒だったらしいな」
息子が眠ってからも帰らず、わざわざ自室にやってきた。だいぶ棘のある言い草に、そういえば伯爵の気質は婚約者時代の彼に教わったのだと思い出す。
「…たまたま入ったお店が伯爵の店だったのよ。侍女を責めないであげて。それより、ベネフィット家が経営難って本当なの?」
「ああ、あいつの実家か。大変らしいな。」
あっさりと認めた。伯爵の話は嘘ではなかったようだ。
「聞いてなかったのか。まあ、身内のことだ。言いにくかったんだろう」
「心配だわ…」
「大丈夫だろ。なにせあいつの実家だ。こんなことで折れるような家族じゃない」
友人でもある彼女の事を話すと彼はいつも顔を顰める。気の強いもの同士だからか、遭遇するといつも言い合いになる。
それより、あの少女のことでなんとも思わないのか。
「…あなたはなんとも思わないの」
隣に座る彼はハルを見つめる。ハルは沸々と湧き上がる何かを感じる。ずっと胸の中に潜んでいたものが破裂しそうになり、抑えるように腹の前で手を組む。
「彼女の家よ。心配にならないの?」
「…心配ではあるが、何もできないだろう」
頭に血が上る。あの子に、あんな風に気を許しておいて、何もできないと?
「なによ、それ。少しでも情があるなら、手助けしてやろうと思わないの?」
視線はハルではなく正面に向いているが、実際は見てないだろう。彼が何を見ているかわからないが、自分を見ていないことはよく分かる。
その事実が、ハルの胸を切り裂くのだ。
俯いたまま立ち上がり、部屋を出ていこうとする。
「…もういい。私は私のやり方でやらせてもらう。だから口出ししてこないで」
「おい」
振り返り、咎めるようにねめつけた。涙を浮かべたそれに、彼は驚いていた。
「どうして、素直にならないのよ…。欲しいものがあるのでしょう?」
もう会いに来ないで、と悲鳴のように吐き出し、自室から飛び出した。
今更ですが、ハルとリルカって名前が被ってしまったんですよね。
反省してます。