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精巧につくられた小さなガラスの城にヒビが入ったのは突然のことだった。
ある日、いつも通り五人でレッスンを受けるつもりで練習場に向かうと愛梨だけがいなかった。
「あれ?愛梨は?」
私が尋ねると三人は複雑な表情を浮かべていて近くにいたマネージャーが口を開いた。
「愛梨はテレビの収録があるから今日は欠席だよ。」
マネージャーの言葉に私は言葉を失った。テレビの収録?まだメジャーデビューも出来てない無名のアイドルが一人だけテレビに呼ばれることなんてあるはずがない。
愛梨がSNSでバズったとかならまだ分かるけど見た限りそんな様子もなかった。
呆然としていると苛立ったように栞菜が口を開いた。
「枕営業だよ!あいつ、私達が知らない間にSNSのDMとかで業界人と繋がって色々、紹介してもらって枕営業してたんだよ。そんで深夜番組のアシスタントに選ばれたわけ。本当に汚いやつ…」
悔しそうに眉間に皺を寄せる栞菜のそばで志織と桜子ちゃんはばつが悪い顔を浮かべる。
私は栞菜の言葉に愛梨が枕営業をしていたことよりも枕営業をする時間があったことに驚いた。
私達は寝る間も惜しんで歌やダンスにファンとの交流…と活動に明け暮れている。その合間を縫って業界人と繋がって枕営業をする愛梨の体力と屈強なメンタルに思わず脱帽した。
愛梨はただ持って生まれたものに甘えて生きているわけではなかった。その事実を枕営業でテレビの仕事を勝ち取ったことで思い知らされた。それも私達が知らない間に着々とこなしていたわけだ。
「ねぇ紫穂ちゃん、今日も一緒に帰ろう。」
四人で夜まで続いたレッスンが終わるとまた志織が私を誘ってきた。
私は頷いてほぼ毎日レッスンで使っている事務所のスタジオを出ようとすると急に詩織に腕を掴まれた。
何事かと思って志織を見ると彼女はまるで悪戯をするような目で私を見て、
「今日だけだからこっそり屋上に上がらない?」と誘われた。
事務所の屋上なんて普段は誰も上がらない。それに鍵が掛かっていることを伝えると志織はマジシャンのように屋上に繋がる扉の鍵を指先で器用にクルクル回しながら、「こっそり盗んできちゃった⭐︎」と私に向かって得意げな笑みを浮かべた。
私は、なんで屋上?と思ったけれど志織の懇願する瞳に負けて不機嫌な栞菜と腑に落ちない様子の桜子ちゃん、その他のスタッフたちが帰るのを見届けると忘れ物をしたとマネージャーに嘘をついてトイレに隠れてから、こっそりと屋上に上がった。
忍び足で階段を上って志織が鍵を開けると屋上のコンクリート詰の地面に足を踏み入れる。すると夏と秋の間の涼しい風がフワッと髪を揺らした。
目の前に広がる景色は白いペンキで塗られた鉄柵と都会の濁った夜空で私達は鉄柵に近づいてビル外の地面を見下ろした。
地面には無数の車がミニカーのように激しく行き交っていて走行音が絶え間なく聞こえる。
「ここから見ると人間がすごく小さく見えるね。」
志織の言葉を聞きながら私は遥か下で光る車たちのライトに目が眩む。東京はキラキラしていて綺麗だけど、たまに眩し過ぎてどこに向かっているのか自分でもわからなくなる時がある。
車のライトからオフィス街の光、何個もつけられた街頭に派手なお店のネオン看板、写真撮影時の照明の光…どれも田舎に住んでいた頃にはなかった景色に最初は心躍ったけれど今は見れば見るほど虚しくなって寂しくなってどうしようもなくなる。キラキラしているのは都会の街だけで私が光っているわけではない。
濁った空を見上げると曇っているせいか空には星が一つも光っていなかった。
「…星なんて見えやしない。」
私が呟くと隣で志織が呼応する。
「星なんて最初から存在しないんだよ。」
最初から存在しない…志織の冷めた言葉が私の胸にスッと入って腑に落ちる。
確かにそうかもしれない。じゃあ、私が今まで夢見ていた星はなんだったのだろうか。
憧れはただの幻想で最初から存在していなかったのか…
「ねぇ、紫穂ちゃん。私と一緒にここから飛び降りない?」
突然の言葉に、え?と聞き返して志織の顔を見る。すると彼女からいつもの笑顔が消えて、黒目が夜空の下で暗く光を閉ざしていた。
絶望した目をしている。まだ十八歳なのに志織は敗北者の瞳をしていた。
大切な仲間がレギュラー番組を勝ち取った門出の日に私達は絶望して危ない橋を渡ろうとしている…でも駄目だ。我に返った私は慌てて志織の腕を掴んで首を横に振る。すると志織は弱々しくふにゃっと笑って、そうだよね…と呟いた。
「そうだよね…もう帰ろう。」
志織に言われて私達は高い景色から抜け出すと再び見下ろしていた明るく賑やかな夜道に舞い戻った。