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トリカブト

 



『その方法で救えるのでしょうか?』


『かえって悪化しないでしょうか?』


『では我々は、何のために贄となるのでしょうか?』



 ―――



 獣の匂いがした。

 正午過ぎ、しっとりと霧に満ちた街道を歩いている時だった。

 腐った膿と生乾きの血が混じった、独特の臭気がする。


「…………」


 風下にいたのが幸いして、怪物の気配に先に気づけたらしい。

 私はラバの手綱を引いて足を止め、リーシャに手で合図を送った。

 人さし指を立てて、静かに……という意味である。


 そして、私は匂いの方向に目を向けた。

 街道の脇の、まだらに木々が生えている先だ。

 その木々の向こうから匂いは漂ってきている。


「おしさま?」


 訝しむリーシャを一瞥して、茂みに視線を戻す。

 風に乗って、枝が折れる音が聞こえた。

 パキパキと、重い体が木々を押しのけるようにして進む音だった。

 歩幅が一定でない。


 脚の数か長さが揃っていないのだと推測できた。


「…………」


 私はローブの腰から杖を抜いた。

 その横でラバが小さく鼻を鳴らす。

 手綱を木の枝にくくりつけ、リーシャの方を見た。


「離れていろ」


 リーシャはこくりと頷いた。

 怯えてはいない。

 ラバのそばに立ったまま、こちらを見つめていた。

 ワンピースの裾を両手で握っている。


 前に出た。

 同時に、茂みが裂ける。


 現れたのは熊だった。

 しかし、ただそう呼んで済ませるのも難しそうである。

 ひとことで言うなら、その怪物は全身がツギハギでできているのだ。


 右の前脚は熊、左の前脚は蹄のついた馬の脚。

 後ろ脚の片方は人間の腕が三本束ねられて、もう片方は膝が逆向きの鹿の脚。

 胴体は熊の毛皮と人間の肌、鱗の皮膚の継ぎ合わせ。

 さらに頭部は巨大な猫の物で、下顎のみが人間のものになっている。

 おまけに、縫い目という縫い目からは黄色い膿が垂れていた。

 そのデザインに機能的な優位はなく、ただグロテスクなだけの存在である。


 そして無論、これも邪神の悪意が形を成したものだ。

 ただ、手に負えないような存在ではない。

 駆除するだけなら可能である。


「!」


 怪物がこちらに気づいた。

 人間の顎が開き、異様な高音の悲鳴のような咆哮が上がった。

 周囲の木に止まっていた鳥が一斉に飛び立つ。


「――――――――ッッ!!」


 そして奇怪な咆哮と共に駆けだした。

 地面が揺れるほどの重量を伴って。

 木の根を踏み砕き、低木をなぎ倒す。


 私は杖を正面に構えた。

 さらにローブのポケットに手を入れる。

 代償として用いるため、ストックしていた虫を潰したのだ。 

 そのまま詠唱を口に出す。


「終点へ急げ」


 短い呪文である。

 それは物事を終わらせる魔術だった。

 自己催眠により歪んだ認知が現実を蝕み、怪物の心臓を瞬きの間に朽ちさせてしまう。


「…………」


 音もなく、瞬時に息絶え、異形の熊の体がバラバラに散らばる。

 すなわち、死より間を置かず、すべての縫い目がほどけてしまったのだ。

 走る勢いのまま、継ぎ目に沿って分解された。

 私はそれを確認して杖をローブの腰に戻す。


「始末できたな」


 振り返ると、リーシャがラバのそばに立ってこちらを見ていた。

 少し離れた場所で、紺色のワンピースの裾を両手で握りながら。

 いつも通りの瞳でじっと私を覗いている。


「えへへ、おしさますごい」


 ラバが鼻を大きく鳴らした。

 死んだ怪物の膿の匂いを嫌がっている。

 縄を解いて手綱を取り直し、ここを離れることにした。


「行こう」

「はーい」


 リーシャが小走りに駆け寄ってきた。

 彼女は私のローブの裾を掴む。

 彼女は歩き出す前、散乱する肉片を一瞥して笑った。



 ―――



 怪物の残骸から離れてまもなくのことだ。


 霧の裏、前方の木立から人影が現れた。

 一人ではない。

 五人、六人……と数えるうちに十人を超えた。

 全員が武装している。


 剣を帯び、錆びた鎖帷子を着た者が数人。

 弓を持っている者もいた。

 いずれも装備は統一されておらず、汚れながらも使い込まれているようだ。

 ただし、野盗と結論づけるのは早いだろう。

 彼らの動きに規律の残滓がある。


「……なにか用か?」


 そう尋ねる。

 ポケットに左手を入れて、私は立ち止まった。

 指先は、保存していた生贄……小さな芋虫に触れている。

 いつでも強めの魔術が使える状態だ。

 リーシャが私のローブの裾を強く掴む。

 先ほどよりも低い位置を握っている。

 私の陰に隠れるようにしていた。


「…………」


 沈黙が続く。

 互いに品定めをするような間だ。

 そして意外にも、武装集団の先頭にいたのは若い女だった。


 すらりと痩せた青髪の女で、凛とした白いかんばせは十代後半にも見えた。

 周囲の男に比べると小兵だが、女性としては背が高い。

 色の薄い、化粧けのない唇を引き結び、眉間にシワを寄せ、意志の強そうな瞳で私を見ている。


 彼女は霧の中、眩しいような銀の軽鎧を纏い、左の腰には金飾りのついた長剣を下げていた。

 そしてその彼女が片手を上げると、後ろの男たちが一斉に足を止める。


「……今の、あなたがやったの?」


 そう語りかけてくる。

 指は怪物の残骸の方を示していた。

 遠目にでも見ていたのかもしれない。

 私は頷いた。


「そうだ」


 答えると女の目が見開かれた。

 周囲の武装した者たちの間にもざわめきが走る。


「どうやって?」

「魔術で」


 私が答えると沈黙が落ちた。

 後ろの男たちの何人かの表情が険しくなる。

 手が剣の柄に伸びかけている者もいる。


「…………」


 しかし女は食い入るように私を見つめている。

 怪物が分解される光景を実際に目にしたから、魔術だなんだという戯言も聞く気になったか。


「私はマーガレットよ。この地を治めていたゲルハルト伯の娘です」


 名乗りは丁寧だった。

 背筋を伸ばし、育ちの良さが所作に残っている。

 声の張り方にも気高いような響きがあった。


「父は怪物に殺されましたが……父に仕えた騎士団は残った。今はその彼らと共に、怪物を倒しながら民を守っています」


 怪物を倒し、と言った。

 ただ騎士たちの反応が気にかかる。

 目を逸らす者がいれば、笑いを堪えている者もいた。


 だが当の本人はそんなことには気づきもしない。

 マーガレットは熱のこもった瞳で私に詰め寄る。


「ところで、さっきの力……本当に魔術なの?」

「そうだと言えば、信じるか?」

「信じるわ。あんな怪物を杖一本で倒した。あれは本物よ」


 マーガレットが一歩前に出た。

 そして目の前で深々と頭を下げる。


「……だから、お願いです。私にも魔術を教えて。私には、守るべき人々がいるのです」


 唐突な申し出だった。

 やはり、後ろの男たちの表情がばらばらである。

 不愉快そうな者、呆れた者、無関心な者。

 全体的に、歓迎はされていないらしい。


「いいだろう」


 しかし私は応じた。

 別に大した理由ではない。

 魔術の後継者は多い方がいいということだ。

 戯れに、種を蒔くつもりで引き受けた。


「しばらく君に魔術を教えよう」


 するとマーガレットの顔がぱっと明るくなった。

 険しさのない笑顔になると、まだ少し幼さが見えるような気がする。

 大喜びで私の手を取った。


「ありがとう。……ありがとう! ところで、あなたの名前は?」

「名乗るほどのものはない」

「では、師範しはんとお呼びします」

「好きにしろ」


 答えて、ぼんやりと霧がかった空を見上げた。

 私はふと、リーシャが鼻歌を歌っているのに気がつく。



 ―――



 騎士たちに連れられて、彼らがいる街へ向かった。

 歩きながら周囲を観察する。

 十数人の集団は二列になって進んでいた。

 前方と後方に見張りを配し、両翼にも一人ずつ出している。

 それなりに統率が取れていた。

 元は本物の騎士団だったのだろう。

 しかし気になることがいくつかあった。


 まず、彼らの荷馬が曳いている荷車である。

 食料と思しき袋とは別に、大きな麻袋が四つ。

 赤黒い汚れが浮いた袋の中身には、人間の肘や膝のような角度の突起が伺える。


 つまり、まだ新しい死人に見えた。

 死体漁りのことを思えば、まさかわざわざ運ぶとも思えないが……。


「…………」


 次に彼らの装備に目を留める。

 怪物を倒し民を守っていると言ったが、盾や鎧には刃物で切られたような線状の傷が多いのだ。

 おまけにもう一つ、彼らは先ほどの縫合熊とは戦おうとしなかった。

 あくまで傍観していたのだ。

 怪物を倒す集団なら、加勢くらいはしてもよかったはずだが。


「おしさま」


 つと、小さな声でリーシャが呼んだ。

 彼女の目は前方の男たちの荷を見つめていた。


「あの袋、臭いね? ……えへへっ」


 指を鼻にあてるハンドサインを見せる。

 意味深に、それだけ言って笑っていた。

 私は何も答えない。

 そこで、マーガレットが振り返って私たちに笑いかける。


「師範、もう少しで街です。これからよろしくお願いしますね」


 その笑顔は少しも影がない、希望が灯った表情だった。



 ―――



 道を抜けると霧が晴れる。

 そう待たずに街が見えてきた。


 立派な街だったのか、かつては城壁で囲われていたらしい痕跡がある。

 けれど今は崩れた石壁が断続的に残るだけだ。

 さらに、街は七割がた放棄されているらしい。

 廃墟の片隅で、残った城壁の一部だけを利用し、囲いきれない部分は補強を加えた木の柵で守っている。


「マーガレット様! お帰りなさいませ」


 木の柵の前、元気よく言うのは見張りの青年だ。

 マーガレットの顔を見て柵の出入口を開けた。

 その動作は恭しく、敬意がこもったものに見える。


「騎士様、よくぞご無事で」


 もう一人の見張りもそう言って頭を下げた。

 こちらも若い男だった。

 騎士団の者ではなく、手には錆びた鉈を持っている。

 武器というより農具に近い。


 そのまま、マーガレットは二人と話を始める。


「今日もありがとう。あなたたちの見張りのおかげで、安心して戦えたわ」

「いえ……そんな、せめてこのくらいは」


 どうも、この街の者たちにとっては怪物討伐も事実らしい。

 こうも敬っているのだから、実際に倒しているのかもしれない。

 私はそのように思い直していた。

 そして、麻袋の中身には二人とも触れることはない。


「……それじゃあ、また」


 にこやかに言ってマーガレットは歩き出す。

 門をくぐり、街の中に入った。

 通りにはまばらに人影がある。

 柵が開いたことを察して、粗末な服を着た住民たちがこちらを見ていた。

 騎士たちの姿を認めると、一人、また一人と足を止める。


 そんな中、マーガレットが住民たちに手を掲げて呼びかけた。


「みんな、今日も収穫があったわ。また泉の前で()()を受けるように」


 わっと歓声が上がった。

 住民たちは大喜びで、跳びはねるような勢いで集まってくる。

 熱狂と共に騎士団を迎え入れた。


「ありがとう! おかえりなさい!」

「騎士様! おかえりなさい!」


 人の波にひとしきり揉まれた後、私たちは歩いていく。

 往来で仕事をしている人たちも、度々騎士へ……とりわけ多く、マーガレットに声をかけた。


「…………」


 だが住民は麻袋を見ていなかった。

 慣れたことなのだろう。

 彼らはいつもこの袋を運んでいるのか。


 私はそれ以上は興味を持たずに、黙って騎士たちと共に歩き続けた。


 そうしていると、やがて大きな館にたどり着く。

 マーガレットが言うには、それは騎士団の拠点なのだという。

 領主のゆかりの場所なのだろう。

 荒れ果てた今でも、他の廃墟に比べると気品があった。


 門の前に立ち、それを眺めていたところ、つと騎士たちが声を発する。


「では、マーガレット様。我々はここで」


 麻袋を持って、彼らはいずこかへと歩き去る。

 リーシャがじっとその背中を見ていた。

 私は気にせず、マーガレットに視線を向ける。


「さぁ、師範。こちらへ」


 彼女が言う。

 門に通されて、私たちはまた進んだ。

 中には幾人かの下働きの者たちがいる。

 広い庭園に畑を作ったりしているようだが、結果はかんばしくないようだ。


 整っている割に、畑の上には作物がない。

 農夫と思しき男が途方に暮れたように座り込んでいる。

 よく見ると、畑の土がぐらぐらとひとりでに動いているような気がする。


 きっとなにか問題があるのだろうな、と考えていた。


「これから食事にいたしましょう。よろしければぜひ、魔術の話などうかがえませんか?」

「そうだな。……いい機会だ、話しておこう。リーシャ、君にもな」


 言いながら、私はリーシャの様子を見た。

 彼女は庭を飛ぶ蝶を目で追っていた。

 私の視線に気がついて、彼女はにこりと微笑みを浮かべる。


「はーい。リーシャも頑張ってお勉強するね〜」

「いい心がけだ」


 そもそも本命はリーシャで、マーガレットはおまけだ。

 ただ落ち着ける場所を提供してもらって、教える時間を取れるのはありがたい。

 その対価と、ダメ元の試みでマーガレットにも授業をする。


 ……などと考えながら、ふと思いついた疑問を投げかける。


「この街では、食料はどうしている?」


 やたらに長い庭を横切りながら、じっと目を見て問いかけた。

 マーガレットは答える。

 ちょうど庭のどこかに視線を動かして、顔はそっぽを向いていたが。


「ああ、それは、恵みがあるのです」


 私は、その言葉について考える。

 道中でも似たような話を聞いた。

 泉から恵みを得るというような内容の。

 私は、降って湧いた直感に従ってさらに聞く。


「その恵みとやらは、麻袋の中身と関係があるのか?」

「……ご存知なのですか?」


 マーガレットが顔を向ける。

 足を止めた。

 一通りの出来事について、いま答えが見え始めた。

 もし推測の通りなら、すぐにこの街を立ち去らなければならない。


「お前たち、あれを食べているのか?」

「いえ、食べていません。恵みは、民にだけ与えています。私たちは、集めてきた食料を食べます」


 私たち、とは騎士団のことだろう。

 それには何も言わない。

 しばらくの沈黙を経て、マーガレットが怯えたような表情になる。


「もちろん、師範にもそうします。あなたがたには、恵みは振る舞いません」


 私はなおも口をつぐんでいた。

 マーガレットは唇を噛んで、やや苛立たしげに私を睨んだ。


「……何か文句が?」

「別に」

「仕方ないでしょう。食べる物がないのですから」

「だがお前たちは食べていない」

「当然です。外に出て、戦う必要がある……万が一にも我々が倒れては、何も立ち行かなくなる」


 詭弁を語る息は、思いの外勇ましく、鋭いものであった。

 ただそれは後ろめたさの裏返しだ。

 私は構わず、淡々と核心に触れる。


「分かっているだろうが、もう手遅れだぞ」


 するとマーガレットは目を見開く。

 瞳に不安がちらついた。

 それは一瞬で表情を侵食し、見る影もなく強気な態度は崩れ落ちていく。


「…………っ」


 顔色が変わった。

 はっきりと分かるほど急速に、血の気が引いて青くなった。

 吐き気がこみ上げてきたらしく、口元を押さえてうずくまる。


「……わ、私……やはり、取り返しのつかないこと、したでしょうか?」


 震える声で言う。

 青白い顔で涙ぐむ。

 この分では、ある程度は勘づいていたはずだった。

 そして、だから私に……つまり魔術に縋ろうとしたのかもしれない。

 では、私を街に招いた際の笑顔は、過ちを帳消しにできると思ってのことか。


「…………」


 マーガレットは、吐き気をこらえるような嗚咽を漏らした。

 喉を鳴らしながら問いを重ねている。


「……私、間違っていたでしょうか? あれは、口に入れてはいけなかったのでしょうか? もう本当に、取り返しがつかないでしょうか?」


 私は何も言わない。

 ただこの街を発つべきだと考える。

 なのでリーシャに声をかけようとした。

 北の集落で補給をしたばかりなので、無理にここに留まる理由はない。


「……?」


 しかし、足先に強くしがみつかれて言葉を止める。

 見下ろすと、マーガレットがすすり泣いているのが見えた。


「どうか……わ、私に……魔術を教えてください……」


 靴に這い寄って、彼女は強く足首を抱く。

 固く腕を巻いて離さない。

 額を靴に押し付け、息を乱しながら懇願した。


「お、お願いします……魔術なら、魔術ならきっと、なにかあっても、みんなを治せると思います……もうそれしかないんです……私には、それしか…………」


 彼女の言う泉は、終焉の事象の一つだ。

 しかも最悪の部類のものである。

 よって魔術で対抗することはできない。

 それを抜きにしても、彼女の弁は現実逃避にしか見えない。


 だが、試すのも面白いと思う。

 彼女に強い思いがあるのなら、やり遂げるかもしれない。

 まぁ、要はただの気まぐれだ。

 もう少し、マーガレットという少女の資質を確かめてみたくなった。


「いいだろう。だが、私たちには決して、恵みを出さないように」


 出されれば私には分かる。

 もしそんなことがあれば、マーガレットたちを皆殺しにして去るだろう。

 それを伝えると、彼女は息を呑んだ後に頷いてみせる。



 ―――



 軽い食事をとって、さっそく授業が始まった。

 言わずもがな、マーガレットの強い希望によるものである。

 彼女は鎧を脱いで平服の姿で授業に駆け付けた。

 私は広い庭の片隅を借り受けて、二人に魔術を教え始める。


 まず学ぶのは自己催眠だ。

 暗示のテクニックや意識付けについて、実践を交えながら手ほどきをする。

 二人はベンチに座っているので、目の前で私が色々としていた。

 けれど、マーガレットは目に見えて焦りを見せ始める。

 日が傾き始めた頃には、看過できないほどに集中を欠いてしまった。


 私が教える暗示が、小手先の手品にしか思えないのかもしれない。


「…………」


 それを見かねて、少しだけ方針を変えようと思う。

 順序は違うが、魔術の理論を教えてもいい。

 要は最後に身についていればいいのだから。


「……さて、次は魔術の基礎について話そう」


 一区切りつけた後でそう告げる。

 マーガレットは目を輝かせて、前のめりに身を乗り出した。

 その彼女の前で、私は魔術についての話を始める。


「まず、魔術という行為の本質を語る。魔術とは、世界の隙間を埋める行為だ」


 その言葉に、リーシャもマーガレットも狐につままれたような表情になる。

 予期していた反応なので、私はもう少し細かい説明を始める。


「失礼。前提となる考え方を伝えよう。魔術において、世界とは認識の集合であると定義されている」


 この世界は、多くの認識よって構築されている。

 より具体的には、この宇宙で存在を保つには、他者からの観測が必要である。

 そして認識された通りの形に、世界は存在を確定させる。

 多くの生物の、様々な知覚の中間で世界は均衡を保っている。


 細かい矛盾はあるし、真実がどうかも定かではないが、魔術師たちはそう考えていた。

 だからこそ『私の姿は見えない』と思い込むことで姿を隠したりできるのである。


「故に、見ること、聞くことは世界そのものに等しいことだ。よって生命の認識や主観……それ自体を、私たちは『大魔術』と呼ぶ」


 そこで言葉を区切った。

 マーガレットはおおむね飲み込めているのか、最初のように熱のこもった視線を向けてきていた。

 認識が重要、という話を聞いて暗示の部分にも納得ができたのかもしれない。

 対して、リーシャはまだ首を傾げていた。


 私は少しだけ考えて言葉を重ねる。


「それから、私たちが学ぶのは『小魔術』だ。認識が世界を確定させる……大魔術の仕組みを盗用し、偉大なる生命の流れを乱す。まぁ、言ってしまえば詐術の一種か」


 説明はここで一区切りだ。

 私はその場でいくつかの魔術を見せる。

 そしてこれらは私という生物の『認識』を捻じ曲げることで、事象の確定を歪ませた結果だと伝えた。

 するとマーガレットは興奮した様子で立ち上がる。


「すごい! すごいです、師範!! こんなことがあるなんて……! あははっ!」


 ぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んでいる。

 私は無言で、じっと彼女を見つめた。

 授業はまだ終わってはいないのだ。


 ハッとした様子で縮み上がり、マーガレットは席に戻る。


「あ、ごめんなさい……」


 肩を落とした彼女に一瞥をくれた。

 それからまた私は話し始める。

 まずは初級、自己の認識を使用した魔術について。



 ―――



 その後もずっと授業は続いた。

 リーシャはやや疲れ気味に見えたが、マーガレットの意欲は収まることを知らなかった。

 だが、途中で騎士の男が割り込んできて中止になった。

 どうもマーガレットに用がある様子だった。


 なのでお開きである。

 私たちは館の一室を割り当てられ、夕食の後に休むこととなった。


「ねぇ、おしさま」


 夜中、ベッドに寝ていた時だ。

 リーシャの声が聞こえた。

 私は目を閉じたままそれに答える。


「リーシャ、もう寝なさい」

「……えへへ、眠れないんだ。時々ね」


 彼女は別のベッドにいる。

 少し遠くから笑い声が聞こえた。

 思い返せば、彼女はよく夜中に起きていたような気がする。

 その頻度は決して『時々』ではない。


「なぜ眠れない?」

「……怖くて、眠れないよ」


 なにかが怖いのだと言う。

 私は目を閉じているし、離れているから表情もなにも伺えない。

 ただ声は初めて聞くような色を宿していた。

 弱々しく、苦しげな気配を帯びた声だ。


「怖くない、寝なさい」

「怖いよ」

「怖くない」


 会話が途切れる。

 荒い息が聞こえた。

 リーシャは呼吸を乱すほどに怯えているらしい。

 黙って様子を伺っていると、何度か布団を殴るような音が聞こえた。

 いっそ意外なほどに強く、過度なストレスが破裂したような勢いで布に暴力を振るっている。

 幾度も乾いた音が響いて、リーシャは深く息を吐く。


 かすかに震える息で、彼女はまた話し始めた。


「……ねぇ、おしさまは、どうして起きてるの?」


 そんなことを聞いた。

 私は淡々と事実を答える。


「習慣だ。昔から、よく夜に目覚めていた」

「どうして?」

「怖かったんだ」


 その言葉に、リーシャは少しだけ黙り込んだ。

 私は……注意深く耳を澄まし、反応を伺いながら言葉を重ねた。


「みなが怖がらないようなものが怖かった。……どうしてみんな、普通でいられるのだろうと、よく考えていた」


 息を呑むような気配がある。

 リーシャは長くためらった後、おずおずと問いを投げかけた。


「おしさまは、もう怖くない?」

「ああ、もう克服した」

「どうすれば()()()()できる?」

「魔術師になればいい」


 答えると、彼女はもう一度息を呑んだ。

 そしてかすかに笑みを漏らす。


「そっかぁ」


 呼吸が少しずつ落ち着いていく。

 私は、いま別の恐怖に追われていることを教えなかった。

 しばらくすると、耳に安らかな寝息が届き始める。



 ―――



 翌日の授業は早朝から始まった。

 ベンチについた朝露を払って、二人が目の前に腰を下ろす。

 私は立ったまま話を始めようとしたが、目を輝かせたマーガレットが口を開いた。


「師範、聞いてください。少しですが、私も復習して参りました。それで飲み込めたんです。師範の言う認識の改竄かいざんは唯心論的な……」


 私は小さくため息を漏らす。

 手を前に出して、ハンドサインで彼女の言葉を遮った。

 それで一旦は黙ったが、マーガレットはどうも扱いづらかった。

 彼女には、貴族の娘らしく色々と教養がある。

 ただ少し話を振るとまくし立てる悪癖があった。

 おまけにそれが間違っている……というよりは、勝手に別の知識と結びつけているようなことも多い。


 やんわりと注意しながらも、私は段々と長く話を遮られるのにうんざりし始めた。

 なので必然、リーシャに語りかける機会が増えていく。


「リーシャ、生命樹において、最下層……除外の層に位置する生物の特徴を言えるか?」


 生命樹とは、正式にはマティアスの生命樹と呼ばれる樹形図のことである。

 上から順に魔術の生贄として効果の高い生物の名前が配されている。

 だがそこには生贄として使えない生物もいるのだ。


 つい先日に話したのだが、リーシャは首を傾げて考え込んでしまう。


「え? あ〜? えへへっ……」


 リーシャは誤魔化すように笑いながら額に手を当てる。

 マーガレットがもどかしそうにリーシャを見る。

 少し剣呑な視線だった。

 ややあって、リーシャは思い出して答える。


「あ! 分かった! 植物だよね、おしさま!」


 正確には、脳や知覚器官を持たない生物だ。

 そういう意味では必ずしも全ての植物が除外というわけでもない。

 ただ今回は正解としておいた。


「そうだ。よく覚えていたな」


 私はそう言った。

 リーシャは嬉しそうな笑みを浮かべる。

 しかし、マーガレットは承服しかねる……という様子で立ち上がった。


「師範、植物という回答は正確ではない気がします」

「別に、捉えやすいイメージから細部を詰めていくのは構わない」


 私はそのように答えた。

 マーガレットはまだ何か言おうとしたが、ぐっと呑み込んで座ることにしたようだった。


「…………」


 私は小さくため息を漏らす。

 話したいようなので、また彼女にも質問をしようと決める。

 ただやはり、要領を得ないような答えが多い。

 その内に私は、彼女が敬虔な『主神教』の教徒であることに気がつく。

 というのも、魔術のあれこれを信仰や哲学に結びつけようとしているようなのだ。


「!」


 授業の途中、何かに気がついたようにマーガレットは顔を上げる。

 さらに、ひどく興奮した様子で立ち上がって話し始めた。


「ああ、分かりました! 我々が祈るという行為は……一種の魔術だったのですね。心から神を信じ、祈ることで我々の願いは認識を塗り替え、奇跡を引き起こす…………」


 目を輝かせて語り続ける。

 そして、ついにはあらゆる病を治したという聖書の逸話を引き合いに出した。


「なので師範、もし私が、私の魔術で聖人オラトスの奇跡を再現できればみんなが救われるでしょうか?」


 私は話を聞いていて、まだ少し理解が足りていなかったことに気がつく。

 彼女は信仰に魔術を結びつけているのではない。

 自分に都合のいいこと……たとえば病を治す奇跡などから逆算して話をしているだけだ。


 興を削がれて、マーガレットの話を遮った。


「マーガレット、今日はここまでにしよう」


 時刻はまだ昼過ぎである。

 予定では夕刻まで教えるはずだった。

 なので不満を露わに、マーガレットは授業を続けさせようとする。


「えっ、なぜです……? 私はまだ……」

「いいや、終わりだ。自己暗示の課題をこなしていなさい」


 多少強引に授業を終わらせる。

 それから私はリーシャに目を向ける。

 彼女もじっと私を見ていた。


「……リーシャ、お前は来い」

「はーい」


 呼びかけると、軽い返事と共にベンチから立つ。

 そして彼女を連れ出したことに特別な意味はなかった。

 ただこの街は安全とは言えないので、あまり遠くに離れたくなかっただけだ。


 しかしマーガレットは、そうは思わなかったらしい。


「……その子には教えて、私には教えたくないことがあるのですか?」


 涙ぐんでそんなことを言う。

 私は何も答えず、リーシャに目配せをした。

 ついてくるように合図をしたつもりだ。


 そのまま黙って、二人で屋敷の庭を立ち去った。



 ―――



 その後、私は戯れに『泉』を訪れてみた。

 リーシャを連れて、念のため姿を隠した状態で。

 去る時期の目安にでもなればいいと思って。


「なるほど、こうなっているのか」


 私はつぶやいた。

 もともと人気がなく、閑散とした街だったが……その場所には多くの人が押しかけていた。

 石畳にぽっかりとできた泉に、腰まで入ってみなが肉を食べている。


「おいしい」

「おいしいなぁ」

「いくらでも食べられる」

「もっと食べたいね」


 人々は穏やかな表情で、水に浸かって生の肉を貪っている。

 ずぶ濡れの、液体が滴る肉を食み続けていた。

 水の底から、あとからあとから瑞々しい肉が浮き上がってくる。

 その様子を見ながら、私はリーシャに語りかけた。


「一応言っておくが、あの肉は食わないように」

「はーい」


 リーシャは答えた。

 私はまた泉に視線を戻す。

 人々は穏やかに笑って真っ赤な肉をむさぼり続けている。

 思ったよりずっと症状が進行していることが分かった。


 この街を旅立つのは、そう遠くない日になるだろう。



 ―――



「……お帰りなさい、師範。昼のことは、すみませんでした」


 日が暮れる頃、館に戻った私たちにマーガレットが謝罪する。

 どうもまだ庭にいて、自己暗示の訓練を続けていたらしかった。

 それから少しだけ目を伏せて、彼女は深く頭を下げた。


「私、どうしても舞い上がってしまって……本当にごめんなさい」


 しおらしい姿を前に、私は首を横に振る。

 別に目くじらを立てるほどのことでもないからだ。

 もう教えても無駄だと思ったら、勝手に立ち去るだけである。


「別に怒っていないよ」

「うふふ……優しいのですね、師範。では、お食事にいたしましょうか」 


 それから三人で館に戻る。

 そして食事は館の一室で摂った。

 乾燥させた穀物の粥と少量の干し肉を下働きの者が運んでくる。

 だがすぐに違和感があることに気が付いた。

 私とマーガレットの分に比べ、リーシャの皿だけが違っている。


「…………」


 粥が半分ほどで、肉がなかった。


 それでもリーシャは何も言わずに匙を取った。

 文句を言わない。

 それが当然であるかのように食べ始めた。


「…………」


 私はマーガレットに目を向ける。

 彼女は素知らぬ様子で食事を続ける。

 しかし目の端でリーシャの皿を確認しているのが分かった。

 口元にわずかな引きつりがある。


「師範、お味はいかがですか?」


 ふてぶてしく、何事もなかったように笑って聞く。

 私は黙って粥を口にしたが、ため息を吐いてリーシャの皿を引き寄せる。

 粥と肉を少し分けてやった。


「えへへっ、いいの? おしさま?」


 リーシャが笑う。

 私は何も答えずに食事を続けた。

 マーガレットの匙が止まった。

 彼女は何も言わず、目を伏せてまた食事に戻る。



 ―――



 授業は毎日続いていた。

 自己催眠の実践と、魔術の理論について。

 マーガレットは相変わらず前のめりで、リーシャよりもずっと熱心だ。

 リーシャも少しはやる気を見せるようになったが、まだまだ及ばない。


 ただ、マーガレットには才能がなかった。


 教えたことは覚える。

 話を遮る癖も改善しようとしている。

 だが、それだけだ。

 彼女には真理を受け入れる素養がない。


 これは善悪や覚悟の問題ではない。

 向き不向きだ。

 そしてこの結論を、マーガレットは意外にも気取ってはいる様子だった。


「師範、私の何がいけないのでしょうか。何を直せばいいのですか?」


 私の心が離れるにつれ、こうした問いが増えていった。

 日に日に焦りが強く滲むようになる。

 問い詰められる度に、私は淡々とした口調で返す。


「別に、焦る必要はない。気にしすぎだ」

「ですが師範! あの、リーシャとかいう子供には……」


 マーガレットはそこで言葉を切った。

 唇を噛んで、視線を落とす。

 ここのところ、リーシャへの態度は明らかに変わりつつあった。



 ―――



 ある日、起きると水色の太陽が昇っていた。

 眼に刺さるような光にうんざりしながら、いつも通り授業を始める。

 リーシャは少しずつ、自己暗示を習得しつつある。

 ただ魔術理論については覚えが悪い。

 もっといい教え方がないかと頭を悩ませる。



 ―――



 あれから考えたが、結局うまい考えが浮かばない。

 なので夜半にそっと庭に出てみた。

 実際に手順を組み替えながら考えようとしたのだ。


 だが、庭の片隅には先客があった。


 マーガレットだった。

 ベンチに座って、杖を何度も動かしている。

 今日教えた自己暗示の練習だろう。


「……師範?」


 先に気づいたのは彼女だった。

 立ち上がって駆け寄ってくる。

 表情は明るいが、目のあたりに疲れが見えた。


「こんな時間に珍しいですね。授業の準備でしょうか?」


 間違ってはいないので頷く。

 正確にはリーシャのための準備だが、それを口にするほど無神経ではなかった。


「そうだ。お前は何をしている?」


 それとなく話をそらすための問いだ。

 しかしマーガレットはぱっと目を輝かせる。

 すくりと立って質問に答えた。


「授業の復習です。早く魔術を修めたいので」

「学ぶ姿勢はいいが、根を詰めすぎても体に障る」


 マーガレットは一瞬だけ嬉しそうな顔をした。

 けれどすぐに表情を曇らせて俯いた。


「……休めません。私、急がないと」

「急ぐ?」

「街の人たちが……日に日に、おかしくなっていっています。……私、やっぱり間違っていたかもしれません。私がどうにかして、騎士団のみんなを止めるべきだったかもしれません」


 止めるべきだった、と彼女は言う。

 その声は尻すぼみに小さくなった。

 肩が内側に丸まる。

 彼女は苦しげに息を乱した後、顔を上げて私をじっと見た。


「でも、私がこの街の民を救います。ゲルハルト家の者として、この街を預かっている以上は」


 語気を強めてそう言った。

 だが、言った後に黙り込む。

 返事を待っている目だ。


「…………」


 期待されていることは分かるものの、私は何も言わなかった。

 大丈夫だと言えば嘘になるし、代わりになんとかするとほざく義理もない。

 彼女はしばらく私を見ていたが、やがて視線を外した。

 それから、別の話題に切り替えるように口を開く。


「……ところで師範、一つ聞いてもいいですか」

「なんだ」

「あの……リーシャさんのことなんですが」


 声の調子が変わった。

 穏やかだが、芯に硬いものが入った。

 おずおずと距離を測るような緊張感が声にある。


「あの子、師範の授業をどう思っているのでしょうね」

「どういう意味だ?」

「いえ……私が言うことではないかもしれませんが、あまりにもやる気が見えないというか。師範がせっかく教えてくださっているのに」


 マーガレットは言葉を選んでいるようだった。

 私やリーシャのために、ではなく自分がしたい話にたどり着くために。

 丁寧な言い方だが、着地点は決まっている。


「師範は、腹が立たないのですか?」


 そう聞いてくる。

 私は黙って彼女を見つめた。

 マーガレットは息を吸って続ける。


「真剣に学ぼうとしない弟子に、師範の貴重なお時間を費やすのは……もったいないと思うんです。あの子のためにも、よくないのではないかと」

「気にするな。リーシャのことは私が判断する」


 短く返す。

 マーガレットは唇を引き結んだ。

 何か言い返したそうだったが、こらえて頷いた。


「……はい。出過ぎたことを言いました」


 それきり黙って、彼女はベンチに腰を落とす。

 杖を握り直したが、気が進まないのか手は動かさない。

 夜の庭に、かすかに荒い呼吸だけが聞こえていた。


「…………」


 私は、少しして館に戻ることにする。

 もう落ち着いて考えられるような雰囲気ではなかったので。



 ―――



 別の日、私がひとりで庭に訪れた時のことだ。


 遠く、庭の隅でリーシャがしゃがんでいた。

 何人かの騎士たちに囲まれ、びしょ濡れでへたり込んでいた。

 水をかけられたのだろう。


「…………」


 距離があるので声は聞こえないが、リーシャは卑屈に笑っているようである。

 何を考えているのかはいまいち掴めない。

 そのまま袋叩きが始まったので、私は流石に割って入った。


「おい、私の弟子を殴るな」


 低く警告すると、憎らし気に私を睨んで騎士たちは去った。

 唾を吐いて行く者もいた。

 無視してリーシャを助け起こすが、息が詰まって立てないらしい。

 しばらく彼女は這いつくばったままでいる。



 ―――



「師範、今日はいい陽気ですね」


 青い陽の中、マーガレットが上機嫌で語りかけてきた。

 館の廊下でばったりと出会ったのだ。

 私は何も言わず、ただあいまいに頷く。

 すると彼女は唐突に服を脱いだ。

 かすかな布擦れの音と共に、廊下でだ。

 彼女は何も隠さずに歩いて、しっとりと汗ばんだ裸体でしなだれかかる。


「ねぇ、私……貴方をお慕いしているんです。だから、ずっと一緒にいましょう? ……ずっと一緒に、遊んでくださいな?」


 間近で、熱を帯びた吐息がかかる。

 長い睫毛の瞳が伏せられて、潤んだ瞳が愁いを帯びた。

 細い指が私の胸のあたりを滑る。

 まるで蠢くように、内腿をいやらしく擦り合わせた。

 うんざりして突き放すと、彼女は驚いたような表情で後ずさりをした。


 だがまたも唐突に笑って、私の手を引いた。


「ああ。そうだ、見てほしいものがあるんです」


 私は手を引かれるまま、黙ってマーガレットについていく。

 彼女は裸で、楽しそうに笑って歩いていく。

 ひときわ立派な部屋の扉を開くと、そこは書斎のようだった。

 執務机の後ろに大きな絵が飾られている。


「これは私の父、今は亡きゲルハルト伯の肖像です。私は、父に代わり街を守ってみせます。どうか魔術を使えるようになるまで……よろしくお願いしますね、師範」


 マーガレットは朗らかに微笑んで言った。

 私は絵を見る。

 それは赤く皮を剥がれた人型の異形が、青い髪の少女を犯している絵であった。



 ―――



 太陽が元に戻った。

 ここ数日は流石に気が滅入っていたので、私は安堵するような思いであった。

 リーシャはつまんないね、と言って笑っていたが。


 そして、なんとなく泉を見に行ってみる。

 肉がしばらく上がっていないらしく、周りには人が少ない。

 ただなぜか泉の深くまで潜っている者たちがいた。

 肉片でもさらっていたのかもしれない。


 深い水底に、ゆらゆらと影が揺らめいている。


 その日の暮れごろ、騎士たちがまた麻袋を運んできた。



 ―――



 それは夕食後のことだ。

 ついにマーガレットが手を出した。


 リーシャと一言二言交わして、急に怒鳴り始めたのである。

 何度か顔を叩かれ、リーシャは倒れ込んでしまった。

 だが叩かれたというのにへらへらと笑っている。

 怒鳴り散らすマーガレットを押さえつけながら、私はその表情を見ていた。


「えへへっ」


 リーシャが笑う。

 ぶつぶつと何かを言いながら。

 マーガレットが刺すような声で怒鳴っているので、内容は聞き取れない。


「おい知恵遅れ!! あははっ!! なにヘラヘラ笑ってんだよぉっ!! ムカつくんだよお前みたいな低能が!! ねぇ師範おかしいでしょう!! 私の方がずっとふさわしいでしょう!! 死ねよ知恵遅れ!! おい知恵遅れ知恵遅れ知恵遅れ!! きゃははっ!」


 明らかに正気ではなかった。

 ここ数日、露骨にマーガレットに時間を割かなくなったのが原因だろうか。


 あるいはもっと別の、狂わしい何かが起こっているのか。


 ……ともかく、もう潮時だろう、と私は考える。

 暴れるマーガレットを魔術で眠らせて、リーシャの前にしゃがみこむ。


「…………」


 じっと様子を窺っていた。

 すると、俯いたままの彼女が呟いた。


「…………えへ、リーシャは死なないよ」


 いつになく無機質な声で。

 絶対に死なない、と続けた。

 私はリーシャの肩を軽く叩く。


 そして顔についたひっかき傷を見つけて、彼女へと語りかける。


「……手当てする。部屋に戻ろう」

「うん。ありがとう、おしさま」


 リーシャはにっこりと笑った。

 私たちはマーガレットをその場に残して、自室へ向けて歩き始める。



 ―――



 マーガレットが期待外れだった以上、もはやこの街に留まる意味はない。


 寝る前に、私はリーシャに街を発つと告げた。

 リーシャはあっさりと承諾して、自分の爪を見つめていた。


「はーい」


 それだけだ。

 特に何の感慨もないらしい。

 リーシャはなぜか目を丸くして、自分の爪を見ている。

 ささくれでもあったのだろうか。


 ともかく、私はもう翌朝には街を出るつもりだった。

 ……しかし、その翌朝が来る前に騒ぎが起こる。


 深い夜に、遠くで叫び声が聞こえたのだ。


 正確にはまず物音があった。

 ドン、という鈍い衝撃。

 館の柵に何かがぶつかる音だった。

 私は目を開ける。

 窓の外はまだ暗い。


 次に声が聞こえた。


 街の柵の外で上がった怒声だった。

 一人ではない。

 何人もの声が重なって、夜の闇を裂いている。


「…………」


 身を起こして窓に近づく。

 私たちの部屋は一階なので、窓から外の様子は確認できた。

 視線を巡らせると、柵の外に武装した集団がいることに気がつく。

 二十人ほどで、鎧は着ていない。

 農民か、あるいは元農民の風体だった。

 だが手には刃物がある。

 斧、鉈、鉄の棒。

 戦いの道具ではなく、暮らしの道具を凶器に転じたものばかりだ。

 そして彼らの目には殺意があって、刃はもう血にまみれていた。


 おそらく、見張りなどを殺して来たのだろう。


「出てこい!!」


 男の声だった。

 声が裏返るほどの激情で叫んでいる。


「出てこい!! クズども!!!!」


 館に石が投げ込まれた。

 松明の光が揺れて、復讐者たちの顔を照らしている。

 そこには痩せ細った男や女がいる。

 全員の目が血走っていた。


「お前ら、俺たちの村を焼いただろ!! 家族を殺して、食料を盗りやがった……!」


 先頭にいた壮年の男が柵を蹴った。

 館の柵が軋んで、枠が歪む。

 また別の者も叫んだ。


「返せ!! 俺の娘を返せ!!」


 娘を、と言った。

 私は考える。

 あの麻袋の中に、他より小さな中身があったことを思い出す。


「…………」


 背後で布が擦れる音がした。

 リーシャが目を覚まして起き上がっている。

 暗がりの中で、金の瞳がこちらを見ていた。


「おしさま?」

「街を出よう、リーシャ」


 それだけ言って荷物をまとめ始めた。

 ちなみに、襲撃者に騎士崩れが負けるとは思っていない。

 ただあれが何かの引き金になるような……そういう嫌な予感がしていた。


「…………」


 すでに外では柵が破られかけている。

 復讐者たちが斧で柵を叩いていた。

 そして、足音が館の中を走った。

 騎士崩れの男たちが叩き起こされて装備を整えている。

 重い足音が階段を駆け下りていく。


 私は荷を纏めながら、窓越しに外を眺めていた。

 戦いに巻き込まれたくなかったので、じっと動きやすくなる時を見計らっていた。



 ―――



 柵が破られ、復讐者たちが街の中に流れ込む。

 農民は装備も練度も劣っているが、数はそれなりにいた。

 そして何より、彼らには死を恐れない勢いがあった。

 家族を殺された人間の狂気である。


 だが、相手は腐っても騎士なのだ。

 しょせん農夫では勝負にならず、すぐに襲撃者たちは敗れ去る。

 おぼろな月光が石畳に広がる血を照らしていた。


「…………」


 私は館の窓からそれを見ていた。

 戦いが激しくなるのを待ち、裏手から去るつもりだったのだ。

 しかし、二分と待たずに終わったので機を逃した形だ。

 そしてリーシャも横に立って、黙って外を眺めている。

 表情は変わらなかった。

 いつもの暗い目で、死体が並ぶ庭を見ている。


「あーあ、手間かけさせやがって」


 騎士たちは勝ち誇って、死体の間を練り歩いているようだった。

 血のついた剣を死体の服で拭い、鎖帷子の留め金を直す。

 体の大きな男が死体の一つを蹴って仰向けにし、顎でしゃくった。


「早く祭壇に運べ。死体漁りが嗅ぎつけちまう」

「……処理すれば来ない。面倒くさがるなよ」


 別の男が頷きながら、すでに麻袋を広げている。

 死体を何処かに運ぼうとしているらしい。


「これだけありゃしばらく恵みに困らねぇ」

「わざわざ来てくれて助かったかもな」

「おい、あっちで半分・・になってるやつがある。あれも持ってけ」


 騎士たちは手際よく死体を袋に詰めていく。

 首を折る音がした。

 袋に入る大きさに調整しているらしい。

 慣れた手つきだった。


 その時、倒れていた襲撃者の一人が声を上げた。


「お前ら……」


 掠れた声だった。

 腹を刺されて倒れた男だ。

 血溜まりの中で体をよじって、騎士たちの方に顔を向けている。


「お前ら……村でも死体を集めてやがったな……!」


 騎士の一人が足を止めた。

 男を見下ろす。


「こいつまだ生きてんのか」


 だが男は騎士を睨みつけた。

 血の泡を吹きながら続ける。


「お前たちは、家族を殺し……死体さえ奪ったっ!」


 声が大きくなった。

 喉から血が溢れさせて、叫ぶように言う。

 対して騎士たちは冷ややかに、肩をすくめて笑った。


「だからなんだ。どうせ置いときゃ死体漁りが来る。むしろ感謝してほしいくらいだぜ」


 言いながら男の頭を甲冑の足で踏む。

 しかし男はまだ叫んでいる。

 絶え絶えの息で、踏まれた頭を捩って、石畳に頬を押し付けたまま声を絞り出した。


「俺の娘を返せ……! 娘を……お前らが連れていった……! 返せ、返せ、返せ……!!!」

「黙れ」


 騎士が鞘に入った剣で男の頭を殴った。

 鈍い音がして怨嗟の声が途切れる。


「…………」


 私は目を細める。

 今の会話で大方の裏が取れた。

 怪物を倒す遠征というのは嘘で、騎士崩れたちは野盗として働いていたのだ。

 ついでに外の集落を襲い、持ち帰った死体は祭壇に捧げていたはずだ。


 これが、この街の真実である。


 ただ釈然としないこともある。

 それはどのようにして死体漁りを避けて運んだか、という点だ。

 けれど、その答えは間もなく目の前で示される。


 騎士たちが、死体の頭部を壊し始めたのだ。


「……前のあたりに釘を打ち込め! 刺さってる間は怪物も来ねぇ!」


 騎士の一人が怒鳴りながら、剣の柄で釘を叩き込む。

 私は驚いて目を見開いた。

 彼らは、こうすれば死体漁りが来ないと知っていたのだろうか?


 だがそれは、魔術師でも知らないような知識なのだ。


「よし、処理できたな? 祭壇に持っていこう」


 騎士たちは死体を麻袋に入れて運ぼうとする。

 いつも同じことをしていたのだろう。

 かなり手慣れた様子で、淀みなく手を動かす。


「…………」


 騎士たちは一人、また一人と死体を担いで歩き始めた。

 だが、全て運び出される前にまた人が現れる。

 それは、この街の住民たちだ。

 五十人弱がぞろぞろと進んでいた。

 虚ろな足取りは、まっすぐに騎士たちへ……正確には、彼らが抱える死体へと向いていた。


「恵みだ」


 誰かがそう言った。

 ひどく穏やかな男の声だった。


「恵みがきたわ」


 別の一人が繰り返した。

 今度は女の声である。


「なんだ、てめぇら……!」


 騎士たちが気圧されて死体を落とす。

 麻袋に住民が群がり始めた。

 膝をついて、手を伸ばす。

 袋を破いて、腕や喉に歯を立てた。


「おいしい……」


 噛みちぎった。

 音がした。

 肉を引き裂く湿った音が暗い静けさの中で響く。


「うふふ、おいしいぃ」


 女の声が聞こえた。

 口の周りを赤くしながら、にこにこと笑っている。


「おいしいね」

「おいしいなぁ」


 穏やかな声だった。

 泉の前で見たのと同じ表情だった。

 あの時と全く同じ顔で、同じ声で、同じ言葉を言っている。

 ただ今度は泉の中ではなく、石畳の上で、死体から直接肉を食んでいる。


「こ、こいつら……」


 後ずさる騎士たちに、街の住民が群がり始める。

 住民たちが笑いながら死体を食べている。

 騎士たちはしばらく住民たちを振り払おうとしていたが、やがて剣を抜いて戦い始める。

 だが決して倒れず、笑顔で食いついてくる相手に押され始めた。


 二人ほど、絶叫して引きずられていく。

 それを皮切りに騎士たちは走って逃げ始めた。


「もう終わりだ! この街は終わりだ!!」


 夜の闇に騎士たちの悲鳴がこだまする。

 私は姿隠しの呪文を使って、リーシャに外へ出るよう促した。


「行くぞ、リーシャ。ラバを連れて逃げる」


 館の裏手から厩に向かう。

 だがやはり、幾人かの騎士がここに来ようとしていた。

 逃走用の馬を調達するためだろうが、住民たちを引き連れられては迷惑である。


「リーシャ、手を。手綱も離すな」


 姿隠しを解いた。

 代わりに別の魔術を使って、一気に距離を離すことにする。

 杖を手に呪文を唱えて、気安め程度の贄として、残っていた芋虫を一匹踏みつぶした。


「影の車輪、一回転、境界の淵へ」


 これはいわゆる転移魔術だ。

 一瞬で目的地に飛ぶことができる。

 しかし欠点もあった。

 距離には制限があるし、途中で中継地点を二つ経由しなければ、暗示の強度が安定せずに失敗してしまう。


 なので、私たちは街の真ん中に出てきてしまう。

 初めての転移に驚いたか、リーシャが深く息を吞んだ。


「……すごい」


 それには答えず、なんとか息を整える。

 自分だけならともかく、複数対象の転移はまともな生贄なしで使うには重い魔術だ。

 可能な限りここで息継ぎを続けようと考え、私は周囲を見回した。


 そして気づく。


「……最悪だ」


 ぞっとするような寒気が背を撫でる。

 冷や汗が流れた。

 月明かりが隠れ、ざらついたノイズが耳を撫でる。


「――――――――」


 砂嵐のような、ノイズ音だ。

 一つではない。

 あちこちから同時に聞こえ始める。

 ざぁざぁと、自然には存在しえない雑音が街中に反響した。


 それからすぐにそれが出現する。

 それは、巨大なブラウン管テレビである。

 ずっと昔、目にした記憶があるので、私はそれを知っていた。


「え? あれなに?」


 リーシャが不思議そうに言う。

 街の道に、屋根の上に、広場に、あるいは別の筐体の上に重なり、砂嵐の画面が次々と出現する。

 その高さは人の背丈の三倍ほどで、画面は点いていた。


 やがて砂嵐が薄れ、それは姿を見せる。


 真っ黒な背景に、両開きの三面鏡が映っていた。

 三面の鏡は、全てが同じものを映していた。

 鏡の前に置かれたものは、ヤギの頭である。

 首から下はどこにもない。

 頭部だけが、鏡の前に据えられている。

 さらに、ヤギの目は灰白色に濁っていた。

 白内障だ。

 焦点を結ばない二つの瞳が、画面のこちら側を見ている。


「…………」


 音もなく、ヤギの口が開く。

 ゆっくりと。

 顎が外れるほどに大きく。


 そして、中から猫の頭部が転がり出てきた。


 一つ。

 毛並みの黒い猫の頭が、ヤギの喉の奥から零れ落ちる。

 目を閉じていた。


 二つ。

 今度は白い猫。

 こちらは目を開いている。

 硝子のような碧い瞳がこちらを向いた。


 三つ。

 三毛猫の頭が舌を出したまま転がり出てくる。


 四つ、五つ、六つ。

 種類も色も大きさも違う猫の頭部が、終わることなく吐き出されていく。

 ヤギの喉は底なしだった。

 猫が喉の奥の暗がりから押し出されるたびに、湿った音がする。


 延々と。


 それが一台ではなかった。

 通りの先にも、別の筐体が見えた。

 路地の奥を覗くともう一台。

 振り返ると館の裏手にも。

 屋根の上にも。

 崩れた城壁の破れ目にも。

 同じ物が出現していた。

 全て同じ映像を流している。


 この奇妙な物体は祭壇だ。


 騎士たちが言っていた祭壇の正体だ。

 彼らは死体をあれに捧げたのだ。

 本来、こんなにも多くの祭壇が現れることはない。

 ただ釘の知識と言い、彼らはこの異形に利用されていた可能性がある。


「おしさま、怖い……」


 リーシャが言う。

 その間もノイズが鳴り止まない。

 街のあちこちから笑い声が聞こえる。

 通りの向こうで、何かが壊れるような音がした。

 巨大な足音が聞こえる。


 街の住民の体は、徐々に異形にふさわしく変異しつつあるようだった。

 肉が膨れ上がり、増殖し、分裂して、ときに共食いをする。

 ただおいしいと、それだけを何度も何度も繰り返しながら。


「…………」


 私は深く息をして、次の呪文を唱えた。


「二回転、境界の上へ」


 視界がかすむ。

 どこかに引きずられるような感覚がある。

 数秒の暗転を経て、街の外側に転移をした。


「…………っ」


 私は息を乱し、その場に倒れ込む。


「あ、大丈夫?」


 リーシャが駆け寄る。

 答える余裕がなく、無視して周囲に視線を巡らせた。

 贄として、殺せるような生き物がないかを探るためだ。

 しかし見つからない。

 それどころか、状況の悪化を突き付けられただけだ。


 街では火の手があがっていた。

 おそらく、騎士たちが苦し紛れにつけたのだろう。

 あちこちで道や柵が崩れる音がする。


 こうなってしまっては、確実に退避するなら転移が必要だった。


「…………」


 一瞬、不安そうなラバに視線が引き寄せられる。

 だが、私はこのラバを気に入っていた。

 そっと頬を撫でてやり、深く息を吸って立ち上がる。


 魔術を使おうとしたところで、マーガレットの声が聞こえた。


「師範! 師範!! 師範!!! あああああ!! たすけてっ!! たすけてください!!」


 泣きながら、街の奥から逃げてきた。

 無惨に破かれ、ボロ布のようになった平服姿で。

 怪我でもしたのか足を引きずっている。


「無理だ」


 私はそう返す。

 生贄もなく、あと一人転移に加えるのは難しい。

 それに、彼女を入れると『一回転』の時と魔術の条件が変わる。

 暗示が脆くなる可能性が高い、危険な行為なのだ。

 いま、彼女のためにその危険を冒すことはできない。


 だがそんな道理を知る由もなく、マーガレットは泣き叫ぶことしかできなかった。


「どうしてっ!! ねぇ! お願いします、私も連れて行ってよお願いだから!」


 ねぇ、ねぇと言葉を繰り返していたマーガレットが黙る。

 背後に何かを感じたのだ。

 建物の影から、巨大な肉塊……そう呼ぶしかない何かが現れて、マーガレットを見つめていた。


「あぁぁぁぁ、お願い来ないで……」


 マーガレットが懇願する。

 異形が一歩踏み出した。

 それは『恵み』を食み続けた、かつて住民だったものだ。

 人間の形はもう残っていない。


 皮膚が裂けて剥落し、その下から真っ赤な筋繊維の塊が露出する。

 生肉のような、濡れた赤だ。

 全身が膨張して、人の倍以上の大きさになっている。

 その肉の表面に、別の人間の顔が浮き出てきた。

 その中には騎士と、騎士たちが殺した人々の顔もある。


 どれも、今は穏やかに笑っている。


「おいしい」


 そう言った。

 しかしそれだけではない。

 肉の中で、沢山のなにかが笑っている。


「おいしい」

「もっと食べたい」


 マーガレットはそれに、後ずさりをする。

 そして私たちを見て、周囲に何か、誰かを探す。

 けれど何も見つからなかったのだろう。


「…………!」


 やがて、憎悪と絶望に染まった表情で、喉が張り裂けるような叫びをあげた。


「なんだよぉ! 守れよぉ、私を守れよぉ! あの馬鹿ども! 勝手に死にやがって!! そもそも私はあんなこといやだって言っただろ!! やめとけって言った!! 私は……私は、悪くないのにっ!! 私の責任じゃないのに!!!」


 最後に曝け出したのは、いたって平凡な弱さ、醜さであった。

 私は完全にマーガレットから興味を失う。


 だが目を離すことはできなかった。


 直後、彼女の体が不自然にのけぞったのだ。

 一方で、両足は地面に縫い付けられたように動かない。

 全身が硬直する。


「!」


 そして、背中が反った。

 逆方向に。

 人間の背骨が曲がらない方向へ、ぐにゃりと折れ曲がった。


「っ…………」


 声にならない声を上げて、マーガレットが目を見開く。

 逆さになった顔が『理解出来ない』というような表情を浮かべていた。

 口の端から、額へと血が垂れる。


「痛い……! 痛いっ!!」


 マーガレットが叫ぶ。

 間を置かず彼女の腹が膨れた。

 平服の布が内側から不自然に押し上げられていく。

 ついに腹の真ん中が弾け飛んだ。


「…………」


 私は声を失う。

 目の前の現象から視線を背けることができなかった。

 もしそうすれば死ぬ、という直感があったのだ。


「っ…………」


 恐怖にか、リーシャが引きつった息を漏らす。

 やがて、マーガレットの血まみれの腹から手が出てきた。

 皮膚のない手、筋繊維が剥き出しの、真っ赤な手である。

 そしてその指が裂け目を広げる。

 マーガレットの体を内側から開いていく。


 ゆっくりと、人の形をしたものが這い出してきた。


 皮を剥がれた男だ。

 全身の皮膚がない。

 筋肉と腱が露出している。

 サイケデリックなほど鮮やかに、赤く濡れていた。


 そしてその人型は、手にフィルムを持っている。

 腹の中から半身だけを出して、笑顔に近い表情を浮かべていた。

 ただフィルムをじっと見て嬉しそうにしている。


 そうしていると周囲のテレビからヤギが消えた。

 代わりに映ったのはマーガレットの姿だ。


 青い髪の幼い少女が、大きな男に手を引かれている。

 男は背が高い。

 貴族らしい気品を湛えた表情で、穏やかに笑っている。

 きっとこれが本当のゲルハルト伯……つまり父親なのだろう。

 少女も手を繋いで、嬉しそうに笑っていた。


 そしてフィルムが進む。

 無数の画面の中で少女が成長していく。


 いつしか怪物が現れるようになり、街が荒れていく。

 ある日から父がいなくなった。

 マーガレットは笑わなくなる。

 そうして、彼女は全ての画面で異なる末路をたどった。

 殺されたり、怪物になったり、犯されたり。

 もっと名状しがたい狂気に呑まれることもあった。


 やがて上映が終わる。

 画面の中に戻ったヤギが、人間の手で拍手をしていた。

 ぱちぱち、ざぁざぁとノイズと拍手が入り混じる。

 その狂気の中で、真っ赤な人型はマーガレットの頭に触れた。

 手元は見えない。

 かすかな水音と共に、頭部からなにかをフィルムに巻き取っているようである。


 それが終わると、静まり返った街にラッパが響いた。

 どこからともなく。

 澄んだ、明るい音色。

 狂気がほどけるような。

 場違いなほど晴れやかな音である。


 ……それから起こったことは、もう私の理解の範疇を超えていた。


 瞬きの間に、夜が明けたのだ。

 夜中の空が一瞬で真昼になった。

 雲一つない青空が広がっている。

 陽光が荒野と街を照らした。

 燃えていた街から火が消え、肉塊の異形たちが分離し、数えきれないほどの死体へと変わる。


 さらに、その死体の傷が見る間に閉じていった。

 何事もなかったかのように立ち上がる。

 死体の中には騎士も、騎士に殺された者も、街に住んでいた者もいた。


 私は固唾を呑んでなりゆきを見守る。


 街の住民が喉に手を突き入れ、吐き始めた。

 床を埋め尽くすような赤い吐瀉物は瞬く間に人の形となる。

 続いて、吐瀉物から蘇った数人がどこからか麻袋を拾ってくる。


「おしさま、あれ……」


 リーシャが声を漏らす。

 彼女の言わんとすることは分かる。

 あれは死体袋だ。

 そのはずなのに、彼らは自らその袋に入った。

 続けて、太い釘を自らの頭に突き刺す。


「騎士様、おかえりなさい」


 呆然と立ち尽くしていた私の耳に、そんな言葉が届く。

 気づけば目の前には、麻袋を運ぶ騎士たちの姿があった。

 笑顔で住民が出迎えている。


「おかえりなさい、マーガレット様!」


 鎧を着て、マーガレットが笑顔で手を振っていた。

 まぶしい陽の下、銀の鎧がきらめいている。

 赤い人型の姿も、ノイズを吐くテレビも幻のように姿を消していた。


 私は、意識するより先に呪文を唱える。


「三回転。境界の外へ」


 転移が成功する。

 街の外、霧がかった街道に私はいた。

 時刻は昼で、マーガレットたちと出会った時を思い出す。


 安堵したのと、疲れ切っていたのもあって私は座り込んだ。


「……馬鹿か、私は」


 強く自分をなじる。


『得体のしれないものには近づくな』


 私は、その教訓をさかしらに破ってしまった。

 新しい弟子がどうのと欲を出して、最悪の場所に足を踏み入れてしまったのだ。

 ……多分あの街は、最初から最後まで、何かの遊び場だったのだろう。

 今までもこれからもずっと、そうなのだろう。


 だというのに、街の真実がなんだと訳知り顔をした私は道化でしかない。


 そしてその道化が無事に出られたのは、おそらくはただの偶然である。

 誰も知らない、いくつもの複雑な条件を……たまたま満たしていたから外に出られただけだ。

 絶対に次はない。

 というより、本当に見逃されたのかも定かではない。

 私は頭を抱えて、自分の過ちを噛みしめるしかなかった。


 ……しかし、ふと聞こえた声に思考を打ち切る。


「……ふふっ」


 笑い声だ。

 ぎょっとして目を向けると、霧の中でリーシャが笑っていた。


「えへ、えへへ、ふふふっ…………」


 なにがおかしいのか、彼女はひそひそと笑う。

 こらえきれないというように、口元に手を当てて。

 まるで弾けるように、指の間から息が漏れた。


「…………」


 笑い声はずっと大きくなる。

 いつしかきゃあきゃあけらけらと声を上げるようになった。

 しゃがみ込んで。肩を震わせて。

 暗い瞳に涙まで浮かべて。


 リーシャはこうしてずっと、得体のしれぬ感情に溺れて笑い転げていた。




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