ガーベラ
『ゆりかご』で待ってる。
―――
旅の途中、山に入って二日が経った。
昼間の山景からは、道と呼べるものはとうに消えていた。
獣道すら途切れ、踏み固められた形跡のない地面をラバの蹄が踏んでいく。
そして本来木々があるべき場所に別のものがあった。
臍帯……要はへその緒である。
地面から空に向かって、巨大なへその緒が無数に伸びている。
太いもので人の胴ほどもある。
赤黒く、湿った表面に青い血管が浮き出て脈打っていた。
それが森のように密集して生えている。
臍帯林。
私は以前にもこれを見たことがある。
しかし慣れるものではなかった。
一本一本の先端が雲を突き抜けて空の向こうに消えている。
脈動しているのがその証拠だった。
太い血管がゆっくりと収縮し、赤黒い液体を空の彼方に送り出している。
その途中、ちょうど人の背丈の倍ほどの高さに、こぶのようなものがぶら下がっていた。
半透明の薄い膜に包まれた、老人の胎児である。
皺だらけの肌。閉じた目蓋。歯のない口がわずかに開いていた。
丸まった体が時折びくりと痙攣し、その度に臍帯全体が揺れる。
老いた赤子が母の胎内にいるように見えないこともない。
ただしその母は空まで伸びる肉の柱だった。
どの臍帯にもそれがぶら下がっていた。
何十、何百と……見渡す限りのへその緒の全てに老人の胎児が吊り下がっている。
「おしさま、あれなあに?」
「臍帯林だ。触るな」
「うん」
リーシャはラバの背に揺られながらきょろきょろと辺りを見回していた。
胎児を見ても怯えた様子はない。
ただ不思議そうに見上げている。
足元の地面がぬるついていた。
臍帯から滴る液体が土に染みて、歩くたびに靴の裏が粘る。
ラバが首を振って嫌がった。
手綱を引いてなだめながら進む。
臍帯の間を縫うように歩いた。
湿った表面が肩やローブに触れるたびに、生温かさが布を通して肌に伝わる。
これは紛れもなく生きている。
頭上では胎児たちが揺れていた。
痙攣のたびに膜の中の液体が波打ち、わずかな水音が林の中に反響する。
しばらくして、道の脇に小さな集落の跡が見えた。
家と呼ぶには粗末な木組みが三つ四つ。
屋根は崩れ、壁板が剥がれている。
「…………」
林の隙間から目を凝らす。
人の気配はなかった。
ただ、集落の入口の柱にもたれかかるように座った死体がある。
死体の口からは大量の黄色い麻糸の束が垂れ下がっていた。
もうすこし見てみれば、同じような死体があちこちにあると気が付く。
初見の死に方だが、これもまた終末の一部なのだろう。
私は視線を前に戻して歩き続けた。
へその緒の林を抜けた先で視界が開ける。
空気が変わった。
湿った生臭さが薄れ、乾いた風が頬を撫でる。
ようやく、少しは安心できそうである。
「おしさま、おなか空いた」
「もう少し歩く」
リーシャの声に短く答えて、私は山道を進み始めた。
―――
山道の曲がり角を越えた先に、その小屋はあった。
丸太を組んだ粗末な造りだったが、崩れてはいなかった。
周囲の地面は踏み固められ、薪が几帳面に積まれている。
つまり人が住んでいた。
この山中で、一人で生き延びている人間がいる。
私が足を止めると、小屋の裏手から木を割る音がした。
しばらく待っていると、斧を担いだ老人が角から現れた。
「…………」
痩せた体に厚い手の平。
日に焼けた肌の上に深い皺が刻まれている。
背は曲がっているが足取りはしっかりしていた。
老人は私たちを見ると足を止めた。
リーシャを見て、ラバを見て、また私を見た。
品定めをしている目だった。
「……旅人か」
声は低く、しゃがれていた。
私は頭を下げた。
「申し訳ないが、一晩、屋根を借りたい」
「勝手にしろ」
老人は斧を壁に立てかけながら言った。
不愛想な声である。
「ただし、ここで死ぬなよ。死なれると死体漁りが来て迷惑だ」
言い終えると踵を返して小屋の中に入っていく。
扉を閉めなかった。
入ってもいいということだと解釈する。
「おしさま、あの人こわい?」
リーシャが聞く。
私は首を横に振った。
「いいや」
「ええ……でも、こわい顔してる」
「顔と中身は別だ」
リーシャをラバから下ろして軒先に繋ぐ。
なんとなしに見ると、小屋の中は思ったより広かった。
土間と板張りの居間が一つ。
奥に寝床がある。
天井から乾燥した薬草が束で吊るされていた。
壁際の粗末な棚に木の器や瓶が並んでいる。
火が焚かれていた。鉄の鍋が囲炉裏にかかっている。
老人は棚から木の椀を二つと匙を二つ取り出し、鍋の中身を注いだ。
振り返ってそれを差し出した。
「食え」
それだけ言って自分は囲炉裏の前に座り込んだ。
椀の中には穀物を煮込んだ粥があった。
芋の切れ端と、少量の干し肉らしきものが入っている。
非常に親切である。
この老人の態度と行動は噛み合っていなかった。
「いただきます」
リーシャが小さな声で言って椀に口をつける。
一口飲んで目を丸くした。
「あったかい……」
ぽつりと呟いた。それからまた粥をすする。
温かいものを口にしたのは久しぶりだった。
ここ数日は干し肉と水だけで歩いてきたのだ。
私も黙って食べた。
塩の加減が丁寧で美味しいと思う。
「……お前はどこのどいつだ」
老人が火を見たまま聞いた。
名前を聞かれているのだろうが、私は濁した答えを返す。
「旅の魔術師だ」
「あぁ、魔術師だと? 馬鹿にしやがって」
老人は鼻を鳴らした。
「まぁなんでもいい。そっちの小さいのは」
「リーシャです。えへへ……おじいちゃん、おかゆおいしいよ。ありがとう!」
「別にお前のために作ったんじゃない。俺の残りだ。馬鹿め」
老人は目を逸らしながら言った。
鍋にはまだ粥がいくらか残っている。
残り物にしては多すぎた。
温かくもあるので、老人はこれから食べようとしていたのかもしれない。
ともかく、彼はもう一度鼻を鳴らし、鍋の粥を空になっていたリーシャの椀に注いだ。
「残すなよ。食い物を粗末にするやつは出て行ってもらう」
「うん、ありがとう」
「礼は要らん」
老人はそう言って、また囲炉裏の前に腰を下ろした。
「食ったか? じゃあ来い」
やがて食事を終えてから、老人は小屋の中を簡潔に説明する。
水はこの壺のを使え、便所は外の裏手……やぎには触るな、そんな具合に。
―――
夜になった。
そして老人が寝床を整えてくれた。
藁を敷いた上に獣の毛皮が二枚。
これも黙って差し出された物だ。
感謝すると、死なれると困るから……と、またお決まりのように口にしていた。
リーシャは毛皮にくるまるとすぐに寝息を立て始める。
ここ数日は野宿続きだったので、泥のように眠り込んでいる。
しかし私は眠らなかった。
囲炉裏の火を見つめながら、老人と向かい合って座っていた。
老人はときどき薪をくべた。
「一人で住んでいるのか?」
私が問いかけると老人は首を横に振った。
「孫がいる」
そう言って部屋の奥を顎で示した。
暗がりの中に小さなゆりかごがあった。
私は初めてそれに気が付く。
近づいて覗き込むと、布に包まれた赤子が眠っていた。
まだ生まれて半年ほどだろう。
握りしめた拳が頬のそばにある。
今まで、泣きもせずにじっとしていたのだ。
とても利口な赤子である。
「息子夫婦の子だ」
老人は火を見つめたまま言った。
「二人とも死んだ。病か……まぁ、なんだったかは覚えとらん。どうでもいい。よくわからん死に方だった」
覚えていないのではなく言いたくないのだろう。
ほんのわずかな声のかすれで察せられる。
「…………」
赤子が小さく身じろぎした。
ゆりかごがかすかに揺れる。
老人がそちらを一瞥して、また火に目を戻す。
「あの、へその緒の化け物どもの中を来たのか」
臍帯林のことだ。
老人はぽつりと問いを漏らす。
「ああ」
「そうか。よく生きてたな」
「道を知っている」
「嘘をつけ。あの中に道なんぞない」
老人は短く笑った。
けれどすぐに笑いは消えて、沈んだ声で語り始める。
「あそこを通ると体が全部ただれちまう。俺は一度だけ見た。山の向こうから来た男が三人……ひどいもんだった。一人は死んだ。頭が溶けとった」
老人は淡々と言った。
「二人は生きていたから泊めた。死んだ一人はすぐに運んで捨てた。死体漁りに見つかる前にな」
言葉を区切り、壺の茶を一口啜った。
喉を湿らせてまた語る。
「生きてた二人も三日後に出ていった。山の向こうに安全な国があると言い張ってな。またあの林に入っていったよ」
「無事に着いたか」
「知らん。だが、そのあと誰も来なかった」
老人は茶を置いた。
囲炉裏の火がぱちぱちと音を立てた。
「お前、本当に魔術師のようだな。でないと、あそこを無傷で歩けるわけがない」
私は何気なく窓の外に目をやった。
夜空はよく晴れていた。
星が見えている。
しかし、空の一角が黒い。
「……何だ」
立ち上がって窓に近づく。
星空の真ん中に、真円の穴が開いていた。
夜空よりもなお暗い、光のない黒だった。
星も月明かりも、その穴の中には存在しない。
無の穴の縁から何かが放射状に降っている。
雨だった。
通常の雨とは降り方が違った。
雲から落ちるのではなく、穴から噴き出している。
水の線は穴を中心に完全な放射状を描いていた。
奇妙な光景を見ながら、あれもきっと良いものではないのだろうなと考える。
「ああ、あれか」
老人が窓辺に来ることもなく言った。
声に驚きはなかった。
「一度降るとな、止まんぞ、ありゃ」
「分かるのか」
「ああ、前にも似たようなのがあった。空に穴が開いて、そこからわけの分からんものが降ってきた。あの時は砂だったか。一月降り続けて、山道が埋まった」
どうも、水以外が出ることもあるらしい。
では雨とは呼べないだろうか。
晴れているのに降っているのだし。
ともかく、老人は薪をくべて火を大きくした。
「しばらくはここにいろ。山道は水が流れると崩れる。あの雨がどこまで降るか分からんが、少なくとも二、三日は動かん方がいい」
合理的な判断だった。
降り方を見ると、山を歩く気にはなれない。
しかし居座れば、老人の食料を消費することになる。
「食料の蓄えは」
「心配するな。畑がある。しばらくはもつ」
私はしばらく考えて頭を下げた。
自分たちの保存食を食べるという手もあったが、補給のアテがつくまでは温存したかったのだ。
「……申し訳ない、世話になる」
「勝手にしろ」
老人は同じ言葉を繰り返して、それ以上は何も言わなかった。
私は窓の外の黒い穴と放射状の雨を見つめていた。
あれは邪神の力が空に穴を開けたのだ。
理屈ではなく、ただそうなった。
「…………」
ゆりかごの中で赤子が静かに呼吸している。
私はリーシャの寝息を確認してから、毛皮を一枚かけ直してやった。
―――
それから、この山小屋で過ごすことになった。
黒い穴からの雨は止まらず、ラバを連れて下るには危険が大きすぎたのだ。
そして、老人と共に寝起きをする生活が始まる。
彼の生活は規則正しかった。
夜明け前に起きる。
囲炉裏に火をおこす。
それから赤子のもとへ行き、やぎの乳をぬるめて少しずつ飲ませた。
赤子の世話を終えると外に出て畑に向かう。
畑は小屋の裏手にあった。山の斜面を削って作った小さな段が三つ。
石を積んで土留めにしてある。
根菜が数種類と葉物が少し……どれも痩せた土にしがみつくように生えている。
老人は毎朝それを一つ一つ確かめていた。
葉の裏を見て虫を取り、根元の土を寄せ、水をやる。
慣れた手つきだった。
「おじいちゃん、なにしてるの?」
リーシャが畑の縁にしゃがんで聞いた。
二日目の朝のことだった。
「見りゃ分かるだろう。畑だ」
「リーシャも手伝う?」
「邪魔だから来るな」
そう言いながら老人は小さな鍬をリーシャに渡した。
言葉と行動があべこべな男である。
彼は道具の使い方を一度だけ見せた。
「土の表面を浅く掘り返せ。固まった部分をほぐす。深く掘りすぎると根を傷める」
それだけ言って、あとは黙って自分の作業に戻った。
リーシャは不器用に土を掘り返していた。
何度か深く掘りすぎて老人に舌打ちされた。
しかし怒鳴られることはなかった。
リーシャはときどき虫を見つけると手を止めてじっと見つめている。
指を近づけるが、潰そうとはしなかった。
以前の彼女なら迷わず潰していただろう。
心境の変化によるものなのか、約束を守っているだけなのかは不明だ。
そして、午後になると老人は井戸を掘っていた。
小屋から少し離れた場所に、すでに人の背丈ほどの深さの穴がある。
老人は穴の底で鍬を振り、掘った土を桶に入れて引き上げている。
一人でそれを繰り返していた。
「水は出るのか」
私が聞くと老人は穴の中から泥だらけの顔を上げた。
「俺は出ると思ってるし、出るまで掘る」
「どのくらいかかる」
「知らん。だが掘らなきゃ出ない」
それだけ言ってまた鍬を振り下ろした。
今使っている水は、山の上方から引いた細い沢の水だった。
しかし沢は黒い穴の雨で増水しており、濁りが出ている。
黒い穴に限らず、沢が涸れたり汚染されたりすれば水を失う。
だから井戸を掘る。
この老人は、赤子のために全てを整えようとしているのだろう。
自分がいなくなったあとも孫が生きていけるように。
「手伝おうか」
「要らん。余計なことをするな!」
老人は穴の中から怒鳴った。
しかし私が穴の縁に座って掘った土を運び始めると、何も言わなくなった。
互いに一言も交わさないまま、日が傾くまで掘った。
やがて、運ぶ土に湿り気が出てきた。
この分だと完成に立ち会えるかもしれない。
穴の外に出た老人は土を指で擦り、匂いを嗅いだ。
「もう少しだ」
独り言のように呟いた。
声にわずかな安堵が混ざっていた。
夕方になると老人は小屋の中で何かを書いていた。
動物の皮をなめしたものに、焼いた木の枝の先端で文字を記している。
小さな文字がびっしりと並んでいた。
「何を書いている」
「この辺りのことだ。どこに何がある。どの水が飲める。どの草が食える。どの季節にどの虫が来るか」
老人は書く手を止めずに答えた。
「あとは、やぎの乳の搾り方。根菜の植え方。塩の作り方。全部書いとく」
老人は一息つき、皮をめくって次の面を出した。
「この子が十といくつになる頃には、俺はもう死んどるかもしれん。だから書いておかんとな」
赤子はまだ目もろくに開かない。
この子が大人になるまで、この世界が続いているかどうかすら分からない。
ふと覗き込むと、文字は意外に整っていた。
図も描かれている。
山の等高線のような線と、水場を示す印。
食べられる草の葉の形を写し取ったらしい絵があった。
ページの端に小さく『じいちゃんより。がんばれ』と書かれている。
「…………」
書き物をする老人の横で赤子がぐずった。
ミルクだ。
この赤子は腹が減った時だけ泣く。
老人はすぐにペンを置き、赤子を抱き上げて世話をした。
赤子が泣き止むと、また書き物に戻る。
その繰り返しだった。
私は夜が更けるまでそれを眺めていた。
自分で決めた道の、迷いが消えるような気がしてありがたかった。
そして、三日目の朝。
畑に小さな怪物が現れた。
指の長さほどの蟲が畑の隅に群れていたのだ。
透明な体の中に赤い臓器が透けて見える。
触れたものの表面を溶かす粘液を分泌する魔物だった。
すでに葉物の端が溶けて縮れている。
私が杖を抜こうとすると、老人が手で制した。
「待て」
老人は小屋に戻り、棚から灰と塩の瓶を持ってきた。
手の平の上で混ぜ合わせ、蟲の周囲にぐるりと撒いた。
一箇所だけ隙間を残している。
「こいつらは灰と塩を嫌う。逃げ道を一つだけ残して囲めば、そこから出ていく。……追い出すんじゃない。暴れさせず、出ていくように仕向ける」
言葉の通りだった。
蟲の群れは灰と塩の匂いを避けて、開いた隙間から列をなして這い出ていった。
最後の一匹が出るのを老人は腕を組んで見届けた。
それから隙間を灰で塞ぐ。
「経験か」
「そうだ。もう何度もやられとる。最初は踏み潰そうとして足の裏が溶けた。二回目は火で焼こうとして畑ごと焦がした。三回目にようやくこのやり方を見つけた」
老人は溶けた葉野菜を見て舌打ちした。
「魔術かなんか知らんが、そんなもん使わなくてもやりようはある。いや、まぁ……見つけるしかないんだが」
確かにその通りだった。
この老人は経験と観察で生き延びてきた。
それは魔術とは別の知恵であり、魔術よりも確かなものだった。
むしろ魔術などに頼った者がいるせいで、この賢い老人の世界は壊れてしまった。
「すまない」
私は、様々な思いを込めて老人に一言だけ謝った。
―――
その夜、私は小屋の扉の前に立って空を見上げていた。
黒い穴はまだそこにある。
雨は降り続けていた。
「…………」
ふと部屋の中に振り返ると、リーシャが赤子のゆりかごの前にしゃがんでいた。
じっとゆりかごの中を覗き込んでいる。
光のない金の瞳がゆりかごの中に注がれている。
赤子が身じろぎした。
小さな手が布の外に出る。
リーシャは微動だにしなかった。
ただ、一度だけ赤子の頬を撫でる。
「…………」
しばらくして、リーシャは何も言わずに立ち上がり、自分の寝床に戻った。
ゆりかごの中で赤子は眠り続けていた。
―――
あくる日の朝だった。
老人の叫び声で目が覚めた。
言葉にならない叫びだった。
喉が裂けそうなほどの声量で、小屋の壁板が震えた。
飛び起きて小屋の外に出る。リーシャも後ろからついてきた。
裏手の畑に回ると、雨の中で老人が立ち尽くしていた。
「どうかしたのか?」
そう聞いた私は、目にした光景に絶句した。
畑が変わっていたのだ。
土がなくなっていた。
全てが丸ごと腐肉に変わっていた。
赤黒い肉の塊が畑の全面を覆い尽くしている。
筋繊維が露出し、脂肪の白い層が所々に筋を引いていた。
腐敗の匂いが朝の空気を塗り潰していた。
肉の表面に人の顔のような瘡が浮いている。
目も鼻もない。口だけの顔だ。それが無数に並んでいる。
そして肉には青い蛆虫が湧いていた。
鮮やかな青……晴天の空に似た、しかしずっと冷たい青だった。
それが肉の表面を覆い尽くしている。
蛆の体は半透明で、中に取り込んだ赤い肉片が透けて見えた。
全体がゆるく波打つように蠢いている。
無論、根菜は跡形もなかった。
老人が何年もかけて作った畑の全てが、一晩で腐った肉に変わっていた。
「…………」
老人は畑の縁に立ったまま動かなかった。
両手が拳を握っている。指が白くなるほど握りしめていた。
それから声を上げた。
「なんだこれは……なんだ、クソッ……!!」
怒鳴り散らした。
地面を蹴った。
腐肉の破片が飛び散り、青い蛆が宙を舞った。
構わずにまた蹴った。
それでも肉は減らなかった。蛆も消えなかった。
「ふざけるな……ふざけるな!! あの畑をどれだけ……どれだけ時間をかけて……!!!」
声が裏返っていた。
老人は膝をついた。
腐肉の中に膝をつき、拳で地面を叩いた。
肉がぐしゃりと潰れる音がした。
蛆が手にまとわりつく。
拳を上げるたびに赤黒い汁が糸を引いた。
老人はそれでも叩き続けた。何度も。何度も。
拳を腐肉に叩きつけた。
「おしさま…………」
リーシャが私の袖を引いた。
言わんとすることは分かる。
「ああ」
私は杖を抜いた。
この腐肉と蛆を片付けることはできるだろう。
魔術を使えば表面を焼き払い、蛆を消し、腐敗を止められる。
この規模の魔術なら代償が必要だが……それは問題ない。
畑の周りにいくらでもある。
「星の灯、熱の模写」
短い言葉を口にする。
自己催眠の引き金である。
杖を小さく泳がせながら意識を集中させた。
畑の表面に炎に似た熱が走った。
銀色に乾いた、重い熱だった。
その勢いは雨の中で衰える気配すらない。
焼かれた腐肉が縮み始める。
水分が飛んで表面が焦げるように乾いていく。
蛆が灰になって崩れた。
青い体が白い灰に変わり、風に散っていく。
おそらく、周囲の蟲や小動物も巻き込まれただろう。
それがそのまま贄となり、魔術の規模が広がる。
簡単に、関係性を分かりやすく取り繕うならだ。
魔術とは、生命を代償とすることで真価を発揮する。
故に火はずっと勢いを増していく。
やがて顔のような瘡が口を閉じた。
肉が焼け、消えて、穴のようにくぼんでいく。
魔術が消えるころには、岩盤に近い固い地面の穴だけが残った。
「…………」
リーシャが黙って動いた。
肉の焼けくずを手で集め、畑の端に除けていく。
手が赤黒く汚れた。
しかし顔をしかめることもなく、淡々と動き続けた。
老人も途中から手を動かし始めた。
何も言わずに立ち上がり、乾いた肉の破片を桶に入れて運んだ。
小一時間ほどかけて、畑の表面は片付いた。
しかし、そこに残ったものは土ではなかった。
作物を育てる力を持たない、死んだ地面だった。
あるのは浅い穴と、その上に散る灰色の粉だけだった。
「……戻せるか」
ずぶ濡れで、老人が掠れた声で聞いた。
私の方を見ている。
希望ではなく、確認を求める目だった。
今見せたような魔術で土を元に戻せるか、という意味だろう。
「…………」
私はすぐには答えられなかった。
怪物なら倒せる。
腐肉を焼き払うこともできた。
だがこれは怪物ではない。
終焉の事象だ。
邪神の認識が世界を書き換えた結果として、土が腐肉に変わった。
それはこの場所の存在そのものが変質したということだ。
私にできるのは、局所的な事象を差し込むことだけである。
故に、邪神が変えたことを覆すことはできない。
土を元に戻すことは不可能だった。
「……すまない。私にはできない」
そう答えた。
老人はしばらく黙っていた。
怒鳴るかと思った。
あるいは懇願するかと思った。
しかし老人はただ小さく頷いた。
膝に手をついて、ゆっくりと立ち上がる。
腐肉の汁で汚れた手を腿で拭った。
「そうか」
それだけ言って小屋に戻っていった。
背中が震えていた。
リーシャが私を見上げている。
「おしさまでもだめなの?」
もう魔術を疑ってはいないのだろう。
そのような聞き方をした。
私は答える。
「ああ」
リーシャは何も言わなかった。
ただ腐肉の残滓がこびりついた手を、ぼんやりと見つめていた。
小屋に戻ると、老人は赤子のゆりかごの前で座り込んでいた。
濡れたままの老人は何も言わなかった。
ただ赤子の前で動かなかった。
「…………」
私はそれを見ながら佇んでいた。
リーシャが水を汲んできて手を洗う。
しばらくして老人が立ち上がり、同じように手を洗う。
そしてまた外に出て、長い間畑の跡地で作業をしていた。
―――
その夜、私はふと目を覚ました。
理由もなくただ目が開いた。
囲炉裏の火が小さく燃えている。
橙色の光が壁に揺れていた。
隣を見ると、リーシャの寝床が空だった。
「…………」
体を起こすと、窓際にリーシャが立っているのに気が付く。
こちらに背を向けている。
窓の板の隙間から外を見ているらしかった。
囲炉裏の火がその背を薄く照らしていた。
私は立って、リーシャの横に並んだ。
彼女が見ている先は、窓の外だ。
老人がいた。
畑のあった場所……今はただの黒い大穴になった場所の前に、老人が座り込んでいた。
月明かりの下で小さく見える。
大穴の縁に膝を抱えて座っている。
頭を膝に埋めていた。
声が聞こえた。
「もう死にたい……!」
老人は言った。
低い声だった。
呟くようではなく、はっきりとした声でそう語った。
「死にたい……死にたい、死にたい……」
繰り返した。
膝に顔を埋めて繰り返していた。
声が次第に高くなっていく。
「死にたい……! 死なせてくれ!! 死にたい!! 死にたい!!!! 死にたいんだ!!!」
叫んだ。
山に声が反響した。
雨音の向こうから声が聞こえる。
老人の体が震えていた。
声にならない声で泣いていた。
拳で大穴の縁を叩いている。
「…………」
私は窓際のリーシャを見た。
彼女は動かなかった。
ただ立って、外を見ていた。
光のない金の瞳が窓板の隙間に向けられている。
何を考えているのか分からなかった。
部屋の奥で、ゆりかごがかすかに揺れていた。
赤子自身の身じろぎが、わずかな振り子運動を生んでいるだけである。
きぃ、きぃと木が軋む音が小さく聞こえる。
そして、窓の外では老人が泣いていた。
「なんで……なんでこんな……」
言葉が途切れる。嗚咽に呑まれる。
「死にたい……もう死にたい……あああぁぁぁ…………!!!!」
大穴に向かって叫んでいる。
畑だった場所に。
孫のために耕していた場所に。
今はもうそこには何もない。
焼けた穴があるだけだった。
リーシャは窓際に立っている。
ゆりかごが揺れている。
老人が泣いている。
私はただそれを見ていた。
慰めも、解釈も、意味づけも、何一つできないまま。
ただ、それらはそこにあった。
老人の叫びが小さくなっていく。
声が枯れていく。
背がうなだれて、嗚咽に折れ曲がる。
「…………」
いつしかそれも途切れ途切れになった。
黒い穴からの雨が山肌を打つ音だけが闇に染みていく。
リーシャが窓から離れた。
音もなく寝床に戻り、毛皮をかぶって横になった。
ゆりかごの揺れが止まった。
赤子はもう、眠ってしまったようだ。
―――
次の日、老人は夜明け前に起きていた。
良く晴れた朝だった。
火をおこし、残った穀物で粥を炊いていた。
赤子にやぎの乳を飲ませ、布を替えていた。
その顔はむくんでいる。
泣き腫れて目が赤い。
拳の皮が破れて血が滲んでいる。
しかし手は動いていた。
いつも通りの仕事をこなす。
粥ができると、老人は黙って椀を差し出した。
私の分と、リーシャの分である。
そして自分は食べずに外に出て行った。
窓から見ると、老人は大穴の縁に立っていた。
しばらくそれを眺めていた。
やがて踵を返して小屋の横に回り、鍬を手に取った。
大穴の隣の、まだ地面が残っている場所を掘り始めた。
新しい畑を作ろうとしている。
土が足りるかは分からない。
作物が育つかも分からない。
この土も明日には腐肉に変わるかもしれない。
それでも鍬を振り下ろしていた。
いつもとまるで同じ手つきで。
リーシャが粥を啜りながらそれを見ていた。
「おしさま」
「なんだ」
「おじいちゃん、死にたいって言ってた」
リーシャは椀を両手で包んだまま窓の外を見ていた。
「でも、リーシャは死にたくないんだ。……たとえ、何があってもね。生きていたいんだ」
私は答えなかった。
彼女もそれ以上は何も言わなかった。
「…………」
外で鍬が土を打つ音がしていた。
規則正しく、何度も何度も。
死にたいと叫んだ声と同じ喉から、荒い息が漏れている。
しかし鍬は止まらなかった。
その日の午後、私たちは山小屋を発った。
雨は止み、山道が通れるようになっていた。
私は魔術でできる限りの手伝いをした後、旅に戻ることにする。
作業の後、老人は見送りには出なかった。
新しく掘り始めた畑から離れなかった。
私の魔術は、少しでも彼を楽にできただろうか。
「世話になった。ありがとう」
去り際、私が声をかけると、老人は振り返らずに言った。
「さっさと行け。もう晴れただろうが」
それだけだった。
私はラバに荷物を積み直して手綱を引く。
さらに、リーシャを荷の前あたりの背に乗せる。
彼女も笑って老人に手を振った。
「ありがとう。えへへ……おじいちゃん、またね」
「もう来るなよ。面倒だ」
老人は背を向けたまま答えた。
やはり鍬を振り下ろす手は止まらなかった。
「…………」
ラバの手綱を引いて山道を下り始める。
黒い穴はまだ空にあった。
しかし今は何も出ていない。
前を向いて歩いていると、リーシャが語りかけてきた。
「おしさま」
「なんだ」
「赤ちゃん、笑ってたよ」
リーシャが言った。
「昨日の夜。おじいちゃんが泣いてたとき」
私は足を止めなかった。
「そうか」
短く答える。
空を見ると、黒い穴がただ静かに居座っていた。
あの老人のためにも、また余計なものが出てこなければいいのだが……と、歩きながら私は考えている。
―――
日が差す山小屋。
ゆりかごの中で、赤子が笑っていた。
窓の外には、汗を拭い、畑を耕す老人の姿がある。
小さな口が開いて、声にならない声が漏れた。
目をやわらかく細めて身じろぎをする。
ゆりかごが揺れた。
はしゃぐように笑い声を上げて、赤子は天井へと、楽しそうに、精一杯小さな手を伸ばす。




