リコリス
『魔術師に至る条件』
・自己催眠の習得
・魔術に対する理解
・真理への到達
―――
明くる日。
私とリーシャは鏖殺された集落を目指して歩いていた。
日の薄い朝だった。
曇り空の下、荒れた丘陵地を歩いていると、明らかに異常な場所にたどり着いた。
掘り起こされた土が周囲に散乱し、木の根が断面を晒して垂れ下がっている。
丘の斜面がえぐられるようにして崩れ、その下に暗い穴が口を開けていた。
つまり、地下集落の入口である。
ラバの手綱を引いて斜面の縁まで近づき、中を覗き込む。
蟻の巣じみた通路が枝分かれしながら続いていた。
本来ならばこの街は完全な地下にあったのだろう。
しかし死体漁りが掘り返したことで、天井があちこち崩落している。
そこから陽光がまだらに差し込んで、土の壁と通路を不自然に照らしていた。
「おししょうさま、ここがその街?」
リーシャが横から穴を覗き込んで言った。
昨夜のぼろ布のまま、裸足で立っている。
傷だらけの白い足が朝露に濡れた土を踏んでいた。
くすんでほつれた金の髪が朝の風にわずかに揺れる。
「そうだ。地下に掘った集落だったようだが、もう荒らされているな」
そう言って、私たちは入口から中に入る。
きつい傾斜に足を滑らせないようにしながら。
するとすぐに空気が変わった。
鬱屈とした湿り気を含む土と、かすかな血の匂いだ。
「血のにおい……」
リーシャが呟く。
そして周囲を見回して、血痕に目を留める。
手のひらで壁を擦ったような形の、生々しい痕跡である。
壁を掴もうとした人間の指の形がそのまま残っていた。
引きずられた跡は通路の奥へ続いている。
しかし死体はない。
死体漁りが持ち去ったのだ。
血の痕跡だけが残されている。
リーシャは壁の血痕を見ながら黙って歩いていた。
怯えはない。嫌悪もない。ただ見ている。
通路を進む。
天井が大きく崩れた広場に出た。
陽光の柱が斜めに差し込み、土の壁を白く照らしている。
かつてはここが集落の中心だったのかもしれない。
広場のようになった場所の周囲に、掘っ立て小屋や天幕の残骸が並んでいた。
さらに地面には大きな爪痕が走っている。
死体漁りのものか、あるいは他の何かか。
血を吸って、爪痕の周囲の土が黒く変色している。
そこで、遠くからなにかの声が聞こえた。
「…………」
足を止める。
泣いているような、叫んでいるような、くぐもった声だった。
幾重にも重なった嗚咽が滲み出してくる。
人の声に似ているが、人の声ではないと気がつく。
一人の泣き声ではなく、数十、あるいは数百の口が同時に泣き叫んでいるような不協和音なのだ。
土の壁を伝って、足裏にまで微かな振動が届く。
私は声の方角を確認してからリーシャの肩に手を置いた。
「あちらには近づくな」
「なにかいるの?」
「壁が泣いてる」
それだけ言うとリーシャは首を傾げたが、問い返しはしなかった。
露出した土の、壁の一面が昼夜を問わず泣き叫ぶ。
これはある程度血を吸った土壌で発生する現象だ。
相当に厄介な呪いだが、遠いおかげで不気味なだけで済んでいる。
この世界では、違和感に近づかないということは重要な技能である。
「行くぞ。まずお前が着られる服を探す」
「服?」
リーシャは自分のぼろ布を見下ろした。
露出した肩や腕にある傷跡が朝の光に白く浮き上がっている。
そしてまた私を見上げて笑う。
「うん。分かったよ~」
泣き声を背にして私たちは廃墟の奥へ歩き始めた。
歩きながら周囲を観察する。
前は入り口までしか入れてもらえなかったが、この集落は相当な規模だったようだ。
居住区は三層に分かれていて、各層を繋ぐ階段が土の斜面を削って作られている。
だが今はその構造の大半が崩壊していた。
上層は完全に掘り返されて空が見えている。
中層もところどころ天井が抜けていた。
まともに残っているのは下層の一部だけだ。
「おししょうさま」
「なんだ」
「みんなどこに行っちゃったの?」
リーシャが私の横を歩きながら聞いた。
私は答えない。
代わりに、リーシャが壁の血痕を指で触れそうになったので、手をはたいて止める。
「触るな。何がついているか分からない」
「うん」
素直に引っ込めたが、質問の答えは待っているようだった。
ため息を吐いて答える。
「死んだ。そして、昨夜お前が見たものに運ばれた」
それだけ答えた。
リーシャは『ふうん』と呟いて、また壁の染みを見つめながら歩く。
―――
居住区と思しき一角に出た。
天幕や板で仕切られた小さな部屋がいくつも並んでいる。
人が暮らしていた痕跡が至るところにあった。
壊れた椅子。割れた食器。薄い布の寝台。木釘に掛けたまま忘れられた帽子など。
住人たちの声や息遣いが聞こえてきそうなほど生活の気配が濃い。
それだけに、今の静けさが際立つ。
私はラバを繋ぎ、そのうちの一軒に足を踏み入れる。
四畳ほどの狭い部屋だった。
寝台の脇に小さな卓と、壁に作り付けの棚がある。
棚にはすり減った蝋燭と木彫りの小さな人形が一つ。
暗がりの中に目を凝らすと、部屋の隅に木箱があった。
蓋を開けると折り畳まれた衣類がいくつか入っている。
ほとんどは擦り切れた粗末なものだった。
しかしその底に一着だけ別格の仕立てのものがあった。
取り出して広げる。
「使えそうだな」
柔らかで鮮やかに染められた紺の布地の、令嬢が身につけるようなワンピースだった。
胸元には装飾付きの布で作られた品のいいリボンが添えられている。
地下の暗がりの中でもその仕立ての良さが手に取るように分かった。
さらに箱の底には丁寧に包まれた革の靴と、清潔な下着がひと揃い入っていた。
靴は柔らかい鹿革で、踵に小さな飾りボタンがついている。
まだ履かれたことはなかったようだ。
酷使により擦り切れた粗悪な衣類の中で、宝石のように良質で、大切に扱われていたことが分かる。
家に住んでいた娘は、いつかこの服を着て外を晴れがましく歩く日を夢見たのかもしれない。
地下の暗がりではなく、陽の光の下を。
だがその日は来なかった。
「リーシャ。こちらへ来てくれ」
外にいるリーシャに声をかけた。
彼女は通路の片隅にしゃがんで壁の血の染みをじっと見つめていたが、呼ばれると立ち上がってこちらに歩いてくる。
「はーい」
口元だけで微笑んで家の中に入ってきた。
私は折り畳んだひと揃いの洋服と下着、それに靴を差し出す。
「これを着なさい」
「いいの? こんないいお洋服着ても……?」
受け取ったリーシャは表情を明るくした。
紺の布地を指先で撫でて、その感触に目を丸くしている。
胸元のリボンに触れたときにはわずかに息を呑んだ。
袖口を自分の腕に当てて長さを見比べる。
そんな様子を見ながら私は答えた。
「そうだ。大切に着なさい」
前の持ち主のためにも。
そう思って口にすると、リーシャは服を胸に抱えて笑った。
「分かったよ。おしさま……」
年頃が同じくらいだったのか、寸法は合っているように見えた。
部屋の隅に濁った水が入った桶を見つけたので持ってくる。
水は澄んではいないが、足を洗う程度には使える。
「靴を履く前に足を洗え。あまりにサイズが合わないようなら無理に履かなくていい」
リーシャが頷いたので私は部屋の外に出た。
着替えやすいようにと思ってのことだ。
土の壁に背を預けて通路の暗がりに目をやる。
遠くからまだあの泣き声が微かに聞こえていた。
何層もの土壁を越えて届くくぐもった慟哭が、低い唸りのように通路に漂っている。
「…………」
中からかすかに水の音がした。
リーシャが足を洗っているのだろう。
私はその音を聞きながら、しばらく壁にもたれていた。
静かな時間だった。
遠くの土が泣きわめいているのを無視するならば、だが。
―――
ラバのもとに戻った。
リーシャの着替えを待つ間に様子を見ておこうと思ったのだ。
色褪せた栗毛のラバは、繋いでおいた場所から動いていなかった。
荷を下ろした背を丸めて、うさぎのように立った耳をわずかに伏せている。
「お前の食事も探さなければならないな」
声をかけながら近寄り、背を撫でてやる。
しかしラバは身じろぎもしなかった。
いつもなら鼻面を寄せてくるのだが、今日は私の手を避けるように首を背けている。
目を覗き込むと、そこには頑なな光が宿っていた。優しい目をしたラバが、怯えと警戒を混ぜたような表情で私を見ている。
「どうした?」
ラバは利口だ。
言うことを聞かないのは何かをされたからだ。
確かめるために体に触れていく。首筋、肩、背、腰。
やがて手が脇腹に行き当たるとラバは身をよじった。
痛みがあるようなので毛をかき分けてよく見てみる。
引っかき傷があった。
三本の筋が平行に走っている。爪の跡だ。
いま、この傷をつけることができたのはリーシャしかいなかった。
「…………」
ため息を吐く。
鼻面に手を伸ばし、静かに撫でた。
「痛かっただろう。すまなかった」
ラバが小さく鼻を鳴らす。
しばらく撫で続けていると、顔を寄せてきた。耳の間にも手を伸ばしてやる。
少しだけ伏せていた耳が立ち直った。
地下からかすかに鼻歌が聞こえた。
調子の外れた、聞いたことのない旋律だった。
着替えをしながら口ずさんでいるのだろう。
盗賊たちの間で聞き覚えた歌なのか、それとも自分ででたらめに作った旋律なのか。
どちらにしても屈託のない声だった。
ラバの耳がその歌に向かって片方だけ傾く。
私はラバの脇腹の傷をもう一度確かめた。
薬草があれば塗ってやりたいので、探しておこうと考える。
ただそこまで深い傷でもない。
なので問題は傷そのものよりも、つけた者の方にある。
―――
やがてリーシャが斜面の下から姿を現した。
紺のワンピースにリボン、手入れされた靴。
泥まみれのぼろ布を纏っていた少女が、装いを変えれば別人のようである。
傷も隠れて、普通の子供に見えないこともない。
裾を摘んで揺らしたり、つま先で地面を確かめたり、ずいぶんと上機嫌に見えた。
地上に出ると陽の光がワンピースの紺を鮮やかに照らして、袖が風に揺れる。
だが予期しなかったことが一つ。
彼女の左手にひと束の草が握られていた。
しなびているので採取からは時間が経っていそうだが、それは私も見たことがある毒草だった。
「リーシャ。それを何故持ってきた?」
「…………」
問いかけると媚びるような笑みを浮かべた。
答えない。
答えないまま笑っている。
私はため息を吐いてその草を取り上げ、地面に捨てた。
ラバが近寄って草の匂いを嗅いだが、すぐに顔を逸らしてそっぽを向く。
「これは毒だ」
「でも、いつも飲んでたよ」
「もう飲まなくていい。今のお前は魔術師の弟子だ」
あの家に置いてあったものだろう。
身重になるのを避けるために定期的にごく少量使うものだ。
「…………」
リーシャは曖昧に頷いた。
それから、もう何も持っていない手を開いて笑った。
「えへへ」
私も何も言わず、ラバの様子を窺う。
それでひっかき傷について思い出した。
リーシャの眼を見つめて、一言だけ釘を刺しておく。
「リーシャ。このラバは私のラバだ。勝手に傷つけるな」
なぜ傷つけてはいけないか、などと語る気はない。
ただ私のものだから傷つけるなと、それだけを伝える。
「…………」
リーシャは一瞬だけ目を見開いた。
それからすぐ、顔を庇うように片手を上げかける。
「っ! …………?」
しかし、叩かれないと分かるとおずおずと手を下ろした。
「…………」
また十秒ほど黙った後、へらりと笑って首を縦に振る。
「……うん、ごめんなさい」
怯えはたちどころに消えた。
そして謝る姿は、ただ怒られたから謝るという反射でしかない。
「頼んだぞ」
私は特に深入りせず、それだけ伝えて手綱を解く。
ラバに再び荷を背負わせてから斜面を下りた。
リーシャが先に行き、私はラバを引いてゆっくりと後に続く。
ラバはリーシャから距離を取るように、私のすぐそばを歩いた。
―――
食料とラバの薬草を探すために廃墟の中を歩く。
リーシャを前に、ラバを横に、私は絶えず周囲に目を配りながら進んだ。
リーシャはどんな無惨なものを見ても足を止めなかった。
ちらりと視線を向けるだけで、顔色一つ変えない。
落ちた腕の残骸のそばを通るときも、まるで道端の石を見るような目をしていた。
むしろ足を止めて、道すがらの凄惨をまじまじと見つめることもある。
興味があるというよりも、なにかを確かめているような目つきだった。
別の通路に入ると、壊された木の柵が横倒しになっていた。
何かが出てこないようにするためのものだったのかもしれない。
いずれにせよ、今は意味を失っている。
「リーシャ。私から離れるな。まだ魔物が残っているかもしれない」
「残ってたらどうするの?」
前を歩いていた彼女が振り返る。
笑みに似た形に目を細めていた。
「姿を消して逃げる」
「やっつけないんだ?」
「できるが、意味がない」
一匹殺したところで次が現れる。
この世界の歪みが続く限り、魔物は尽きない。
無駄な戦闘を避けて目的を果たす方がいい。
「ふうん」
リーシャは興味を失ったように前を向いた。
私は何の気もなしに彼女に語りかける。
「なにか食べたいものはあるか?」
するとまた振り返って、目を丸くする。
そんなことを聞かれるとは思わなかったのだろう。
しばらく口を半開きにしてから、おずおずと答えた。
「あ、お肉が食べたい……です」
何故か敬語だった。
そして私は調理の方針を聞いたつもりだった。
けれど、肉が食べたいというのならそれでいい。
「では探すか」
こういった集落では、食べ物は一箇所に集めて管理するのが常だ。
逼迫した環境では所有権というものは邪魔になる。
共用の食料庫があるはずだった。
……などと考えながら歩いているうちに、通路はだんだんと下層へ降りていった。
空気が冷え始める。
天井が低くなり、崩落もなくなって暗がりが深まる。
食料庫は温度の低い下層に作るのが常だ。
しばらく歩くと、通路の突き当たりに木の扉が見えた。
他の部屋とは違い、鉄の錠前がかけられている。扉も厚い板を二重に張ったもので、蝶番も鉄だった。この集落で鍵が必要になる部屋など食料庫しか思いつかない。
「部屋の前で待っていなさい」
不用意に足を踏み入れれば何が起こるか分からない。
盗人のために罠が張られている場合もあれば、魔物が潜んでいることもある。
リーシャが頷いたので扉の前に膝をついた。
錠前の鍵穴に右の人差し指を触れさせる。
この程度なら杖を出すまでもない。指先に意識を集中させ、錠の内部構造を思い描く。
知らずとも、想像できればそれでいいのだ。
そしてある程度の知識は想像にリアリティを与え、リアリティが暗示の強度を引き上げる。
呪文は唱えなかった。
種も必要ない。
ただ指先の神経を鍵穴の奥に伸ばすように意識を傾ける。
私は、その鍵が開いた、という自己暗示に成功する。
するとかちり、と小さな音がした。
タンブラーが押し込まれ、鍵穴がひとりでに回転する。
外れた錠を地面に捨て置いた。
「よし」
ゆっくりとドアノブを引く。
扉が軋み、薄暗い室内に外の光が入り込んでいく。
狭い部屋だった。
しかし壁際の棚に干し肉が紐で吊るされ、木箱の中に乾燥させた穀物や豆がいくらか入っている。
「…………」
注意深く中を見回す。
罠らしきものは見当たらなかった。
足を踏み入れて壁の干し肉を手に取る。硬いが状態は悪くない。
保存の仕方を知っている者がいたらしい。
棚の奥にはさらに小さな木箱がいくつかあった。
中身はどちらも貴重な保存食だ。
しかも壁の釘にぶら下がった麻の袋には、ラバの飼料に使えそうな乾燥した穀物が入っていた。
これは助かる、と私は思う。
欲を出して調べれば、薬草も見つかるかもしれない。
なんにせよ、二人と一頭がしばし食いつなぐだけの量はありそうだ。
盗賊殺しの報酬は食料だったので、思いがけず約束が果たされた形である。
必要な分を荷にまとめて外に出ると、リーシャがラバから離れた位置で待っていた。
手綱を持ってはいるが腕いっぱいに伸ばして、ラバからはできるだけ離れている。
私は、ラバを傷つけていませんよ! とでも言うように。
そしてラバの方もリーシャを横目で見ながら、体を反対側に離していた。
「食事にしよう」
ラバの荷に食料を載せながら言う。
リーシャは頷いて手綱を返した。
その際にラバがぶるりと首を振った。
なぜかリーシャはそれを見て一瞬だけ表情を固くしたが、すぐにいつもの笑みに戻る。
「えへへ」
その笑い声の意味を私は考えなかった。
多分、考えても仕方がないので。
―――
天井が大きく崩れて空が見える広場のような場所を見つけて腰を下ろした。
崩落した天井の縁から朝の光が差し込んで、土の広場を斜めに照らしている。
風通しも悪くない。
地上の空気が穴から吹き込んで、地下の淀んだ匂いをいくらか薄めていた。
ラバを柱代わりの太い丸太に繋ぎ、乾いた穀物を麻袋から出して食べさせてやる。
ラバは鼻を鳴らして穀物に口をつけた。
その横でリーシャは干し肉を食べている。
硬い肉を小さな歯で懸命にちぎっていた。
「おいしい」
リーシャが言った。
口の端に肉のかけらをつけたまま笑っている。
目を細くして、何度も噛みしめるようにしていた。
「そうか」
私も干し肉を噛みながら周囲に目をやる。
崩れた天井から見える空は白く曇っていた。
遠くからあの泣き声がまだ微かに届いてくる。
風向きが変わったのか、先ほどより少しだけ近く聞こえた。
近づかないよう気を付けなければ、と考える。
「おししょうさま」
「なんだ」
「ここの人たちは、どうしてこんなとこに住んでたの?」
地下の集落のことだろう。
リーシャは肉を噛みながら、土壁を見回していた。
暗がりの巣穴を見てどう感じるのか。
あるいは何も感じていないのか。
「地上にいれば見つかるからだ。怪物に」
「上にいたら来ちゃうんだ?」
「来るものもいる。だから隠れる。土を掘って、地下に潜って、見つからないように暮らす。……まぁ、土を掘る怪物もいるが」
この集落の人々は、それを知らなかったのだろう。
知らずに死ねて幸運だったかもしれない。
リーシャは、少し考えるように首を傾げた。
「でも見つかっちゃったんだね」
「ああ」
それだけ答えた。
本当は少しだけ異なる事情だが。
実際は誰かが病か何かで死に、その死体を処理できずに放置していたのだろう。
だから死体漁りが群がり、街ごと掘り返された。
見つかっていなくても、死体が発生したら、その座標に死体漁りが出現するようになっている。
それが今の世界の法則だ。
ただ、そこまで説明する必要はない。
少しの沈黙があった。
リーシャが干し肉の最後のひと切れを口に入れて咀嚼する。
食べ終えると膝の上で手を重ねて、私の方をちらりと見た。
「ねぇ、おししょうさま」
「なんだ」
「……この世界って、ずっとこうなの?」
ずっと、というのが何を指しているのか。
過去なのか、未来なのか。
ともかく私は答える。
未来ではなく、過去について。
「いいや。一年前からだな、こうなったのは」
私は水袋の水を一口飲んでから言葉を続けた。
「とはいえ、きっかけはもっと古い。それこそずっと昔……悪い神様が生まれてしまってね」
「へー?」
リーシャはピンと来ていない。
盗賊に飼われていた彼女にとって、世界が変わる前と後にどれほどの違いがあったのか。
暴力を振るわれ、毒を飲まされ、地面を見つめて蟻を潰す日々。
その外側の世界がどうであろうと、彼女の日常は変わらなかったかもしれない。
邪神がいようがいまいが、ずっと変わらぬ地獄だったのか。
そんなことを考えながら、私はまた口を開く。
「だから私は、この世界を救うために旅をしているよ」
残念ながら、嘘である。
救いたくとも手遅れだ。
本当に残念だが、私がしようとしていることは、救済ではない。
「…………」
少しの後ろめたさと共に、私はリーシャを見る。
彼女はしばらく黙っていた。
それから小さな声で聞いた。
「……おししょうさまは、大丈夫なの?」
「何が」
「死んだりしない?」
その問いには少しだけ間を置いた。
意図を汲みかねていたのだ。
けれどすぐに考えるのをやめる。
「当分は死なないだろう」
こちらは嘘ではない。
リーシャはそれを聞いて安堵したように笑った。
「よかった。おししょうさまがいなくなったら、リーシャ困っちゃうもんね」
媚びた声でそう言って、体を寄せようとしてくる。
私は軽く手で制した。
この子供の、こういう点にはうんざりしていた。
しかし彼女が悪い訳でもないので、責めることはしない。
「おししょうさま」
リーシャがまた問いを投げた。
私は答える。
「なんだ」
「怪物は、どうして出てくるの?」
今度は少し違う問いだった。
この世界がなぜこうなったのかではなく、怪物がなぜ存在するのかという問いである。
「詳しい話はいずれする。でも、今はまだ早い」
「……早い?」
「お前が魔術師になるための知識と、世界がこうなった理由は繋がっている。お前が良く学ぶのなら、順を追って教えるだろう」
リーシャは口を開けて、何か言いかけた。
けれどやめた。
代わりに膝を抱え直して、崩れた天井の穴の空を見上げる。
「おししょうさまは、ぜんぶ知ってるの?」
「全てではない。だが多くのことは知っている」
「すごいね」
「すごくはない。知っているだけだ」
本当に、知っているだけだ。
これから世界がどうなるのかも、私たちが何を壊してしまったのかも。
今は語るべき時を待つとして、リーシャには別の話を切り出した。
「お前に一つ伝えておくことがある」
食事が終わりかけた頃に口を開いた。
リーシャが顔を上げる。
「魔術師になるための最初の一歩だ」
「まじゅつし?」
「昨日、私がお前の姿を見えなくしただろう。あれは魔術だ」
「え~……あ、ふぅん、分かったよ~」
半信半疑である。
だがどうでもいいのか、すぐに頷いた。
私は構わず話を続ける。
「魔術を使うには、まず催眠を覚えなければならない」
リーシャは目を瞬かせた。
聞いたこともない言葉だろう。
かみ砕いて教える。
「催眠、とは人間の考えを操る技術だ。たとえば姿を消したとき、私は自分がいないと思い込んだ。すると本当にいなくなる。それが魔術の根本にある」
「思うだけでいいんだ?」
「言うほど簡単ではない。本当に、心からそう信じなければならない。これは、自分自身を騙すための技術だ」
リーシャは自分の口元に指を当てた。
考え込むような仕草である。
それから、少し間を置いてぽつりと呟く。
「リーシャ、嘘つくのは苦手だよ」
「自分につく嘘の話だよ。他人を騙すのとは違う」
理解しているのかどうかは分からない。
でも今はそれでいい。
種を蒔いておくだけだと私は考える。
―――
食事を終えて荷をまとめ直していると、リーシャがラバの方に歩いていくのが目に入った。
ラバは広場の端に繋いだ場所で、崩れた壁から生えたわずかな草を食んでいた。
リーシャが近づくと、ラバは顔を上げた。
草を咥えたまま、一歩後ずさる。
リーシャの足が止まった。
「…………」
もう一歩踏み出す。
ラバは首を振って横に動いた。手綱が張る。
明確に避けている。
リーシャの伸ばしかけた手が虚空を掴んだ。
それからゆっくりと下ろされて、体の横に垂れた。
「おししょうさま」
「なんだ」
「……このラバさん、リーシャのこと嫌いだよね」
振り返ったリーシャの表情は笑みだった。
いつもの上っ面の笑い。
しかしその奥に、かすかなものが揺れたように見えた。
一瞬のことで、確かとは言い切れない。
「嫌っているのではない。怖がっている」
私はそれだけ言って荷を縛る手を止めなかった。
リーシャは私の言葉を聞いて、また前を向いた。
「怖がってる……?」
小さく繰り返す。
それから何かを考えているのか、しばらく動かなかった。
ワンピースの裾が風にわずかに揺れている。
私は荷を縛り終えてからリーシャの背中を見た。
袖に包まれた細い腕が、だらりと下がっている。
「リーシャ」
「うん?」
「お前があのラバを怖がらせた。お前が傷つけたからだ」
振り返った彼女の顔から笑みが消えていた。
それは怯えだった。
しかし別のものもある。
何を言われているのか測りかねているような、空白の表情である。
硝子のような、虚ろな瞳が私の顔を映している。
「怖がらせたものに近づいても逃げられるだけだ」
リーシャは何も答えなかった。
顔に少し困惑が混じったような気がする。
私は構わず話を続けた。
「お前はどうしたい?」
私が問うとリーシャは少しだけ目を伏せた。
長い沈黙があった。
遠くからあの壁の泣き声が微かに聞こえている。
やがて、顔を上げた彼女は半笑いで私に言葉を返す。
「……え? あの、えっと、どうしたいって?」
なぜか、彼女はそれがとても引っかかったようだった。
頭を抱えて、しばらく考え込む。
私の眼を見た。
やがて、口元に薄い笑みを浮かべて答える。
「触ってみたいな」
小さな声だった。
私は理由を問う。
「なぜ?」
「…………」
答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。
言葉にできない感情だったのか、あるいは単にそう言うのが『正解』だと思ったのか。
よく分からない、抑圧された表情で彼女は俯いてしまう。
「では、触る前に謝ってみろ」
私は、ひとまずそう言ってみる。
顔を上げて、リーシャは素直に従った。
口を結んだまま、体をラバの方に向ける。
数歩の距離がある。
ラバは耳を伏せてリーシャを見ていた。
黒い目にリーシャの紺のワンピース姿が映っている。
「…………」
沈黙。
長い沈黙だった。
壁の向こうの泣き声だけがくぐもって響いている。
リーシャは何度か口を開きかけては閉じた。
ここで謝るという行為の意味を彼女が理解しているかどうかは分からない。
「……ごめんなさい」
やはり小さな声だった。
ラバの耳が片方だけぴくりと動く。
しかしそれだけだ。
逃げもせず、近づきもしなかった。
リーシャはその場に立ったまま、もう一度言った。
「ごめんなさい。痛かった?」
ラバは動かなかった。
しかし伏せていた耳が少しだけ立ち上がる。
それを見てリーシャがゆっくりと手を伸ばした……が、途中で止めた。
彼女が自分で止めたのだ。
手を引いて、力なく下ろしてしまう。
「……まだ怖い?」
ラバに聞いている。
もちろん答えたりしない。
ただ黒い大きな目でリーシャを見ているだけだ。
私は黙って見ていた。
リーシャはもう手を出さなかった。
ただそのまましゃがみ込んで、膝を抱えてラバを見上げている。
それが正しいのか分からないままに、ただそうしている。
風が吹いた。
天井の穴から差し込む光が雲に遮られて、広場がわずかに陰る。
しばらくそうしていると、ラバが一歩だけ前に出た。
鼻面がわずかにリーシャの方を向く。
もう逃げる素振りは見せなかった。
リーシャの顔にゆっくりと笑みが浮かんだ。
今までの媚びた笑いでも、卑屈な笑いでもない。
もっと静かな、穏やかと呼べなくもない微笑みだった。
そっと手を伸ばして、ラバの鼻先に指先だけを触れさせる。
ラバは逃げなかった。
リーシャの指が鼻面をそっと撫でる。
温かい息が指にかかった。
ラバの毛は短くて柔らかく、鼻先は少し湿っている。
リーシャの細い指がその感触を確かめるようにゆっくりと動いた。
「……えへへ」
笑い声が漏れた。
穏やかに。
静かに、穏やかに笑っていた。
手のひらで鼻面を包むようにして、何度も撫でている。
だがその瞳を私は見ていた。
金の虹彩の中で瞳孔が大きく開いている。
光のない、真っ暗な目。
笑みの形をした唇の上に乗った、底のない暗がりの瞳。
穏やかに見える表情の奥で、あの目だけが別のものを映していた。
星の隙間の夜闇のような……初めて出会った夜と同じ、あの目だ。
尽きることのない闇が、瞳の奥から垂れ流されているように錯覚する。
「…………」
私は何も言わなかった。
荷を持ち上げてラバの背に載せる支度を始めた。
荷の縄を結びながら、視界の端でリーシャを見ている。
彼女はまだラバの鼻先を撫でていた。
暗い目のまま、穏やかに笑って。
「ごめんね、ラバさん」
しばらくして、リーシャが立ち上がった。
ワンピースの裾についた土を軽く払う。
「おししょうさま。もうそろそろ行くの?」
「ああ」
私はラバの手綱を取った。
ラバは特に嫌がる素振りを見せなかった。
リーシャに撫でられたことで少しは警戒が和らいだのかもしれない。
動物は人間よりもよく相手を見ているので、私に分からない何かを感じたりしたのかもしれなかった。
「行こう」
ともかく今は歩かなければならなかった。
この廃墟に長居する理由はなかったので。
背にした廃墟には、変わることなく泣き声が響いている。
―――
廃墟を離れた。
地下集落から地上に出ると、朝の薄曇りがいくらか晴れて、白い光が荒れた大地を照らしていた。
街の周辺にはかつて耕作地だった土地が広がっている。
しかし作物の代わりに土が剥き出しになり、畝の跡が崩れて雑草がまばらに生えるだけだった。
そこかしこに死体漁りが掘り返した穴が散在し、大地の表面が荒れた傷口のようになっている。
ラバに荷を積み直し、私が手綱を引く。
リーシャは半歩後ろを歩いていた。
新しい革の靴が乾いた土を踏むたびに小さな音を立てる。
「おししょうさま、次はどこに行くの?」
「北に集落があると聞いている。まずはそこを目指す」
短く答えて前を見据えた。
道と呼べるものは残っていない。
草も疎らな荒れ地を、方角だけを頼りに歩く。
乾いた、何の匂いもしない風が吹いた。
しばらく行ったところで、私は足を止める。
視線の先。
遠い地平に近い場所に……白いものが群れていた。
花のようだった。
地面から無数に突き出た白いものが、遠目には一面の花畑のように見える。
しかし花の茎にしては太く、枝分かれの仕方が有機的に過ぎる。
風が吹くと花弁のようなものが揺れたが、その揺れ方は植物のそれではなかった。
硬質な、骨が擦れるような揺れ方だ。
つまり骨だ。
地面から人骨が花のように生え揃っている。
肋骨や指の骨が茎のように空に向かって伸びている。
その先端に、確かに何か色のついたものが咲いていた。
「わぁ、きれい……お花?」
リーシャが呟いた。
遠目にはたしかにそう見えなくもない。
白い骨と、その先に咲く色とりどりの花。
風に揺れるその景色は、知らなければ美しいとすら思えるかもしれない。
だがあれも終末の一つである。
危険な事象だった。
「近づくな」
それだけ言って歩き始める。
リーシャは一度だけ振り返って遠くの花畑を見つめてから、小走りで私に追いついた。
「あれはなに?」
追いついたリーシャが聞く。
「近づかなければ関係がない。これからも、見慣れないものに近づかないように」
答えになっていない返事ではある。
ただ、何かを説明したところで、近づかなければ害はないという結論は変わらない。
ああいう類のものは、むしろ中途半端に教えない方がいい。
少し知識がつくとなんでも知った気になって歩くようになる。
教えてもキリがないから、反射で避けるように仕込むべきだ。
だから黙っていると、リーシャはそれ以上聞かなかった。
ただしばらく歩いてから、ぼそりと呟いた。
「でも、きれいだったね~」
私は目を瞬かせる。
そして戯れに一つ、質問をしてみる。
「花が好きなのか?」
「えっ?」
リーシャが虚を突かれたように目を見開く。
だがそれも一瞬のことだ。
へらへらと笑って答えてみせる。
「嫌いだよ〜」
「どうして?」
問いを重ねた。
するとリーシャの瞳に厚い雲がかかる。
暗夜の眼が、笑みの形の弧を描いた。
何かを誤魔化すようにスキップをして、私の前に出て答える。
「だって、すぐに枯れちゃうもーん!」
もしかすると、摘んだことがあったのだろうか。
その花は長持ちしなかったのかもしれない。
ともかく、私はもう何も言わなかった。
ラバの蹄が乾いた土を踏む音が続く。
リーシャはすぐに私の後ろに戻ってきた。
新しい靴の足音が、重なるようについてくる。
靴底がまだ硬く、革が足に馴染んでいない音がした。
歩き慣れれば音は変わるだろう。
空が少しずつ明るくなっていた。
雲の切れ間から陽が差して、荒れた大地に私たちの影を落とす。
二つの人影と、一頭の影。それだけが乾いた土の上を滑っていく。
振り返ると廃墟の入口はもう小さくなっていた。
丘陵の陥没した一角にかろうじて黒い穴が見えるだけだ。
あの下で百人以上が暮らし、死に、運び去られた。
今はもう壁の泣き声すら聞こえない。
リーシャが不意に私の横に並んだ。
ラバの反対側、私を挟んでラバから離れた位置だ。
「おししょうさま」
「なんだ」
「リーシャ、ちゃんと魔術師になれるかな」
振り向くとリーシャは前を見て歩いていた。
風が金の髪を乱して、顔にかかる。
小さな手が髪をかき分けた。
「なれるかどうかはお前次第だ」
「…………」
「だが素質はある。そうでなければ弟子にはしなかった」
リーシャは少しだけ口元を緩めた。
それが本物の表情なのか作られたものなのか、まだ私には区別がつかない。
そもそも、本物と定義できるものが恐怖以外に存在するかさえ。
「がんばるよ~。えへへっ」
はしゃいだ声で言った。
それきり黙って歩き続ける。
風が吹いた。
乾いた草原を渡る風が、リーシャのワンピースの裾と袖をはためかせる。
ラバの栗毛の鬣がなびいた。
遠くで何かが鳴く声が聞こえたが、それはすぐに風にかき消される。
ただ私たちは、滅びゆく世界の上を、北に向かって歩いていく。
全七話完結予定。
不定期更新です。




