スイレン
【増悪】
病状が進行し、以前よりも悪くなること。
もとより悪い状態が量的、あるいは質的にさらに悪化すること。
寛解の対義であり、一般に、健全な容体からの発症とは区別される。
―――
初めて出会った時、リーシャは蟻を潰していた。
月が明るい夜のことだ。
人の血肉が散乱した、奥まった森の盗賊の野営地に彼女はいた。
月光を遮る木々が影を落とす中。
そこかしこに立てられた篝火の明かりの外れで、幼い少女が背を向けている。
「…………」
乱れた長髪は、くすんでほつれた金の色。
そして裸も同然の薄汚れたぼろ布を身にまとい、露出した白肌には暗がりでも露わに傷が刻まれている。
「えへへ……へへっ……」
そんな後ろ姿の彼女は、隅に縮こまってしゃがんでいる。
背を揺らしながら、薄気味悪い笑い声と共に、延々と平手を叩きつけていた。
「お前はなんだ?」
私は問いかけた。
すると振り下ろされようとしていた手が止まった。
ぎくりと、そんな音がしそうなほど露骨に停止した。
しかしややあっておずおずと振り返る。
私の方へと目を向けた。
瞳も髪と同じ金の色だ。
しかし星の隙間の夜闇のように暗く、光のない眼だと思う。
褪せて錆びたような瞳が私をじっと見つめている。
「…………」
彼女は私の眼を覗き込みながら、いつしか媚びへつらうような笑みを浮かべていた。
両手を地面について、深く詫びるような姿勢で伏せる。
続いて、芯まで卑屈さに染まった声で話した。
「……リーシャは……えへ、馬鹿で気持ちの悪い……ゴミムシです……えへへ……」
言い終わるとまた笑い声を漏らす。
えへへ、と。
地面に三つ指をついて、額をこすりつける。
彼女……リーシャは見たところ十三歳頃なのだろう。
けれど、歳相応の無邪気さはない。
「あの、みんな殺しちゃったんだ……?」
視線を上げ、私の顔色を窺うように聞いた。
みんなというのは、多分ここにいた賊のことだ。
実際、私が殺したので首を縦に振った。
「……あ……あ、じゃあ、リーシャのことも殺すの?」
ところどころ上ずった声で尋ねる。
真っ暗な目の瞳孔が開いていた。
その言葉には初めて上っ面ではない感情が……恐怖が宿っている。
しかし、殺すつもりはないので首を横に振った。
あからさまに、彼女は被害者に見えたので。
「殺さない」
「あ、あぁ…………ああ、よかった……えへへ……」
身をこわばらせていたリーシャは、ようやく嬉しそうに笑う。
三つ指をついたまま頭を下げた。
また何度も何度も土に額をこすりつける。
一応、忠告だけを残して私は立ち去ろうと決めた。
「私は行く。お前もすぐにここを離れた方がいい。死体漁りが来るぞ」
「はぁ……そうですか……へへ……」
差し迫った死の危険について伝えたつもりだったのだ。
しかし何も知らないのか、彼女は動く気配がない。
気の抜けた声で答えたかと思えば、また背を向けてしゃがみ込む。
そして最初と同じように手を振り下ろし始めた。
「…………」
ふと、私はちょっとした興味を惹かれる。
あとは逃がしてやらなければならないと思っていたので、もう一度声をかけた。
「何をしている?」
「えへへ……」
答えなかった。
だから彼女のそばにかがんで手元を見る。
すると、リーシャが何かを潰していたのが分かった。
巣に向かう蟻の行列である。
私が賊を殺している間、彼女はずっと虫を潰していたのだろう。
「楽しいのか」
リーシャは首だけをこちらに振り向かせた。
答えるまでもなく、表情は笑みである。
楽しいということだ。
「うん、楽しい」
「なぜ楽しい?」
「みんなと一緒! みんなリーシャを叩いて笑うから……だからリーシャも蟻さんを潰して笑うの……えへへ」
そう言ってリーシャは笑う。
えへへ、と何度も笑う。
だがその笑い声は、続くほどに沈んでいく。
私は、なんとなく考える。
彼女を無理に逃してやる必要はないのかもしれないと。
しかし、人間はある事情で数を減らしつつあるのだ。
貴重な生き残りを見殺しにすることははばかられた。
「はぁ…………」
ため息を吐く。
とりあえず、振り下ろされようとしていた手を掴む。
すると彼女は明らかに怯えたような表情を浮かべた。
「えっ? あっ……えへへっ?」
誤魔化すように笑ったあと、彼女は顔を庇いながら唐突に謝り始める。
ひどく怯えた様子だった。
「あのっ……えへ、ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい……」
「知っているか?」
謝罪を遮って問いを投げる。
もちろんリーシャはなにも答えなかった。
問いの内容、肝心な部分を口にしていないからだ。
ひと呼吸おいて言葉を続ける。
「なぜ生き物を殺してはいけないのか、知っているか?」
リーシャは何を言っているのか分からない、というような表情を浮かべた。
心底からの困惑である。
その反応で生命観が壊れているのが分かる。
ふと私はこの少女をそばに置いてみようかと思い立った。
「…………」
別に複雑な事情があるわけではない。
私は最後の魔術師で、後継者を作るべきか迷っていた。
そして彼女は、求められる資質を満たしているように感じる。
私は、魔術師の系譜を残してみることにしたのだ。
「行き場がないのなら、私についてこないか?」
提案を受け、リーシャは瞳を見開いた。
驚いた様子の彼女に私は言葉を続けた。
「そばにいる限りは面倒を見る。いくつかの条件はあるが、悪い話ではないはずだ」
面倒を見ると言った。
すると狐につままれた表情がすぐに崩れる。
へらりと笑って、リーシャは私の言葉に答えてみせるのだ。
「うん、おねがいします。……えへへ」
疑うような素振りはなかった。
私を信じているわけではないだろうが、どうでもよかったのだろう。
なにかが悪くなるかもしれない、なんてことは彼女にとっては考慮の外らしい。
「ならば、私のことは師匠と呼ぶように」
「はーい」
蟻だらけの手を取って、彼女を立たせる。
布で小さな手を拭う。
丹念に蟻の死骸を拭ってやる。
そのまま連れて進もうとしたところで……ふと異変に気が付く。
かすかに、生理的嫌悪を覚える羽音が聞こえたのだ。
「……もう来たか」
私は呟く。
ずっと遠くから、耳の奥をくすぐるような振動と共に、羽音が近づいて来ている。
「なに……?」
リーシャにも聞こえたのだろう。
目を丸くする彼女の前で、私は人差し指を立てて見せる。
黙るように伝えたつもりだ。
すると表情を強張らせ、リーシャは固まった。
「…………」
それを横目に、私はローブの腰に下げていた短い杖を抜く。
切っ先を小さく宙に泳がせる。
「……鬼に目隠し。手は鳴らず」
私が口にしたのは、簡単な魔術の呪文だった。
そして呪文は本質的には自己暗示でしかない。
しかし、それは魔術を介して世界に現実として反映される。
まぁ、かいつまんで言うのなら、私たちの姿は隠され、立てた音も消えるようになった。
「なにか来るの……?」
リーシャは固まった笑みのままで言った。
私はその表情を見つめながら答える。
「ああ。そうだ」
それから、ほどなくして。
野営地に死体漁りが降り立ち始めた。
鼓膜が破裂しそうなほど空気を震わせて。
ぞわりと身の毛がよだつような風を巻き起こして。
小刻みに羽を振動させながら降りてきたのは……一見するならば巨大な蜂だった。
黒と黄色が反転した、熊ほどもある大きさの蜂たち。
だが頭部は真っ黒い複眼がついた老人の顔だ。
老婆のように見えるものもあれば、老翁のように見えるものもある。
共通点は毛の一つもなく、ぱっくりと横に裂けた口から鋭い牙が覗いていること。
そして時折笑い声を上げていることくらいだろうか。
「ははははは……」
人の頭部と蜂の体。
明らかにそぐわない部位を結ぶのは、赤黒い血管による不細工な縫合だった。
そんな異形が周囲の木々をなぎ倒し、盗賊たちの死体のそばに集まる。
細長い舌と前脚で、いっそ意外なほど器用に死肉を固めて団子を作っていく。
団子を作って、しかし首だけは潰さない。
丁寧に骨を潰す気味の悪い音が野営地に響き続ける。
「あぁっ……ひぃっ、ひぃぃ……やだ、やだやだやだぁっ!!」
唐突に、絹を裂くような悲鳴が響く。
リーシャの声だ。
腰を抜かし、涙を目に浮かべて怯えている。
「…………」
私は黙ってそれを見つめる。
リーシャは泣き叫んで、這いつくばって逃げようとしている。
しかしむしろ、私から離れるべきではなかった。
姿隠しの魔術は、私の存在を起点に発動している。
「リーシャ、大丈夫だ。ここにいろ」
そう言って、彼女の体を抱き上げる。
腐った木片のように軽い体だった。
しばらく暴れていたが、やがてリーシャは多少の落ち着きを取り戻す。
口の端からよだれを垂らしながら、震える瞳で私と、死体漁りを交互に見る。
「魔術で姿は隠している。お前は、奴らに見つかることはない」
躊躇うような間があった。
リーシャはやがて小さく頷く。
私は彼女を地におろした。
「…………」
十分ほど経っただろう。
死体漁りたちは、奇怪な肉団子を前脚に吊るして飛び立ち始めた。
それは、盗賊たちの死骸だったものである。
首から上だけをそのままにして、体はこねて丸く固めてある。
丸い肉塊に首がくっついたような団子だった。
「あははははっ!!」
一匹、また一匹と野営地を去って行く。
奴らがどこから来て、どこに向かうのかは知らない。
ただ一定の時間が経つと、必ず死体の座標に現れるようになっているのだ。
故に、今の人々はみな肩を寄り添わせて暮らす。
人が死んだらすぐに処理をできるように。
死者が出れば捨てるか……まぁ、色々だ。
この世界ではそれができなければ死ぬだけだった。
「行こう、リーシャ」
しばらくして。
当面の危機は去ったものと思いリーシャに声をかける。
すると彼女は、ごく自然に私の手を握って笑った。
「……うん」
今の光景を見て、けろりと立ち直っているらしい。
グロテスクな光景にはショックを受けていない。
ただ単に、自分が殺されると思って怯えていたのか。
「…………」
そんなことを考えながら二人で歩く。
特に意味はないが、握られたまま手を繋いで。
こうして森を出た頃、リーシャが私に声をかけてくる。
「おししょうさま、これからどこに行くの?」
「ある集落で、盗賊殺しの報酬を受け取る」
「そっかぁ」
私は周りを見て危険を探っている。
そこで、唐突に隣で嬉しそうな笑い声が弾けた。
横を見るとリーシャが媚びるような眼で私を見ている。
それと、満面の笑みを浮かべていたのだ。
「あのね、リーシャのこと助けてくれてありがとう!」
屈託のない声で言う。
しかし瞳は真っ暗だ。
闇の底のような目が、私を見ている。
ともかく、私は何も言わずにリーシャの肩を軽く叩いた。
「おししょうさまは優しいね。あのね、リーシャはおししょうさまが大好きだよ〜」
甘ったるい声で言った。
かすかに体を擦り寄せてくる。
それに、私は少しうんざりした。
「…………」
だが聞き流してこれからのことを考える。
もう少し行ったところにラバを繋いであるので、ひとまず合流して集落に向かうと決めた。
「……待て」
また羽音が聞こえてきた。
立ち止まる。
先ほどとは比較にならない音量だった。
すぐに姿を隠す呪文を唱える。
ふと月明かりの夜に影が差した。
「……………………」
嫌な予感がする。
空を見上げると、夜空は真っ黒に染まっていた。
「……ああ」
理解できた。
数えるのも馬鹿らしいほどの死体漁りで空が埋まっていた。
あれに月明かりが遮られて、周りが暗くなったのだ。
「はははは!」
「はははははは」
「あははははは」
「ひひひあははは」
羽音をさざめかせて、異形の行列が空を横切っていく。
底光りする昆虫の体とかさついた老人の肌が月明かりを受けていた。
生理的嫌悪をもよおす光景が空を埋め尽くしている。
あれの唾液には強烈な延命作用があるので、生きていた人間が捕まると死ねない。
死ねずに生首の肉団子にされることになる。
それを思えば上空の光景は相当に気分の悪いものだった。
「…………」
私は無言で視線を動かす。
奴らがどこから来たのか確認するためだ。
死体漁りの行進の根本をたどれば、行き先の街の方角とちょうど重なった。
この数ではきっと全滅だろう。
深い深いため息を吐く。
おそらく、病かなにかで知られぬまま死んだ者がいたのか。
死体漁りが先に出現してしまったというわけだ。
もう考えても仕方のないことではあるが。
「……ままならんな」
集落にはまだ怪物が残っているかもしれない。
今日は野宿して、集落の跡地には明日向かうべきだろう。
食料と、リーシャが着れる洋服を見つけられたらいいのだが。
「予定を変更する。今日はこのあたりで夜を明かそう」
「……はーい」
にこやかにリーシャが答えた。
異様な光を宿す視線が上空の惨劇を見上げていた。
私はラバを止めた場所に向かうために手を引いて歩き始める。
なにはともあれ落ち着ける場所を探さなければならない。
「リーシャ」
「なぁに?」
行列が過ぎ去って冴え冴えと夜を照らす月の下。
張り付いた笑顔が私に向けられる。
「さっき、私は条件があると言ったな?」
旅に誘う際、いくつかの条件はあるが……と私は言ったはずだった。
リーシャも覚えていたのかそれに頷く。
「うん」
「その条件を話す。まぁ、たったの二つだけだが」
そして、私はゆっくりと条件を語り始める。
「一つは、無意味に生き物を殺さないこと。そしてもう一つは……」
言いかけて躊躇う。
私が行おうとしていることは無意味だからだ。
いや、むしろ悪とさえ言えるかもしれない。
それでも、私はそれをすべきだと思う。
だから一瞬の逡巡を経て言葉を続けた。
「魔術師になるんだ。お前は、私のもとで魔術を学ぶ……それを約束できるか?」
リーシャはすぐには答えなかった。
ただ口を閉ざして不思議そうな顔をしている。
「…………」
それもそうだ。
大抵の人間は魔術師と魔術を信じてはいない。
今や魔術師の存在は伝説でのみ語られるものだ。
リーシャはその伝説さえ知っているかどうか。
だから断られるかもしれないと考えていると、意外にも彼女はあっさりと頷いた。
「うん! 分かった!」
先ほど、私の魔術で姿を隠せたことを理解しているから……ではないだろう。
多分どうでもいいのだ。
私が気狂いだろうが魔術師だろうが。
「そうか。ならば私とともに来るといい」
手をつないだまま歩き始める。
リーシャがわざとらしく鼻歌を歌った。
構わず遠くへ視線を向ける。
そして滅びゆく世界のことに思いを馳せた。
「…………」
この世界は、ずっと昔に一つの禁忌を犯してしまった。
そのせいで地獄になってしまった。
完膚なきまでに崩壊してしまったのだ。
ある場所には絶えずミサイルが降り注ぐ。
またある場所には化け物が現れる。
それは、無秩序で法則性もなく解決策もない。
子供がふざけて描いたような無垢の地獄絵図だ。
今の状況が始まってから一年も経っていないが、このままでは十年以内に人は滅びるだろう。
そう。
……この世界は、すでに終わってしまったのだ。




