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橋を渡る

作者: 坂本瞳子

この夏、久々に帰省することにしたのは、ちょっと息をつきたかったから。

大学を卒業して、そのまま東京で就職して、三年くらい経って転職して、またしばらく働いて、転職して、働いて…。大きな変化を経験した訳でもないんだけれど、結婚こそしてないし、大恋愛もしてないし、誰かを亡くした訳でもなくて、大失敗も大成功もしてない、でも、ふと見上げた夜空に輝くお月様がなんだか子供の頃見たそれとは違って見えて、あんなんだったっけなーって、確認したくなった。お盆休みまで待っても良かったんだけど、「夏休み」は七月下旬から取る人が増えるから、七月が始まって早々に帰省することにした。

一〇年以上ぶりに帰った実家には、弟のお嫁さんがいた。私よりも一つ年上の和子さんは、私の両親にこき使われているみたいで、私の荷物を持ってくれるばかりか、部屋も掃除しておいてくれて、夕ご飯までしっかり作ってくれていた。両親は久々に帰って来た娘を訳ありなんだろうと慮って随分と気を遣ってくれて、和子さんが沸かしてくれた一番風呂にまでいれさせてもらった。風呂上がりにはよく冷えたビールまで用意してくれていた。枝豆だけじゃなくて、とうもろこしまで茹でておいてくれた。両親は私に努めてなにも聞こうとせず、「良く帰って来てくれた、ゆっくりしていけばいい」とそればっかりを何度も何度も繰り返した。

翌朝、起きたときにはもうお昼近くだった。みんな農作業に出ていたみたいだけど、和子さんが家に戻ってきた。私がいつ起きるかしれないって、ちょこちょこと様子を見るために家に戻ってきてくれていたみたい。「家事のついでです」なんて言いながら。「自分で適当にするからいいですよ」とは言ったのだけれど、ご飯を用意しましょうか、飲み物はどうですか、洗濯物はありませんか、夕飯に好きなおかずはなんですかと、甲斐甲斐しいことこの上ないほどいろいろと聞いてくれる。午後も休憩のたびに戻ってくるみたいなこと言うから、こう返した。

「大丈夫ですよ、ちょっと、この辺散歩でもしたいし。ほら、随分久しぶりに帰ってきたからぐるっと見廻してみたいかなって。」

「代わり映えしませんよー、この辺は。」

そりゃまあそうだろうけどさとは思ったものの、こんな感じで和子さんとお話しするのもなかなかねと思って、ぶらぶら散歩することにした。

とは言っても、辺り一面、田んぼなんだよね。ウチだけじゃなくて、隣もその向こうも、みんな田んぼで作業してる。

「あらー、敏子ちゃん?キレイになってー!」とか、隣のオバサンが声かけてくれるんだけどさ、挨拶もそこそこに歩いてく。ま、行けども行けども、しばらくはどこまで田んぼ。しばらく続く田んぼを越えると割と大きな川がある。子供の頃はこの橋渡っちゃいけないって言われてたんだなぁ。ま、そんな遠くまで行くなってことだったんだけどね。で、今日はなんとなく渡っちゃう。

で、なんとなく土手に座る。さすがに平日だからね。人もまばら。釣りしてる人が一人かな?あと、ちっちゃいこ連れてる親子連れが一組か。

「ふーッ。」

やっと、うん、やっと息がつけた。陽は高い。眩しい。暑い。うん、暑いなあ。蒸すよね、田舎だし。この、空気感。何年ぶり?やっと、帰ってきたんだなぁ。蝉の鳴き声が遠くに聞こえる。草の青い匂いがする。…本でも持ってくれば良かった。うん。こんなところに長々いたら日焼けしちゃうな。そうね。明日はちゃんと日焼け止め塗って、本持って、飲み物もってやって来よう。

そう決心して、またちょっとぶらりと寄り道でもしながら家に向かうことにした。小学校の下校時間にあたると面倒くさそうだし。来たときとは違う、結構距離はあるけれど西側の橋まできて、ね、のらりくらりと家へ向かうよ。

あれ?橋を越えて少し進んだところで私は奇妙に感じた。こんなところに四つ辻なんてあったっけ?左手には林っていうか、木々が固まってて、右手は田んぼ、まっすぐの景色がなんか…違うなぁ、後ろが川に続く橋でしょう?振り返ると、そこに橋はなかった。川も見当たらなかった。大きな山の麓らしかった。あれ?えーと…。


チリーン…。


突然、背後から鈴の音が聞こえた。お坊さんが鳴らすやつ。夏用の袈裟を着たお坊さんが目深に、あれ、なんだっけ、ああ、網代笠っていうんだっけを被って、通り過ぎていく。「すみません。」と声をかけるんだけど、立ち止まるどころか振り向いてもくれない。私の声はまるで聞こえてないみたい。もうひときわ大きな声で「すみません!」と言っても、そのまま行ってしまう。お坊さんの後ろを追いかけてもどういう訳か追いつけない、裾をつかむこともできない。気をつけていたのだけれど、私は少し山の中へ入ってしまったようだ。私の不安な気持ちに追い打ちをかけるように、カラスの鳴き声が不気味に響く。いやだ。こわい。夜が来る前に山から出なくっちゃ。

焦れば焦るほど周りには木々ばかりなのが気になる。細い一本道はなだからで、行けども行けども先が見えず、灯りも灯っていない。この薄暗い道から早く通り抜けないと…、なんだか危険な感じを覚えて小走りを始めるけれど、さらに焦ってしまう。もうこの中から出られないんじゃないか、そんな気さえしてくる。息が切れてくる。後ろを振り返るのが怖い。空を見上げてみる…けれど、木々の葉に囲まれて月明かりどころか…空が見えない…。大丈夫だろうか、私…。


チリーン…。


もう一度、お坊さんが鳴らす鈴の音が聞こえた。私は辺りを見廻した。助けを求める必死な気持ちで、三六〇度ぐるっと見廻したが、お坊さんどころがなにも見えず、暗さがどんどんと増していくように思われた。もう、なにがどうでもどっちの方向でもいいから、走るしかない…。そう思って、暗闇のなかとにかく走った。えーと、鈴の音はどっちから聞こえたんだっけ…。


チリーン…。


もう一度、鈴の音が聞こえた。さっきよりも近い。あっちの方向。確かに聞こえた。音の鳴っている方は分かった気がする。聞こえて来た方角を目指して走ってみる。いまはまだなにも見えないけれど、多分こっち。うん。こっちの方から音が聞こえたと思う。どうせほかに道標はないから、こっちに行ってみるしかない。だから走り続ける。


なんだか白いもの?が見えた気がする。ああ、さっきのお坊さん?襟の部分の白いところかな?届く?まだ遠い?手を伸ばしたらつかむことができるだろうか?この手を…、もう少し…。


私は前を早い速度で歩いていくお坊さんに追いつき、背後からその後頭部、襟というか首の辺りをひっつかむような動作をしてしまった。

振り向いたのは甲本くんだった。不思議そうな顔をして私を見た。私の方に向き直り、私の両腕をしっかり掴んでくれた。月明かりが強く私たち二人を照らした。彼はお坊さんの格好なんてしていなかった。網代笠も被っていなくって、白いTシャツにGパンというラフな出で立ちで、高校生の頃と変わらないニキビが点在する若々しい顔立ちで私を見ていた。

「トシちゃん、大丈夫?」

「ん?あ、ええ、うん、大丈夫よ。」

「言ったじゃないか、夕方に別分橋を渡っちゃ行けないって。帰れなくなることがあるからさ。」

「あ、…そう、そんなこと、聞いたことあったね。」

「もう、忘れないでよ。」


チリーン…。


もう一度鈴が鳴った。私はなんだか気の遠くなる思いがしたけれど、なんとか倒れずに立ち直った。そこは、橋のこっち側で、見慣れた田んぼに囲まれた実家へと続く景色が月に照らされていた。私は誰かに支えられていた。背後のその人から離れて向き直ると、それは甲本くん…によく似た若いお坊さんだった。

「ああ、すいません。法事の帰りだもので。」

私の驚いた顔を見て説明してくれたみたいだった。

「えーと…」

「純次です。一樹の弟の。」

「ああ、甲本くんの弟さんね。お坊さんになったの?」

「ええ…、兄があんなことになったんで、うちのお寺は僕が継いだんです。」


あとで聞いたんだけれど、甲本一樹くんは事故で亡くなったらしい。大学一年生のとき、記録的な豪雨のときにあの川の濁流にのまれてしまったらしいんだって。私を助けてくれたのは一樹くんだったのか、この人なのかがよく分かってはいないのだけれど、考えると記憶はますます曖昧で、まぁ兄弟二人に助けてもらったと思えばいいんじゃないって笑ってくれるこの人と、生まれ育った田舎で一緒に過ごす日々はわるくないって思ってる今日この頃だ。


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