36.不調の理由
最近、眠くてたまらない。食事中に眠りかけたときは、これはもうだめだな、と思った。別に、夜更かしをして睡眠時間が足りないとか、そういうことではないのに、朝起きるのもおっくうになってきていた。
ひた、と頬に触れられた感触がして、ミカは目を開いた。アックスがミカの頬に触れて顔をのぞき込んでいた。
「起こしたか。すまん」
小さく首を左右に振る。額にも触れられて、「少し熱があるんじゃないか」と言われた。そうだろうか。
「ごめん……なにも手伝えてない……」
「いや段取りは取ってくれただろう。今のところ、特に問題はない。まあ、エミリアナ様は騒いでいるが……」
と、アックスはげんなりした表情を隠しもせずに言った。ミカはそのうんざりした様子に少し笑う。わがままを言ったり、そこにいないミカのことをあげつらったりしているのだろう。厳しく当たる役をする、と宣言したばかりのミカがここでダウンしているのだ。まあ、行き過ぎればさすがにセレスティナが止めてくれる……と思うのだが。
「医者を呼んだので、診察を受けてくれ」
「ただ眠いだけなのだけど」
さすがに心配しすぎだ、とミカは眉を顰めるが、アックスも同じように眉をひそめた。そんな表情も色っぽいので世の中理不尽だと思う。
「義姉上に言われたんだが……お前が、妊娠しているんじゃないかと」
「はあ?」
思いっきり怪訝な声を上げた後で、気づいた。今までそう言った母の追及などをありえない、と煩わしく思っていたが、もうそんなことはないのだ。とても身に覚えがある。思わず、アックスと顔を見合わせた。彼も微妙な表情を浮かべているが、たぶん、ミカも似たような表情をしているだろう。
「ええっと……そう言われると、そんな気もするね?」
食べ悪阻なの、と言っていたウリカを思い出す。年明けに生まれたのだ、という連絡があった。ウリカの子供が見たい。いや、そうではなく。
眠たくなるって、妊娠初期症状の一つなのか。初めて知った。自分に関係ないと思って、斜め読みしていた。聞いたことがあるのかもしれないが、絶対に聞き流していたと思う。だって、関係ないと思っていたし。
思わず腹に手を当てる。当然だが、ぺったんこだ。本当にここにいるのだろうか。いや、だから医者が来るのか。判断するために。
「……時期が悪かったな。すまん」
「アックスのせいじゃないよ。それに、本当に子供ができたのなら、お母様に煩わされずに済むし」
「お前、どうでもいいと言っている割には、母上のことを気にしているな」
「むう」
唇を尖らせると、アックスはそこに人差し指を当てた。
「とにかく、せめて医者の診察を受けるまでおとなしくしていてくれ。俺も一緒にいた方がいいか?」
「アックスがいたいならいてくれてもいいけど、エミリアナ様は大丈夫? 一応、ホストなんだし」
「……だな。はあ……」
アックスは憂鬱気にため息をついた。こういうしぐさが妙に色っぽい男である。ミカがもてなしもせずに倒れているので、エミリアナが絶好調で辟易しているのはわかるけど。
「診察を受けて、大丈夫そうなら僕もやるから、がんばろ」
「ああ。……けど、無理はするなよ」
「ありがと」
この時は意識がはっきりしていたミカだが、また眠ってしまったらしく、医者が到着した、とエンマにゆすり起こされた。厚手のガウンを羽織らされ、初老の医者を迎えた。
「もう少し経たなければ確かなことは言えませんが、ご懐妊の可能性が高いでしょう。おめでとうございます」
穏やかに微笑んでことほがれ、ミカは「ありがとうございます」と返すほかない。正直、戸惑っている。ひたすら眠い以外は自覚症状もないのだ。
医者は体を冷やすな、とか、激しい運動を控えるように、とかの注意をいくつかして、帰っていった。
「おめでとうございます、奥様。起きられますか? 食事はなさった方がよろしいかと思いますが」
「ありがとう。そうだね。少しおなかがすいた気がする」
エンマに声をかけられて、少しおなかをさする。おなかはすいているが、ふくらみはやはりない。やっぱり自覚が生まれず、むう、と唇を尖らせた。エンマは肩をすくめて、「そのうちいやでも自覚しますよ」と言った。経験者は言うことが違う。
ミカは着替えると、用意してもらった軽食をとった。少し残したので、食べられそうなものについてあれこれ確認されることになった。こうして尋ねられると、自分が酸味のあるものを欲していることが分かった。普段はむしろ好まない方なのに、柑橘類がおいしく食べられた。
「わたくしと言う賓客を迎えておきながら体調を崩すなんて、管理がなっていないのではないの?」
ふふん、とばかりに勝ち誇ったようにエミリアナが言った。顔を合わせた途端にこれである。まあ、移動したとたんに調子を崩したので、否定はできない。ミカがきつく言い返したので、エミリアナはミカに対して敵愾心を抱いている。
「申し訳ありません。しかし、私がおらずともお出迎えできるように差配はしてありましたので、おくつろぎいただけたと思いますが」
しれっと言うと、ソラナはうなずいたが、エミリアナは「全然だめよ!」と挑発するように言った。
「王族の妻と言っても、伯爵家の出だとその程度なのね」
「やめなさい、エミ」
見下したように言うエミリアナに、セレスティナがあきれたように制止をかけた。
「目の前で倒れたら困るのはあなたの方でしょう。それに、相手を気遣うこともあなたは学ばなければならないわ」
これまで苦言は呈しても適当に受け流してきた姉の言葉に、エミリアナが目を見開いた。
「まあ! お姉様はわたくしが間違っていると言うの!」
「そうね。一方的な偏見に凝り固まって視野の狭い状態だと思っているわ」
セレスティナがかなり辛辣である。エミリアナがぱくぱくと口を開閉させる。思わぬ言葉の暴力に衝撃を隠せないようだ。
「他人を貶めて自分をえらく見せるより、自分を磨いて偉く見せた方が王女としてふさわしい生き方ね。というわけで、今日は星空観測を行うわよ」
牧場見学は断念したが、星空観測は行うらしい。まあ、ミカもどちらかはしておいた方がいいと思う。一応、名目は遊学なのだし、学びっぽいものは必要だ。報告を見る以上、ソラナの方が学びを満喫している気がする。
当然のごとく、ミカは参加不可となった。その時間まで起きていられる? とセレスティナに言われて、自信がなかった。つまり、アックスにおもてなしを丸投げと言うことになるが、こちらは身重の妻に助けを乞うのか、とヴィルヘルムにからかわれたことで奮起した。それくらいには思われているのだな、とこんな状況だがちょっとうれしい。見栄かもしれないけど。
この頃ずっとアックスと一緒に眠っていたので少し寂しかったが、体は睡眠を求めていたようで、気づいたら朝で、アックスもいなかった。
「こんなに眠って、僕は大丈夫なんだろうか」
さすがに少し不安になる。身支度を手伝っていたエンマが首を傾げた。
「妊娠中は寝たいときに寝て、食べられるものを食べた方がよいのですよ。ストレス厳禁ですから」
「まだそうと決まったわけではないんだけどねぇ……」
とはいえ、可能性としてはかなり高いと思う。ぺったんこの腹をさする。まあ、もしかしたらただの不調かもしれないし、そのうちわかることだ。
多少調子が悪かろうと、エミリアナの矢面に立つ気だったミカだが、周囲から待ったがかかった。特にセレスティナが過保護なのだ。
体を冷やすな、動き回って体に負荷をかけるな、重いものは持つな、などなど。特にストレスはためないように、と言われたが、目下尤もストレスになる姫君が滞在中である。
「星はきれいだったわよ。こんな田舎でも、取り柄の一つはあるものね」
傲慢に言い放つエミリアナに、それはアックスをけなしていることになる、と教えてやることはしない。ソラナが咎めるように「エミリアナ様」と呼びかけたが、エミリアナは鼻を鳴らして無視した。エミリアナの態度も品がないが、強く言えないソラナにも問題がある気がしてきた。とはいえ、同い年の少女一人には荷が重いので、やはりもう一人くらいついてくるべきだったのではないだろうか。みんな嫌がったのかもしれないけど。
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