35.不調
エストホルムはどちらかと言うと、緩やかに時間の流れる地域である。農業地帯なので、そのような印象を受けるのだろうと思う。運河が通っているのは、この穀倉地帯で収穫された食料を、速やかに運搬して取引を行うためだ、とミカが言っていた。数代前のアックスのご先祖様が行った大事業である。
まあ、領主夫妻がまじめで物静かなところのある二人なので、余計にそのような印象を受けるのだろう。実際、魔術の研究や実験をしているミカが多少変なことをするくらいで、穏やかな場所だった。はずだ。
だが今、遊学中のお姫様を受け入れて上を下への大騒ぎだ。事前準備が足りなかったわけではない。受け入れ準備は整っていた。受け入れた姫君であるエミリアナが、ミカやアックスの想像の斜め上だっただけだ。実際、一緒にやってきた国王夫妻は問題なく過ごしている。
エミリアナたちが到着した翌日、エストホルムの商人が呼ばれてエミリアナは城で買い物をした。アックスは同席しなかったが、のちに顔を合わせたミカやセレスティナによると、田舎くさい、センスが悪い、種類が少ない、などと文句をたらたらと述べ、ミカに「では、買い物はしないのですね」とバッサリ切られそうになったそうだ。二人とも、疲れた顔をしていた。ちなみに、エミリアナはたんまりと注文をしている。オーダーメイドでは滞在期間中に仕上がるとは思えないので既製品だが、少なくとも自分で選んだものだから文句は言えないだろう、とこれはセレスティナの言葉だ。
ミカはすでにエミリアナに対してやらかしているので、多少辛辣でも行動をとがめる方にシフトしたらしい。そういう存在はどうしても必要なので、ミカが血縁も何もない他人であることが決め手だ。
確かにエミリアナは話が通じないし腹立たしいことはあるが、王都にいたときはここまでミカは気にしていなかったように思う。エミリアナよりも、ミカの変化が気になるアックスであった。
「ミカ、疲れてるんじゃないか」
歓迎の夜会まで開いて、手配したミカの負担が大きかったのだと思う。次の予定まで少し休むように言ったが、彼女は首を左右に振った。
「明後日には別荘へ行くんだよ。準備をどれだけしても足りないよ」
ただの移動でも準備するものが多いのに、今回は他国のわがままお姫様が同行するのだ。どれだけ確認しても足りる、と言うことはないだろう。だが。
「だから余計に、お前に倒れられるわけにはいかないだろ。休め。顔色が悪い」
これだけ強硬に言うと、ミカも休む気になったようだ。確かに別荘に行けないと困るもんね、という言い訳付きだったが。
ミカが休んでいる間に一応様子を見に行くと、ひとまず自分で選んだことで、エミリアナは部屋に満足したようだ。きらびやか、と言えば聞こえはいいが、ごてごてと飾り立てた部屋の装飾にちょっと引いてしまった。しかも、そこでエミリアナがにこやかに話しかけてすり寄ってくるのだ。鳥肌が立った。反面、それくらいで収まるのだから、自分の恐怖症も改善されてきたのだな、と思う。
ぐっすり寝て少し寝坊しました、と言うくらいの時間にミカは起きてきた。まだ少し眠そうだが、活動し始めればきりっとしていた。エミリアナに寝坊したことをぐちぐちと言われ、ミカは諦観の表情で流していた。さすがに起きられなかったのは事実なので反論できず、エミリアナが勝ち誇った顔をしている。後ろで申し訳なさそうにぺこぺこしているソラナが不憫だ……。
結局、ミカは別荘に行く当日まで調子が悪そうだった。馬車で行くのでそこまで心配はいらないだろうと思いつつ、さすがにエミリアナと馬車を離すことにした。
「大丈夫か?」
「……眠い」
どれだけ寝るんだ、というツッコみは飲み込んでおく。座位姿勢を保てないのか上体を揺らすミカの肩を抱き寄せる。ミカはアックスの肩に額を擦り付けた。
「気持ち悪い気もする……」
「寝た方がいいんじゃないか?」
寝る前に到着するような気もするが、眠れるなら眠ってしまって、その間に到着するほうがいいのではないだろうか。ミカはうなずくと、目を閉じた。
「どうしたんだろうな……」
するりとミカの二の腕をなでる。原因がわからないということが不安だ。ミカを失うかもしれないことが怖い。ミカに依存しているのはわかっているが、これはどうしようもない事実なのだ。
別荘に到着し、ミカを起こしてみたのだが、眠そうに目をとろんとさせているのを見てあきらめて抱き上げる。身長は同じくらいでも、華奢な女性であるミカは軽い。安定を求めてか、ミカはアックスの首に腕を回した。
「まあ。奥様、大丈夫ですか」
先に到着していた侍女のエンマがアックスに抱えられたミカを見て目を見開く。アックスは「馬車に酔ったようだ。しばらく寝かせておきたい」と寝所を用意させる。
ベッドに寝かせてドレスを緩めると、ミカは丸くなって休み始めた。これはしばらく寝かせておくしかないだろうとため息をつく。エンマにミカを頼み、アックスは後から到着する国王夫妻を待つことにした。
「アックス、ミカエラはどうした」
到着のあいさつをした後、ヴィルヘルムはアックスのみであることに首を傾げた。セレスティナも不可解そうにしているが、エミリアナは声を上げた。
「まあっ。客人を出迎えもしないなんて! 王族の妻にはふさわしくないのではありませんの」
「エミリアナ様!」
「エミ、あなたは黙っていなさい」
ソラナが咎めるように声を上げ、セレスティナもあきれたように首を左右に振った。
「体調が悪そうなのを見たでしょ。目の前で倒れられた方がいいというの?」
確かにそういう危険もあるのか、とアックスは納得してうなずいてしまった。ヴィルヘルムからあきれた視線が飛んでくる。察する能力が低い自覚はあるので、大目に見てほしい。普段はミカがカバーしているので、あまり目立たないだけだ。
「……ひとまず、ご案内します。別荘ですので、領城より部屋が狭いことはご了承ください」
さすがにそれくらいはわきまえていたのか、エミリアナも「仕方ありませんね」とうなずいた。
「アクセリス、ミカエラの様子は?」
なぜかヴィルヘルムではなくセレスティナに尋ねられ、アックスは思わずびくりとした。
「……眠っています。どうも眠気がひどいようで」
「眠気だけ? 気持ち悪いとか、食事ができないとかは?」
「馬車酔いはしていましたが……」
珍しくぐいぐいくるセレスティナに及び腰になりつつ、アックスはミカの様子を必死に思い出す。寝ている時間が長くおなかがすかないのか、食事は控えめだった気はする。
「医者か助産師に診せた方がいいと思うわ」
なぜその選択肢。その疑問がアックスの顔に出ていたのだろう。セレスティナは首を傾げた。
「あら、気づいてないのね。ミカエラは妊娠しているのではない? ……もしかして本人も気づいてないのかしら」
困ったように眉を顰めるセレスティナを思わず見つめ、アックスは心当たりはあるな、と思った。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
うぐぅ。ここを通り抜けないと、想定している完結に行きつけない…。