第九部 令の願い
※※※※※
「………あら、いらっしゃい」
柔らかさと、穏やかさ、そしてその奥に存在する、確かな経験としたたかさ。
それらを内包した声が、俺の耳朶を撃った。
「そろそろ来るころだと、思ってたわ」
……………そろそろ、来ると思ってた?
どういう、ことなんだ?
「どういうことかはあなたが一番よく知ってるんじゃない?」
………。
俺、今しゃべってないよな?
「ええ。あなたの声を聞いた覚えはないわ」
なら、これは。
「読心術、と言うわけよ。古典的な手だけど、便利と思わない?」
確かにな。
心を読む術。そんな魔法が俺にもあれば、あんな事にはならなかった。小米姉さんを止めることも、令の真意を読むこともできたはずだ。
なのに、俺は。
結局何もできずに、ただ状況に流されただけだった。
「しょうがないわよ。それが私の描いたシナリオ。あなたが抗えるとは、初めから思ってなかったから」
………どういう意味だ。
「あなたは自分が大樹に抗えると思う?」
さすがに、それは無理だ。
大樹、白樺島を白樺島たらしめている、すべての願望をかなえると伝承された魔法の樹。その願望はありとあらゆる事象に干渉し、その願いをかなえてくれる。ここ一月ほど、俺はその願いの管理人と言うけったいな仕事をやっていたのだが、そうであったからと言って大樹に抗えるとは考えていない。そもそものスペックが違いすぎて、比べる気も起きないのだ。
「そう言うことよ。大樹を植えたのは私、そしてそのために必要なすべてをそろえたのも私。神は自らの被造物に殺害されることはなく、いつの世も神を殺してきたのは神の眷属よ。つまり大樹の発端である私が大樹以下の力しか持たないなんてこと、ありうると思う?」
普通に考えたら、あり得ないな。
って、今、あんた――――
「ええ、言ったわ。『あの大樹は私が植えた』って」
………あんた、いったい何者…
「『魔女』」
…………『魔女』?
「そういう存在なの。名前はあるんだけど、呼ばれるのは好きじゃないから」
……………そうか。
「けど、あなたも災難ね。確かに小米は非情なところがあるけど、まさかあなたを襲撃するなんて思わなかったわ」
あれは俺がやる気になったのが悪い。俺も殺す気だったから、こうなったことに文句はない。
「優しいのね」
気にしないだけだ。
「そう言うのも含めて、人は優しさって呼ぶんじゃない?」
そうか? 少なくとも自分勝手な行動を『優しさ』とは呼ばないだろ?
「そんな感情、された方の思い方次第よ。やった側が自分勝手なおごがましいことだと思っていても、やられた側にしてみれば親切この上ないことに見えた。ならそれは、親切って言ってもいいと思うけど?」
………、確かに、そうだな。
「それに、あなたが優しいのは本当よ。『鏡』のこと、今までよく見てくれたじゃない」
お互い様だよ。俺もあいつにすがってる部分、あるしな。
「謙虚なのね」
事実を言ってるだけだよ。
「………………ふう」
……どうかしたのか?
「いえ、ちょっと疲れただけよ。このところ、いろいろと忙しくやってたから」
忙しく?
「ええ。――――運動不足、かしらね。ずっとこんなところで動いてなかったから」
こんなところ? そう言えば、ここってどこなんだ?
「あら、ごめんなさい。せっかくユメノナカまで招待したのに、見てもらうのを忘れていたわね。迂闊だったわ」
いや、招待者は開催者の意思に従ってやるのが普通だろ。
「楽しんでもらわなきゃ、興ざめだと思わない?」
確かに。
「とにかく、見てもらうわ。ちょっと待って………」
ああ。待たせてもらうよ。
……………。
……………。
……………。
「もういいわ」
俺の耳に、『魔女』の声がしっかりと届いた。今までなかった、確かなからだの感触がある。視界もゆっくりと開けて行き、周囲が薄暗い夜であること、俺の身にまとっているものがいつも通りの制服であること、足もとが草地であること、正面に何かがあることをおぼろげに認識していく――――
そして、視界が半分ほど開けた時、唐突にその認識は広がった。
「………ここは……………」
「ええ、そうよ」
後方から『魔女』の声。
正面にある、そびえ立つような存在。救いなき者に救いをもたらす神、あるいは数多の命を大地に転がる石のごとく踏み潰す支配者、その雰囲気を併せ持つ、堂々たる存在。
それがある場所で、俺の覚えのある場所となれば、ただ一か所。
ここは大樹の広場だ。
現実に存在する大樹、それと寸分たがわぬ風格を所有する大樹、その姿が、今俺の目の前にある。唯一違う点と言えば、この大樹が現実の大樹よりもそこのしれない不気味さを所有しているということ、そしてその枝葉に一切の花を咲かせていないというこの二点のみだった。
直観が告げる。巫女ヶ浜として、大樹の管理人として培ってきた感覚が。
現実に存在している大樹、それはこの樹の前では模倣品に過ぎず、
そしてここに存在する大樹こそが、本物であると。
絶対と絶対の模倣品。素人目には同一にしか映らない筈のそれらは『俺』と言う名の経験者の前には一目瞭然の違いを見せる。
そして、感じるのはそれだけではない。
大樹の広げた、その枝葉。
その中に、俺は、
雨鏡令、
巫女ヶ浜鷺、
その二人の存在を、感じていた。
………おいおい、
ここに令の命を感じるということは、
すでに何かしらの代償によって、令の命が捧げられたということである。
そして俺の知る限りもっとも可能性の高い願い、それは―――
「……………っ」
思わず地面に目を落とした。
――――間に合わなかった。
今はまだ小さな命。だが、確かに感覚する、雨鏡令との絆。
俺は、理解する。理解してしまう。
遠からず、雨鏡令の命は――――――――消える。
それはどうすることもできない、どうしようもない、回避することもできない重みとともに俺にのしかかり―――――
そっと、俺の右肩に暖かな手が置かれた。
「《………さあ、夢から覚める時間よ》」
おっとりとした、柔らかな声。
その言葉が、確かな力を持って俺にのしかかる。
「《私の愛しい愛しい種子よ、その芽を生やして世界をよく見て。そうすれば、自分の道がよくわかるはずだから》」
種子、発芽。
その単語が、俺の中に浸透する。
その感覚は乾いた大地に浸透する清水、いまだ地に落ちたばかりで世界を知らぬ種子と言う名の赤子をはぐくむ、小さな恵み。
「《だから、起きなさい。まだ世界見ぬかわいい種子よ》」
浸透していく言葉、それに導かれるように、俺は肩に手を置く人物を振り返った。
そしてそこに、俺がここに来る寸前に対峙していた人物と同じ姿をした、しかしその人物ではあり得ぬやわらかな笑みを浮かべている表情を見つけ――――
そしてその微笑みが、満面の笑みへと変じるのを見て、
「《おはよう、私のかわいい種子》」
言葉と同時、
俺の意識は、消失した。
※※※※※
「――――――う…」
ゆったりと、俺の意識は浮上した。
全身がやわらかな布で包まれている感触。
人肌のぬくもりに抱かれているかの様な体感。
そして、脳裏に満ちる気だるさ。
意識は覚醒とは程遠い場所にあり、体もまた稼動させることを望んでいない。そんな状況。
しかしそんな状況にあろうとも、意識は自然とぼやけたまま浮上し…………
そして木目も鮮やかな板張りの天井を目にした。
「………………………」
見覚えのある、いつもの天井。天井からぶら下がって部屋を照らしている和風の照明の位置、特徴的な模様、視界の端のほうに見えている壁の上部、そういった細かな特徴も、俺の記憶にあるものと一致する。
「…………―――」
それを確認するべく、首を回して右側に目をやる。
燻し木で創られた純和風の文机と、俺の寝ている布団の端、そして布団のすぐ隣に置かれた、畳の上の救急箱。
間違い、ない。
ここは、俺の部屋だ。
………一体、何があったっけ……
確か、今朝は悠にたたき起こされて、お役目のことも合ってとんでもなく眠くて授業始まるなり睡眠学習に入って、三時間目ぐらいに起こされて…………
その先は――そう、悠にねだられて小瓶創って……いくつか話して…板橋がいつものごとく暴走して、その後に令が、
令。
記憶が、一気に蘇った。
そうだ、俺はその後梓の急変を聞かさされて病院へ行って、ICUの前で令と二人で結果を待って令だけがその結果を聞きに行って、その間に俺は小米姉さんに呼ばれて屋上へ行って、それから俺は小米姉さんと戦い――――そして俺は、時代の前に敗北したのだ。
そして俺が敗北したという結果が存在する以上、令はもうすでに大樹に到着してその願いを………
「………!」
全身が一気に覚醒する。精神が一気に高揚する。
その勢いのまま俺は布団を跳ね上げてその身を起こ
「ぐっ……ぁぁ………」
全身を激痛が駆け巡り、再び布団に倒れこむ。それと同時に俺の全身に包帯が巻かれていること、服が普段の俺が絶対に着ないような肌襦袢になっていること、倒れこんだ拍子に見えた窓の外が闇の色になっているということなどを認識した。
夜、ということはそれほど長い間気絶していたということではないらしい。もしかすると、令はまだ大樹のふもとで願い続けているかもしれない。
希望に縋って、布団から這い出る。そのまま勉強机として使っている文机まで移動、縋りつくようにして立ち上がる。
「!!」
苦痛が全身、主に胴体側面部を貫くが、無視。文机の正面、妙に広い面積を誇る自室の壁に縋るようにして、歩を進める。
ゆっくりゆっくりと、全身を痛みに蝕まれながら、歩く。左腕にまったく力が入らないため、その歩みは強制的に右手の支えのみによって行われることになるため、かなり不自由だ。
だが、それでも。
俺は、行かなければならない。
俺は、令を失いたくないのだ。
半ば突撃するように障子を開け、廊下に出る。純和風、交差点、幅広。絵に書いたような『和風豪邸』の廊下である。普段は一人暮らしではあるが、この広い廊下はいろいろな面で便利に活用できるのだが、今回ばかりはこの広い廊下と、家の中でも奥まった地位にある自室が恨めしい。
廊下左右にある襖に持たれて、俺は玄関を目指す。
行かなければ、ならない。
行か、なければ――――
『あの少女と関わり続けた場合、お前は巫女ヶ浜としての自分どころか、下手をすれば自分の全てをなくしてしまうかもしれん。私はお前にそうなって欲しくはない。だから、そうなる前に関わりを絶っておくことを私は勧めよう』
「……………!」
何で、
何でいまさら、小米姉さんの言葉なんて思い出してるんだよ…
決めたはずだろ? この言葉を、言われたその日に。
例え俺が巫女ヶ浜を失うことになったとしても、俺は令とであったことをなかったことには出来ない、って……
どれだけ現実味を持ってきたところで、その答えは変わらないだろ……なあ、巫女ヶ浜明――。全てを失う、その可能性。それが目の前に示唆された程度で、変わるわけ、ないよな。
違うわけ、ない。『叶うはずない』って思ってた小米姉さんに、命がけで喰らいついたほどだ。その決断が違ったんだったら、俺は何のためにあんなこと………
「ぐっ………」
磨きこまれた床に足を滑らせ、ど派手に転倒した。
最悪なことに左半身を強かに打ち付けてしまい、悶絶して動けなくなる。
「………………ぬぅ……不覚…」
こんなことなら普段からここまで細かく磨くこともなかったか。掃除はいざというときのことを考えてほどほどに。うん、これからの教訓だな。
思いながらも歩を進める事はやめない。
令を、止めなければ。
俺は令を、失いたくはない。
………どうして?
「………どうして、なんだろうな、ホントに」
ああ、やっと気づいた。
俺は当の昔に、入れ込んでたんだな。雨鏡令、その名前を持つ少女に。
だから、行こう。大樹まで。
止めなくちゃ、ならないから。
さあ、玄関はもうすぐ、あとちょっとで外に
「明さん!」
「…………へ?」
いきなり背後から、俺の体は抱きすくめられた。
胴体にしがみつくかのような抱擁。一瞬にして俺は生きている人肌のぬくもりに包まれ、生理的にこみ上げてくるその安心感、そのぬくもりに思考を奪われた。
「何やってるんですか本当に! 動けるような怪我じゃないのに……」
後方から抱きすくめられたまま、叱咤の声を耳元やや下のほうから飛ばされる。
その声、その口調、そのおおよその身長。
それらから、理解が広がっていく。俺を抱きすくめた人物が一体誰なのか、過去の記憶から掘り起こされる。こんなときでも変わらぬ口調、そして叱咤しながらも俺の中から何かを呼びよこすような感覚が存在する声の主は紛れもなく、
「……令、か………?」
肯定するかのようにより強くしがみ付かれる。
いや、めちゃくちゃ痛いんですけど………
「無理して起きたりしないで、部屋に戻ってください………睡眠不足だとかいろいろたたって、体力的には相当無理してるはずなんですから」
「いや、ちょっと待ってくれ。俺、一体どうしてここにいるんだ……?」
小米姉さんとの激戦の末、命に関わらない程度まであの斧の雨を凌ぎきったところまでは覚えている。はっきり言って自分でも生き延びることが出来たのが不思議なほどの攻撃だった。で、その時代を凌ぎきった後に自然と意識が遠くなって……
そして気がついたら部屋にいました、と。
妙な夢を見たような気もするが、はっきり言って覚えてない。
「覚えて、ないんですか……?」
困惑した声。妥当な困惑だな。
「あいにくながら」
と、言うかまずは離してください。
「小米さんが、運んできたんです。『ちょっとワケありだから、後は任せる』と、家の前にいた私に。あとこの家の鍵も。部屋とか、治療道具とかの場所は、小米さんに教えていただきました」
「家の前で、待ってた……?」
と、言う事は令は大樹に願ってないのか? この家の前で令が待機していたという事は、梓よりも俺を優先したということ。つまり梓の傍にいることよりも、俺と会うことを優先したということだ。普通に考えて、大樹に願ったのであれば俺のところへ繰るよりもまず先に、梓の傍にいることを選ぶだろう。
それなのにここへきた、という事は…………
「――――――はぁ………」
安堵からなのか、脱力すると同時に思い切りため息が漏れた。当然俺の体は床に向かってへたり込むことになり、
「きゃ」
それに吊られて令の体のバランスが崩れることになる。
俺の体に突撃しなかったところを見ると、どうもぎりぎりで踏みとどまったらしい。俺の腰の隣の辺りに、白い靴下に包まれた二本の足が見える。
「明さん? 大丈夫……ですか?」
心配そうな令の声。それすらも俺の安堵を誘発し、更なる安心を生む。って、足に力が入らない。相当無理してたからなのか、そろそろ限界かもしれない。
「はは……悪い、令。肩、貸してくれないか?」
一人じゃ、多分部屋まで戻れない。
「肩、ですか?」
「ああ………一人じゃ多分、戻れない」
思わず苦笑いが浮かぶ。
しばらくの間、その後に俺の両脇の下からすっと令の両腕が抜かれ、そしてそのまま………
「……行きますよ」
「……ああ」
柔らかな体が俺の右側にそっと寄せられ、俺の体を持ち上げるように立ち上がった。
一瞬意識が俺の首に回された腕の感触だとか、令の肩を支えにする右手から伝わってくる暖かさだとか、体にぴったりと寄り添う柔らかな官職だとかに向き、どぎまぎしてしまう。
が、それは向こうも同じのようで、ふと俺の右肩の横ぐらいの位置に存在する令の顔に目をやってみれば、いつもどおりの茹蛸寸前だった。
まあ、今回ばかりは俺も赤面させていただこう。負傷中、異常な状況とはいえ、このシチュエーションはちと照れる。
「………………………」
「………、………、…」
俺の無言と、令の無言の類似品。
いつの間にか落ち着いてしまえるようになった、言葉なき言葉。
初めて聞いたときは何かいいたいことでもあるのかと思っていたが、どうも二ヶ月の間に何度も出てきたことから推察するに、微妙に恥ずかしいのに言いたい言葉が出てこないときなどにこうなるらしい。
まあ、らしいといえばらしいか。
自覚はないようだが、令はかなり照れ屋な部類だし。
俺が移動したとき以上の速度で俺たちは歩き続け(家の中でこの表現が使えることが異常だと思うのは俺だけだろうか?)、一分足らずで俺は部屋に戻されてしまった。
令の手によって、俺の身は再び布団の上に横たえられる。
「………もう無理は、しないでくださいね。傷はそれほど深くはありませんけど、数が多いですから。一応はふさがってますけど、開くと大変なことになりますよ」
「そっか」
うむ、更に奇跡的な何かを感じる。万を数える斧の群れに襲われて、これだけで済むとは……手心を加えられたとしか、思えない。
「随分と長い間眠っていたのは、多分睡眠不足との併用でしょう。明さん、お役目とかでいろいろ無理してますから」
「と、言う事はたいしたことのないレベルってことか」
とりあえず元通り布団をかぶりなおすと、令はゆったりとした仕草で布団の右側、置かれていた救急箱の横に正座した。
「そういうわけでもないんですけどね。左肩の怪我は、深いですし………」
痛々しげな表情で、令が俺の左肩に巻かれた包帯を見つめる。
「………大丈夫、ですか?」
「まあ、めちゃくちゃ痛いけど……」
「我慢できなくなったら、いつでも言ってくださいね。鎮痛剤ぐらいはありますから」
「知ってる」
ここをどこだと思ってる。俺の家だぞ。まあ、救急箱の中身をそろえたのは鷺なんだけど。
「……けど、令。家戻らなくても、大丈夫なのか?」
令の家は本来令と梓の二人暮らし、梓入院中の今は一人暮らし状態のはずだが、今は梓の病状が急変している状態。親も呼んでいたし、その状況であれば家に戻っていてもおかしくは………
って、あれ?
梓が、急変中。
なら、何で令がここでゆっくりしてるんだ?
「私の事は、大丈夫です。母は病院ですし、友人が大怪我してしまっていると伝えてきましたから」
優雅な微笑みを浮かべて、令は言った。
………おかしい、だろ。その、顔。
だって、令だぞ? 数時間前に梓の死の可能性に怯えて、俺のところに縋ってきた、あの令だぞ? あれからまだ数時間、そうであるのなら、俺が面倒を看られる側であるというのはおかしいだろう。精神的なものというのはえてして肉体面よりも多くの影響をその健康へと及ぼす。数時間前にあの状況だったのだ、今もボロボロでなければおかしいし、令の性格を考えると取り繕っていたとしても必ずボロが出るはず。
にもかかわらず令は冷静そのもので、いつもどおりに俺と言葉を交わし、丁寧な仕草で物事に応対している。
それは今の前提条件で語るには、あまりにも異常な光景だ。
「………なあ、令」
ありえる可能性、それは『前提条件の間違い』。
なら、間違えているのは、どこだ………?
「なんですか?」
いつもと変わらぬ物腰で、ゆったりと。
「今、いつだ?」
「……………………?」
令の表情が怪訝なものに変わる。そのまま俺の表情を伺い、そして何かに納得したかのように急に晴れやかな表情になると、
「……ああ、すみません。伝えるのを忘れていました。今、夜の十時二十七分、日付的には五月の――――」
二桁の数字が、令の口から告げられる。
「………あれから、二日後?」
「はい。まる一日、ずっと眠ったままだったんですよ」
前提条件が、一つ。
俺の目の前で、瓦解した。
「まる、一日………?」
「はい、まる一日、です。多分、過労ではないかと」
まる一日。
それだけの時間があれば、大抵の事はできるよな……?
「過労、か………気をつけとくべき、だよな」
「そうですよ。大怪我の原因は追究しませんが、過労にだけは気をつけてくださいね」
「まあ、その辺は置いといて…………」
一拍の間。その後に、俺は再び口を開く。
「梓の容態、どうだったんだ?」
二秒足らずのその言葉。
それだけで令の動きが、一瞬止まった。
表情までが一瞬硬直し………そしてその後に取り繕ったことが丸わかりになっているほど稚拙な作り微笑いを浮かべ、
「…………たいした事は、ありませんでした。今はもう峠も越えたので、快方に向かっているそうです」
「嘘だな」
「!」
令の目が、見開かれた。
「俺は寝てたから詳しくはわからん。だけど、お前のその言葉が嘘だってことぐらいはわかるぞ」
一瞬硬直した後に笑顔を見せて『快方に向かっている』? そんな風に言葉を連ねられて、嘘だと気づかないほうがどうかしているだろう。
それに令のことだ、梓と鷺の関係上俺が割に仲良くやれていたのを見ている。気を使わないわけがない。
「……………………」
「気を使わなくてもいい。話してくれ」
俺の促しに従って、なのか。
令は正座のままうつむき、ポツリと言った。
「………原因不明の、全身臓器異常衰弱だそうです。今の所は薬品の投与によって症状を落ち着けている形になっていますが、根本的な解決はのぞめない、そうです………」
原因不明、異常衰弱。
間違いない。大樹の願望の代償行為、その作用による症状だ。その症状が出ていること事態はもうすでに小米姉さんから聞かされていたのだが、改めて認識するとやはりショッキングだ。
根本的な解決は、望めない。
現実感のないはずのその言葉も、現実味を帯びれば凶器となる、か。
「………でも、大丈夫です」
だからこそ。
令のその、何処か確信に満ちた言葉は俺にとって、違和感だらけな響きを纏っていた。
「…………何か手段でも、あるのか?」
「いえ。主治医の方は『奇跡でも起こらない限り完治はないような容態である』といいました」
顔を上げ、再び視線は俺の顔へと向かう。
その目は今までにない決意と、覚悟を秘めた目線。
「ですが…………奇跡は待つものではありません」
そう、令は断言する。
根拠のない確信ではなく、現実でない妄想でもない、根拠の存在する核心、あるがままを受理した現実こそを語っている。そう認識するに足るだけの強さを持って。
「……………願ったのか?」
大樹に。
全ての願望をかなえてくれる、そんな伝説を持つ、大樹に。
心中で俺は必死になって否定する。令が大樹に願った、その確信にも近い思考をもたらした現実こそを。
だが現実は、俺のそんな甘い心情を赦すことを良しとせず、ただただ実際に起こったことのみを事実として叩きつけてくる。
ゆったりと、
令の首が振られた。
縦に。
肯定を意味する、方向へと。
「はい………。容態を聞かされたその日に、大樹に願いました」
そして、と間をおく。
本人にとっては事実を整理するための間、俺にとっては死刑執行猶予のような間を。
「大樹は……叶えてくれました」
令の白い手が、自らの後ろ首へと伸びる。長髪をかき上げ、そこにある何かを両手で引っ張り、指を僅かに動かしてそこにあったもの、首にかけられていたペンダントのようなものを引っ張り出した。
金の細い鎖、その先端にあったのは、小瓶だった。
四季の小瓶。
「……見てください」
言われるまでもなく、俺はその小瓶の中、そこにある花を見つめていた。
………ありえない。
四季の小瓶、その中に入っているのは大樹のパーツである花びらである。今年は四色同時に咲くと言う暴挙をやらかしているため四種類の花びらが入っているが、本来の小瓶の中身はその季節に咲かせた大樹の花びらが入っていればそれでいいという、単純なお守りだ。
当然ながら、その小瓶に入っているのは大樹の『花びら』ということになる。大樹は巨木だ。枝葉に自らの栄華を語る新鮮な『花』をとりに行く事はまず不可能といってもいいし、落ちてきた花はまず間違いなくぼろぼろにバラけている。
それ故に、小瓶の中には『花びら』しか入っていないはずなのだ。
しかし、俺の目の前にある令の小瓶。
その中にあるのは、『花』だった。
春の薄紅、夏の深蒼、秋の茜と冬の純白。
今年の大樹に燦然と咲き誇る、四種類の『この世に存在しないはずの花』。
それらが、令の小瓶の中には完全な形で入っていたのだ。
病院へ向かうそのとき、令が握り締めたそれを俺は確かに見ている。俺の気絶中令には余裕がなかったことを考えると、そのとき俺が見た小瓶の中身と今の中身がイコールでなければおかしい。
記憶は語る。確かにそのときの中身は『花びら』であった、と。
しかし現実、その小瓶の中には『花』が存在している。
明らかに、普通ではない。密閉され鎖でつながれたビンの中身を入れ替えるなど、大家の魔法かあるいはそれに準じる力が介入しなければ出来るはずがない。
接触した大家の人物は小米姉さんと俺のみ、俺はそのとき昏倒中で、小米姉さんの使用する魔法の特性上ビンの中身を入れ替えるような器用な真似は出来ない。となると、
この不可解な現象を起こしたのは、大樹ということになる。
「……………今、妹の病状は快方に向かっているそうです。このままの調子で回復を続ければ、あと二週間もせずに退院できるそうです」
「………馬鹿野郎っ……」
願ったのか。
願って、しまったのか。
「……明、さん?」
自分の命を代償として、差し出してしまったのか。
その結果梓の命が助かったとしても、その命に一体どれほどの価値がある? 姉はいなくて、鷺もいなくて、残っているのはただ孤独な暮らしだけ。
お前がいなくちゃ、意味がないだろう………令。
「どうしたんです? 傷が痛みますか?」
俺の強張った表情を見てどう勘違いしたのか、令が心配そうに俺の頬に手を伸ばした。
その手はとても暖かで柔らかで安らかで――だからこそ、余計に俺の感情を刺激した。
「………なんで…」
「え?」
「何で願ったりなんて、したんだよ………」
俺の頬から、令の手の感触が消えた。
持ち主の表情が困惑に戸惑い、俺に触れていたその手は胸の前で組み合わされている。
「大樹はただでは叶えない………それは、お前でも知ってるだろ…?」
協力者になったその日に、俺が教えたこと。
「命を願えば、その人物から命が削られるってことも、ちゃんと教えただろ………」
「……ええ。ですけど…私はまだ若いですし………」
「……お前は、特別なんだ……」
なぜならお前の命は過去、大樹を介して受け渡された『他人の命』だから。一度大樹を介しているがために、もう一度大樹を通すときに普通よりも大量に取られてしまうから。
「お前の命は、ほかよりもとられやすいんだ……大樹に」
それはもう、一度で死んでしまうほどに。
「だから、お前はどれだけ若くても、一度願ったら―――」
死ぬ。
「………死んでも、おかしくないんだよ……」
大事なものを、失ってしまう感触。
二ヶ月前に痛感したばかりのそれが、再び心中に舞い戻る。内側から暴れ狂う存在しない痛みと、外側から襲い来る圧迫感。肉体ではなく精神を破壊しかねないそれは、軋みとなって体を蝕む。
「…………………」
令は、ただ無言で俺の表情を見つめていた。
その顔に浮かんでいるのは怒りでも、悲しみでも、喜びでもない、ただ、無表情。内側にあるものが多すぎるが故の無表情なのか、あるいは急に突きつけられた事実に対するショックによる無表情なのかもしれない。判別は出来ないが、とにかく令の顔には何も映っていなかった。
「本当だったら、俺が願うべきだったんだ………梓が急変した時点で、俺は病院じゃなくて大樹へ行くべきだったんだよ。そうだったら令も願わずに済んだのに………」
「……明さん………」
令がゆったりと、口を開いた。
「わかっていましたよ、私。代償として死ぬかもしれないって事。なんとなく、でしたけど」
「だったら、」
どうして、という前に令は続けた。
「妹を、助けたかったからです。鏡を取ったら何も残らない、こんな弱い私を姉と慕ってくれたただ一人の人を、自分の命で助けたかった。ただ、それだけです」
ひどく穏やかな表情を、令は形作る。
「それに、今梓には明さんがいますから。私がいなくなっても、大丈夫かもしれないって思ったんですよ」
「………俺じゃ、駄目だろ」
ただ一人の姉と、友人の兄というだけの人物。
比べるどころか、同じ皿の上に乗せることさえも出来ないような差がそこにある。
「はい、確かにそうですね。だけど―――」
あまりにも自然な動作で、令が俺の手をとった。
「やっぱり、少し心苦しかったのも事実です。明さんと、離れ離れにはなりたくありませんでしたから」
「………俺もだ」
いつしか芽生えていた、この思い。
令を失いたくないという、感情。
縋りつくような間柄だとしても、俺はこの感情を肯定することを選ぶだろう。それが、あの日俺が決めたことだ。
「………ですけど、明さんも同じことをするんじゃありませんか? もし鷺ちゃんが生きていて、梓と同じように原因不明の病気で倒れたとすると、明さんもその結果自分の命が消えても、願うんじゃありませんか?」
「……………………」
それは、確かにそうだ。
だけど………
「……俺なら、たぶん迷うと思う」
「え?」
想像もしていない答えだったからか、令の表情に驚きが走りぬけた。
「………令を選ぶか、鷺を選ぶか。迷って迷って迷って、それから俺は決めるんだろうな」
俺の右手を握り締める人物を、一人にしたくないから。
一人にしたくないと、思うことが出来るようになったから。
だからこそ、唯一の肉親と天秤にかけることが出来るようになったし、その結果俺がどちらを選ぶか判らないほどに迷うことが出来るまでになった。
「………それだけ、令は俺にとっても大事なんだよ」
こんな言葉を、はっきりと告げることが出来るようになってしまうほどに。
「……………――――」
きょとんとした目で、令は俺を見た。
何処かその目は動揺しているようにも見えたし、それに何処か全体的に紅潮しているようにも見える。それでもいつもどおり茹蛸になっていないのはどうしてなんだろう。前は手を握った程度でも茹蛸だったのに。
ゆったりと、令は笑った。
微笑みではない笑みを、顔に浮かべた。
「………明さん」
「…なんだ?」
「私――死ぬって本当ですか……?」
「…………………ああ」
「助からないん、ですか?」
「……たぶんな」
「………梓は、どうなりますか?」
「願いは受け入れられてるから、確実に助かるだろ」
「………………そうですか」
笑みのまま、令はうなずいた。
そして穏やかなその表情のまま、令はゆったりと目を伏せ、
「でしたら、一つだけ。一つだけ、お願いしても、いいでしょうか?」
「……………ああ」
きゅっ、と手が握り締められた。
「では、一つだけ、お願いします」
私が死ぬまで、傍にいてください。
「……かまいませんか?」
「………くくっ」
思わず喉の奥から笑いが漏れた。
先ほどまでん阿弥陀をこぼす寸前であったというのに、つくづく人の心というものは気まぐれに出来ているらしい。
だが、これに笑わずにいられようか。
傍にいてください?
「……そんな願い、願われるまでもなく叶えてやるよ」
と、言うか日常生活を送れる程度まで傷が回復する間、令抜きで俺はどうやって生活すればいいんだ。絶食か? 不衛生か? 寝たきりか? 勘弁してくれ。
「……まだ話していないことも、多々あります。もしかするとその事実は、明さんをひどく困惑させるかもしれない。それでも、かまいませんか?」
「当たり前だ」
俺の言葉に、令はゆったりうなずくと視線を二三度あらぬ方向へさまよわせ、その末に俺の顔に目線を固定する。そして俺の手を胸の前までもってくると、おもむろに両手で握り締め、
「明、さん………」
そして令は、今までの微笑みでも、落ち着いた笑みでもない、年相応の少女が浮かべるにふさわしい、まさに花のようなと表現するに足る、満面の笑みを、浮かべた。
「ありがとう、ございます」