第七部 終わりの始まり
※※※※※
バレた。
それは……そう、それは二週間前のこと。
あの病室での会話の間中、どうも令は病室の外で俺たちの会話を全て聞いていたらしい。当然その中には魔法がどうとか、お役目がどうとか、妹がどうとか、そういった『人に話してはならない内容』が多分に含まれていたわけで、結果として令には全てを知られてしまった。
こんな重要なことなのに、どうしてこうも簡単にばれてしまうのやら………
何かしら大きな原因があって、やむをえない事情から発覚するならまだ目も当てられたのだろうが、不注意から発生した発覚なんて、はっきり言ってコメディーだ。
結果的に、令には全てを説明せざるを得なくなった。
俺が巫女ヶ浜という魔法を代々血脈に乗せて受け継ぐ家系の当主であること、原因はわからないが梓も同様の力を持っていること、お役目と呼ばれる仕事を行わねばならないということ。お役目の内容は伏せたが、それでも令は俺たちの隠していた全てを知り、そしてその上で、
『……そういうこと、だったんですね』
と、あきれるでも怒るでも拒絶するでもなく、納得してくれた。
『以前から妹のところへ行くたびに四季の小瓶が私の持ってきたもの以外に増えていたことがあったんです。それにあの花も、梓のお見舞いに来た人がおいていったにしては多すぎますし』
とのこと。ついでに俺のことも始めてあったその直後からいろいろと考えていたらしく、
『明さんのことも、ようやく納得です。何か隠し事のある風でしたし、それに始めてあったときにも「魔術」とつぶやいていましたし……』
というわけだった。
いやはや、理解が早くて助かります。
しかし巫女ヶ浜の秘密を知られてしまったからには、令に対して何もしないというわけにはいかない。神秘は秘匿されるべきである、その心情を抱える大家の分家筋、その当主が俺なのだ。それなりの処置をとらねばならない。
まあ、といっても『雨鏡令の殺害』や『記憶の操作』といった荒事に持ち込むわけではなく、単純に令には俺の協力者になってもらった。これは大家が持つお役目をこなす人物を補助する人間のことで、お役目の存在を知っている人物であれば誰でもなることが出来る、言ってみれば秘匿に関する抜け穴とでもいえるものなのだ。
一応『協力者』という名目なので、ある程度の協力は必須となる。
そのことを令に話してみると、
『別にかまいませんよ』(満面の笑み付属)
とのことだったのであっという間にこの問題は解決した。
それが、丁度一週間前のこと。
協力者が加わったことにより俺のお役目の負担も幾分か軽くなり、妹のことを知る人物であるしょうもない魔法使いの存在もあり、いつしかその存在を巻き込んで、新しい日常の形が形成されていた。
朝は悠に起こされて、そのまま二人で登校して、適当に授業受けて、昼には令も加えて昼飯、授業をはさんで放課後には梓のところへ行って、夜には令と二人で大樹のお役目。
そんな新しい日常が出来て、これからもずっと続いていく。
いつしか、俺はそんな幻想を抱いていた。
抱いて、揺らぐことがないという虚構を信じていた。
しかし、その、
夢想に等しい過信は――――
「……………………」
刻々と、時間だけが流れていく。
あれから僅かに、一週間。梓との出会いから数えて二週間、退院後からカウントすれば一ヶ月、令との出会い、妹の死からカウントすれば二ヶ月の時間になる。延べ日数は60日、時間数は2880時間、分にすれば172800分、秒にしてしまえば10368000秒。
多いようで、少ない。長いようで短い、そんな時間。
その内の半分を過ごした建物の中に、俺はいる。
須藤総合病院、廊下のソファ。
服装は制服のまま、隣には令を伴って、しかし俺は令を励ますかのように、ずっとその左手を握っていた。
令も余裕がないのか、以前のように赤くなって思考が停止したりということはない。むしろ縋りつくように俺の手を握り締めたまま、今にも泣き出しそうな表情で床の一点を見つめている。
「………………………」
普段からは想像もできないような、その表情。
作り出しているものは、簡単だろう。
令の隣、そこに存在する白色のドア。
当然施設内のドアであるからには、その役割が判別できるように部屋の名を記したプレートがあるはずで、そのドアの場合はドアのやや上のほう、普通のドアであれば硝子がはまり込んでいるはずの部分に、それがあった。
ICU。
Intensive
Care
Unit
日本語では、集中治療室という。
二ヶ月前も、その名を聞いた場所。
しかしそのときは、自分とはほとんどかかわりのない他人にしか関係がなかった場所でもある。たまたま夜中の休憩室にいただけの赤の他人、あの時自分が言葉を交わすことを決意しなければ他人のままだった人物にしかかかわりがなかったはずの、部屋なのだ。
だが、今は。
「……………………………」
沈黙の時間が、続く。
俺は、かける言葉が見つからないがゆえに。
令は、語る言葉を作れぬゆえに。
互いに言葉を、発さない。仮に発されたとしてもこの場では意味なく響くのみでしかなく、その言葉は今の拮抗状態とも言える状況を破壊させ、余計な波風を立てるだけだろう。
「………………………」
空っぽの時間が続く。
遠距離から僅かに聞こえる、廊下を歩く足音、点滴台を走らせる音、誰かの鳴き声、外からだろうか、木々のざわめく僅かな音。
聴覚として捕らえることの出来る音は僅かにそれだけ。その音にしたところであまりにも微かであり、あたりはほとんど無音も同然だ。
廊下を照らすのも、蛍光灯の明かりのみ。
…………なんとなく、
見覚えのあるような気がする。無音の空間で、蛍光灯の明かりだけしかなくて、お互いに無言。その状況で俺の記憶にヒットするものといえば………
ああ、
出合った、その瞬間のことか。
確かに、似ているといえば似ているのかもしれない。だけど今令は俺にとって他人ではないし、令のほうからしてみてもそれは同じだろう。出なければ、ここまでしっかりと手を握り締めるなんて事はないはずだ。
「……………変わったよな……」
「え?」
思わずもれた一言に、令が顔を上げた。
「二ヶ月前に会ったときも、入ってたんだろ?」
「……………………ええ。あの時も、こんな感じでした……」
再び、令はうつむく。
「いなくなってしまうんじゃないか、もう会えなくなるんじゃないか。そう考えると不安で不安でしょうがないのに、他人にゆだねるしかない。だけど私が離れれば、あの娘が消えてしまうような気がするんです……でもここにいるとあまりにも不安で、無意味だって言うこともわかってるのに……離れられなくって………どうしたらいいのかもわからなくて……辛くて寂しくて…」
俺の右手が、更なる力で圧迫される。
「明さん、」
「………なんだ?」
「………傍に、いてくれますよね………?」
今にも泣き出しそうな声音。
内側からあふれ出る不安に、外側から圧迫する孤独感に、押しつぶされそうになっている声。
「こんな弱い人間ですけど…何もない空っぽな人間ですけど…『鏡』を取ったら何も残らない人間ですけど…魔法のこともお役目のことも……鷺ちゃんのこともほとんど知りませんけど…そばに……いてくれますよね…………?」
心の中身をさらけ出すような、感情に満ち満ちた声。
その声に、俺は、
「当たり前だろ」
右手に、令の手を握り締めるその手に、力をこめる。
「……弱いって点なら、俺も同じなんだから」
身近なものの死を受け入れることが出来ないほど、弱かったから、眠れなくなった。
一人の現実を恐れたから、眠ることを恐れた。
それを現実と認識してしまうことを、恐れた。
だからこそ、俺は出会ったのだ。
同じ弱さを抱えた、この少女に。
「……それに、前のときもどうにかなったんだろ? 今度も、大丈夫だって」
「………………はい」
そこでようやく、令はいつもどおりうなずいた。
もちろん、俺の言葉が気休めに過ぎないことも理解している。むしろ一度の乗り切れたから、乗り切れてしまったからこそ、戻ってこない可能性は上がる。体力の消耗、生きる意思の低下、そういったものが、この部屋に食われたものをより深く死に近い場所へと、引きずり込む。
だけど、俺は。
ほんの少しの気休めだとわかっていても、本人も気づいているはずのものでも、告げたかった。
僅かでも、支えになりたかった。
二ヶ月前には存在しなかった感情、それが今、俺の中にある。
それにしたがって、俺はそう宣言したのだ。
「…………………」
時間だけが流れていく沈黙が再び訪れる。
令の手は俺の手をきつく握り締めたまま、俺の手はその手を握り返したまま、離さない。
仲のいい友人ではありえない、家族といっても通用しない、恋人同士、将来を誓い合った間柄と説明して初めて納得してもらえる状況のまま、ただただ時間だけが流れていく。
そしてその終わりは唐突に訪れた…………
―――― ガチャッ ――――
俺たちの隣にあった部屋、その扉が内側から唐突に開かれた。
中から姿を見せたのは、梓の担当医と思しき白衣を身にまとった中年の男の姿。全身に何処か疲れた雰囲気を纏っており、俺の不安をいやがうえにも煽り立てる。
「……処置は、終わりました」
医師が重々しく口を開く。
「梓さんの病状についてお話したいので、保護者の方は――――」
「かなり遠くに住んでいるので、到着するのに時間がかかります。あと………一時間ぐらいは………」
「そうですか」
ここへ到着してからすでに三時間、そして令が公衆電話で何処かへ連絡を取ったのもそれとほぼ同じ頃である。両親に関しては特に話を聞いたことがなかったが、まさかそれほど遠くに住んでいたとは…………
「私でよければ、話を聞きます」
先ほどまでの弱々しさを感じさせぬ様子で、令が立ち上がった。
一瞬、医師の表情の中に戸惑いが浮かんだが、令の服装、雰囲気、表情、そういったものの中から年齢以上の何かを感じ取ったのか、重々しくうなずき、
「………わかりました」
後ろ手でドアを閉め、
「では、内科診察室へどうぞ。そこで、梓さんの病状についてお話します。ですが…………」
医師の目が俺を捕らえる。
言わんとしている事は、一つだろう。
「……行って来いよ、令。待ってるから」
結論は一つ。
俺は桜守梓の家族でもなんでもない、ただの仲のいい友人に過ぎないということだ。
「……すみません、ちょっと行ってきます……」
令もすぐさまそれを察したのか、軽く俺のほうを振り返り一言。表情が強張ってしまっているのは、心配のためだろうか。
「………では、行きましょう」
「はい」
ゆったりとした足取りで歩き始めた医師、その後ろに付き従って不安げな面持ちの令が続く。
正面を見つめたまま、無音の空間、そこに響き始めた新しい二組の足音を聞く。やがてその足音も階段と思しき連続音の後に遠ざかり、薄れ、そして他の物音にかき消される。
一人、取り残された俺は…………
「――――――まったく」
誰に言うでもなく、一人つぶやいた。
特に言葉に意味は無い。昔から口癖として定着してしまった言葉、退屈したり状況が妙な方向に転んでしまったときによく使ってしまう、それだけの言葉だ。よく妹にもやめてくれといわれていたのだが、こればかりはどうも直す気にはなれず、ずっと癖になったまま放置していると、それだけのこと。
けど、なんとなく後悔する。
こんな状況になるぐらいなら、直しておくべきだったか、と。
直しておけば妙な言っちまった感にさいなまれることも無かったのに、と。
益体ない考えがぐるぐる回る。
現実から逃避するために、
あるいは、この現状を直視しないために。
焼く体内考えを、続ける。
つもり、だったのだが、
―――― カッ ――――
突然響いたその足音。
それにより、俺の思考は強制的に寸断させられる。
「………やはりなるようになっているようだな、明」
明、その呼び方。毅然とした足音、不遜な話し方。
該当する人物は、一人だ。
「……小米姉さん、か」
正面を向いたまま、ため息をつくように言った。すると左から小米姉さんの不満そうな声。
「何だ、隣に住んでいながら二週間もあっていなかった人物に対して、その言い方は」
まあ、とつぶやくように前置き。足音が二三歩俺のほうへ接近し、
「その様子じゃあ、私に気を使う余裕もないようだな……」
「…………ああ」
もっとも、令のほうが俺より悠に余裕のない位置にいるだろうけど。どうなっているのかは定かではないが、それほど悪い結果でないことを祈ろう。
「希望的観測は抱かぬが吉だぞ、明。特に他人の命に関しては、な」
「知ってるのか、小米姉さん」
心中を見透かしたようなその言葉に、俺は思わず小米姉さんのほうを振り返った。
傲岸不遜ないつもの表情、それに加えていつもの含み笑い、毅然とした立ち姿。
その雰囲気を完全に崩すことなく、小米姉さんは言った。
「知ってるも何も、病院でお前のような顔色をしてる人物の考えることなど大抵人命がらみだろう。それもICUの前、ぼんやりと前だけを見て、だ。希望的観測を抱くのもよくあることだろう?」
確かに、と内心で納得が声には出さない。
「しかし、お前の場合は事情が少し特殊だな」
にやりと、小米姉さんは笑みを深める。
「何せ、この部屋の中にいるのはお前の絶対ではない。この部屋の中にいるのは、あの少女の大切な人物のはずだ」
「………どうしてそれを……?」
俺が連絡を入れたのは俺の通う高校の理事長であるところの葵さん、突然俺が消えたことで困惑しているであろう悠、後は担任教師程度だ。姉さんには今回の一件の事はおろか、梓と知り合ったことすら話していない。
「ふん、お前の隠匿能力もたいした事はないな。お前の部屋は私の部屋の正面だぞ? 力を少々応用すればお前の部屋で行われる電話の音程度、同じ部屋でかわされているのと同じだ」
つまり魔法を応用して盗み聞きしていました、と。
普段なら激高するぐらいはやるのだろうけど、今は気力がわかない。特にこれとピッ他反応を返さないで置く。
「………………」
「………………」
俺の反応がないことを不審に思ったのか、小米姉さんの眉がひそめられる。そのまま俺との距離をつめ、ソファの隣に腰掛け…はせずにそのまま正面から、俺の顔を覗き込んでくる。
「……………………」
「……………………」
小米姉さんの黒檀を思わせる漆黒の目が、俺の目を捕らえて離さない。深みに映るは美ではなく混濁、色自体は澄み切った黒であるはずなのに、その黒がうごめいているような印象を受けるために混濁であるかのように錯覚する、そんな目の中に、俺が、取り込まれる。
「……………………」
何をするでもなく、その目を見つめ返す。
自分の内側を、その目に差し出す。
「…………『種子』………か」
ポツリと、小米姉さんが目線をそらしながらつぶやく。
種子……?
何故ここで、種なのだろうか。
「明、話がある。ラウンジへ行くぞ」
「……話なら、ここで大丈夫だろ?」
「普通の話ならな。お家柄みの話をこんな場所で出来るか」
確かにそうだ。部屋の中にいる梓は話を聞ける状態ではないだろうから安心だが、ここは病院の廊下。音はやたらめったら反響しやすい構造になっているし、通り過ぎる人も多い。
「………わかった」
ここから離れるのは忍びなかったが、小米姉さんのことだ、それほど長い話にはなるまい。ソファから長い間座っていたせいで凝り固まっている腰を浮かせ、右のほう、病院の中央の方へと歩いていく小米姉さんの後ろに続く。
そのままエレベーターホールへ移動、たまたま止まっていたエレベーターに乗り込み、移動できる最上の階のボタンを押す。
重力の感覚が狂う感覚が、四十秒ほど。
到着した階でエレベーターから降り、ホールから廊下へ移動、右のほうへと移動する。
そのまましばらく直進し、突き当りで左に折れる。
ラウンジはもう目前である。
通り過ぎた。
「え………?」
「どうした?」
「いや、ラウンジ通り過ぎたけど………」
「知っている」
言うが早いか、再び歩を正面へと進める小米姉さん。
ガラス張りのラウンジ、そこに見えるのは何台かの自動販売機と、白い円卓のみ。見える限りで人の姿はなく、完全に閉鎖されているため音が漏れる心配もない。
なら、ここを使わない理由はないはずだ。
………嫌な予感がする、かな……
なんとなく、ではあるが。
しかしここで足を止めるわけには行くまい。少し遅れながらも小米姉さんの後ろに続く。
ラウンジを通り過ぎて更にしばらく歩き続け、そして隠れるように存在していた階段を上り、上った先に存在する鉄扉を、何の躊躇もなく開けはなった。
瞬間、全身がそこから流れ込んできた風と光で叩かれ……
そしてその先の風景が、俺の視界に飛び込んできた。
「屋上で?」
「ああ、そのほうが何かと都合がいいんでな」
眼前にあるもの、それは病院の外壁と同じ、白色の床にタイルのようなものを張った、白よりはまし程度の色彩をたたえた殺風景な屋上。通常億条などには洗濯物を干したりする役割もあるはずなのだが、どうやらここの屋上はその手の用途に使われてはいないらしい。
入れ、と俺を促す小米姉さんに従い、屋上に足を踏み入れる。そして小米姉さんが鉄扉を閉め、屋上の奥の方へと歩いていき、
「……さて、これでようやく本題に入れるな」
俺のほうを振り返り、腕を組む。
「本題って、何なんだ?」
梓のこと、令のこと、巫女ヶ浜に関すること。幾つもの可能性が次々と頭をよぎる。
が、
「少なくとも、お前の予想しているような内容ではない、といわせてもらおう」
「…………………なら、」
「何なのか、か?」
くく、と喉の奥で耳障りな笑い声を上げる。
「そんなに急くな、明。少しは楽しんだらどうだ、この状況を」
「状況?」
梓が発作を起こして、令が心理的に大変な状況で、俺も切羽詰ってる。この状況のどこに、楽しむ要素があるんだ?
俺の内心を知ることなく、姉さんは同じ様子で続けた。
「そう、状況だ。状況は私の思っているよりも早急に進んでくれている。これが楽しくないなら、一体何を楽しめというのだ」
「…………姉さん、どうかしたのか?」
いつもと明らかに様子が違う。傲岸不遜な女帝というよりも、野望の成就の直前の策士、政治を取り仕切る女王というよりは、己が恋の成就に心躍らせる姫君、それほど大きな変化が、起こっている気がする。
「いいや……どうもしないさ。強いて言うならば願いの叶う感触についつい浮かれてしまっている、といったところか。――ふふ……長い間待っただけの事はある。この感覚だけでも、癖になりそうだ……」
己のうちから湧き出る感覚に酔いしれるかのように、自らの体を抱いて宙を仰ぐ小米姉さん。
その姿は到底いつもでは想像することの出来ない雰囲気が満ち満ちており、俺の内心をいやがうえにも混乱させられる。
あの使い古された表現が合いそうな状況を、俺は知らない。
まるで、別人。
そう表現することしか出来ないほど、今の小米姉さんはおかしい。
「………いや、悪い。つい話が横にそれた。本題、だったな……」
その雰囲気のまま、表情も笑みのまま、小米姉さんの視線が俺に降りる。
「実を言うとな、明。本題なんてものは存在しないんだ」
「え?」
「ついでに言えば、本題はおろか話すことなど一文節も存在しない。私はただ、お前というあの『鏡』を支える存在をここに連れてこれさえすればよかったのだ」
おいおい……
俺を、ここにつれてこれさえすれば、良かった……?
つまりそれは、令が俺の手の届かないところにいる必要があったということ。俺が傍にいれば、都合が悪いことがあるということだ。
そして今、令は何を聞かされている?
令は今、何を受け入れることを強要さている?
「なら、もう戻って問題ないな……」
急いで戻る必要が、ある。
令は俺の創造する内容を正面から受け止めきれるほど、強くない。
だが、
「そんなわけがないだろう、明」
笑みを崩すことなく、小米姉さんは俺の退路を一言で絶ちきった。
「そして一つ、耳寄りな情報を教えてやろう。お前の友人であるところの、桜守梓のことだ」
「梓の………?」
「ああ、そうだ。鷺の友人であり、協力者であり、巫女ヶ浜に認可された魔法使いであるところの、桜守梓のことだ」
「梓が、何だって言うんだよ……」
「このままでは、あの少女は死ぬ」
「!」
一瞬、俺の呼吸が止まった。
小米姉さんは続ける。
「桜守梓の不調は大樹の願い、それの代償によるものだ。桜守梓は昔、己の姉と認識している『鏡』を助けるため、大樹に願った。その結果彼女自身が持つ命が大樹を介して『鏡』に送られ、結果『鏡』は長らえた。しかしそれによって桜守梓は大樹の中に己の命を残している。その状況下で大樹に同調すれば、大樹の中に残された命に本人が所有する命が呼応し、体内に存在している命まで大樹の中に流れてしまう。一度程度では死なんが、遠からずその体からは命が全てとりつくされ、死亡する。これが桜守梓の不調のからくりだ」
「…………………」
たしかに、その構図が正しいとすれば梓に助かる手段はない。命そのものが食われているのであれば、そのラインを切断しない限り命は搾取され続けるだろう。そして切断する手段を、俺たちは知らない。
「………なるほど………そういうことか」
俺の言葉に、にやりと、小米姉さんは口の端をゆがめた。
「理解したか?」
「ああ――――」
遠からず、桜守梓は死ぬ。
確定してしまったその事実を容認するかのように、俺はぼんやりと屋上の柵の外を眺める。
時刻はすでに夕闇の頃。あたりは群青色に近い色に染まり、島をぐるりと取り囲む海、その青さも今では鋼の深淵へと姿を変えている。
「しかし、果たして『鏡』はこの事実をよしとするだろうか?」
含みのある一言。
その言葉は、やけに俺の頭に響いた。
視線を再び、小米姉さんに戻す。
「確かに物理的にも魔法的にも、大樹に搾取されている命を元の場所へ戻す手段は存在しない。それは『鏡』もよくわかっているだろう。だがそれが現状を招いた根源たる力だったら? 万物の抱く夢幻にも等しい無限の夢を感受する、究極とも呼べる存在だったら?」
「!」
その存在とは、つまり、
「その存在に縋らぬ、わけがないだろう?」
白樺島、この島を神秘の地たらしめている根源の存在。
大樹。
全ての願いを叶える存在であれば、例え己のもたらしたものであろうともなかったことにするであろう存在。
それならば、きっと。
梓の命も、救える。
だが、その願いを叶えるという事は………
「が、縋ったところで結局人は一人以上、確実に死ぬ。何しろ、あの大樹はただでは願いをかなえてはくれないのだからな。小さなものではあるが、確実に代償が付きまとう。桜守梓もそれによって命を少々預けられていたのだが、同じ願いであれば恐らく使う代償は同じだろう」
つまりそれは、
「『鏡』の命、その断片だ」
命の断片。それだけで人は死なない。せいぜい寿命が僅かばかり縮んだり、一時的に病弱になったりする程度だ。
が、しかし、令の場合は………
「だが、『鏡』の所有する命は一度大樹に取り込まれている命、つまりは一度、大樹の所有物になった命だ。そんな命を持つものが他者の命を願ったりすれば恐らく、その命のほぼ全てが大樹の中に代償として持っていかれる」
「!」
「結果、桜守梓の中にはもともと保有していた分の命だけが残り、『鏡』の中に存在していた命がゼロになる。結果『鏡』は死亡するわけだ」
「……くっ」
その結論を聞くが早いか、俺は瞬間的に振り返り、後方に存在する鉄扉をあけ―――
「どこへ行くつもりだ? 明」
「決まってるだろ!」
再び小米姉さんに向き直り、
「令を止める。俺なら一時的にしろ、令が願いに行くのを止められるだろ!」
ゆらり、と。
小米姉さんの雰囲気が揺らぐ。
「だから、私は最初に言っただろう。お前が『鏡』の傍にいると、何かと不都合なんだ」
「……え?」
くくくくくくくくくくくくくくくくくくくく
小米姉さんの、狂気にも似た耳障りな笑い声。
「だから、ね。明が令を止めると何かと不都合なんだ。『鏡』には、大樹に願ってもらわなきゃ困るんだよ。そうでないと―――――
『鏡』が、鏡として機能してくれない。
――――そういうわけだ」
「…………………………」
言っている言葉の意味が、わからない。
鏡。雨鏡。
それはわかる。
だが、小米姉さんのいう『鏡』とは一体何なんだ?
小米姉さんの何に、令の命が必要なんだ?
「………『種子』の癖に、そんなこともわかってなかったの……?」
あきれたようにため息をつき、首を左右に振る。
「案外鈍いんだな、お前も」
その言葉と同時、俺は再び振り返ってドアノブに手をかける。
どんな目的があるにせよ、令が今大変な精神状態に成っている事は間違いがない。その上令は大樹のことを心のそこから信頼しきっている。そこに今まですがり付いてきた存在の喪失、そうなれば、間違いなく令は大樹に向かうだろう。
それだけは、避けなければならない。
ドアノブを引っつかんで、回――――
「あいにくだが、明」
背後から、宣言するかのように。
「そのドアは、開かないわ」
女帝の声が、響いた。
瞬間、
世界が、変わった。