終部 エピローグ
※※※※※
それから、半年が経った。
※※※※※
最近、こんな光景を良く見かける。
私の家の隣、豪奢ともいえる和風建築の家の前、そこで誰かを待つ、長髪の美しい少女の姿。
どこか浮世離れした雰囲気を持ち、現実離れした大きさの家の前に立つその少女の姿は、はっきり言って物語だ。
いつもどおりの光景、いつもどおりの状況。パターンから言って、しばらくすると、待ち人が現れるのだ。
「お姉ちゃ〜ん!」
来た来た。
住宅街、私、小米姉さん、和風建築、それらの家が立ち並ぶ通りの端っこから、元気よくかけてくるその姿。私立中学の須玉学院の制服に身を包んだ、背中の中ほどまである髪と透き通るような白い肌を持つ、何処かのご令嬢のようなその姿。
あ〜あ〜、世間の一部が全力で喜びそうな言葉吐いちゃって…
私のため息を知らず、その少女はそのまま隣の家の門前でその少女を目に留めた人物に突撃し――
「おはよう! お姉ちゃん!」
抱きついた。
そしてそのまま人懐っこい子犬のようにすりすり。
抱きつかれた少女のほうもそのまま飼い主のように頭を撫で撫で。そのままにっこり微笑んで、
「梓、おはよう」
「うん! おはよう!」
………。
この半年間、最初の二週間以外ずっと繰り返されてきた風景だ。
ごろごろとじゃれつく中学生ぐらいの少女と、それを感受する私の友達。いつもだとこのまましばらく眺めておいて、ころあいを見て、私が出て行くのだ。
………そろそろ、かな。
時間的にはちょっと余裕があるけど、そろそろ動いたほうが都合のいい時間。それぐらいになると、私は隣家の前へ移動する。
「おはよう、桜守姉妹さん」
ひとまとめにした私の言葉に、くるっと良く似たふたつの顔がこちらへ向いて、
「あ、悠さん、おはようございます」
天真爛漫、といった表現があまりにもしっくり来る笑顔で答えたのは妹、桜守梓ちゃん。長期入院していたらしいけど、今はその頃の名残を抜けるような肌の色(正直、ちょっとうらやましい)ぐらいにしか残しておらず、元気そのものだ。
「おはようございます、悠さん。また見られてしまいましたね」
そして恥らうような微笑みを浮かべて答えるのは、その姉の桜守有希さんだ。同じく五月ごろに入院してたけど、今ではすっきり元気になって、たまたま隣の家に事情があって住み始めたところ、私と仲良くなったのだ。
で、隣の家に住み始めたその日から、あの光景が繰り返されるようになった、と。
確かに二人ともいまどき珍しい学問系の美少女で、それが二人じゃれあっているというのは目に優しい光景かもしれないけど、こんな往来で繰り返していると色々危ない。私のクラスの板橋くんなんて、一度はその光景を目撃したいとか何とか言って家の前で張り込んでいたことがある。姉さんに頼んで潰したけど。
ま、仲がいいのはいいことということで。
「今日も一緒に行く? 梓ちゃんも、途中まで」
「はい、いつも通り、ですね」
「うん」
移動を始めると、とたんに二人は大人しくなる。
場所を選ばないほど、子供ではない、というわけか。二人ともこの島の中ではかなりの難関校に通いながらもトップクラスの成績を保持しているというのはどういうことなのだろうか――――
………友達になってから長いけど、ちょっとへこむよね…
××××(身体的数値における外見)も、私よりいいし―――
なんとなく恨めしい気分になって、問題のその部分を見る。四ヶ月前に変更になった制服によって白日の下にさらされたその部分は大半の男子と一部の女子に衝撃を与え――ちなみに私もその一人であったのだが、以来有希を見る目が変わったのは言うまでもない。
………おねーさんだけならともかく、こっちにまで負けてるのは、へこむよね……………
「………? 悠さん、どうかしました?」
「ううん……なんでもない」
有希の一方後ろを歩く梓ちゃん、そのきょとんとした目にさらされる。
と、その時それに気づいた。
「有希? また、作った?」
え? と私より少し前を歩いていた有希が振り向き、
「………ああ、小瓶、ですか」
すぐに合点が言ったらしい。胸元に手をやって、そこにある鎖を引きずり出し、胸元から私の示すそれを引きずり出す。
四種類四色の花びらが入った、小瓶。それは四季の小瓶という何時の間にやら流行が島全体に広がっていた、大樹のお守り。
「はい。前に使っていた小瓶が、古びてしまいましたので」
「へえ……また特別製?」
「ええ。こっちのほうが、長く使えますので」
「そういえば、前にもらった奴も枯れてなかったね」
夏休みごろ、有希からもらった小瓶を胸元から引っ張り出す。
薄紅、深蒼、茜、純白。四色の花びらと、それに加えて入っているのは『銀の砂』。花びらの下に敷かれるように広がっているそれは、金属でも無機物でもない、微妙な温かみさえ持っている牛議な砂。
いつもなら二週間ほどで枯れてしまう小瓶の中の花びらも、この砂の上ではまったくの劣化を見せない。現にもらったのは八月で、今はもう十一月。だけど花びらはまだ瑞々しいし、色も鮮やかなまま。
確かに、こっちのほうが四季の小瓶としてはいいんだけど……
「…でも、多すぎるんじゃない?」
有希の首から下がった鎖にぶら下がる小瓶の数は、片手の指では数え切れないだろう。それに中身も、砂が容積のほとんどを占めてるし花びらが押しつぶされてるしで四季の小瓶というよりも砂の小瓶といったほうがいい感じのやつばっかり。
有希は少し、悲しげな表情を見せた。
………まただ。
いつも、小瓶の中身の砂のことになると、有希はこういう風に悲しそうな顔を見せる。
別に露骨に泣きそうになってるとか、泣き崩れる寸前になってるとか、そういうわけじゃないんだけど、なんと言うか、捨てられた子猫みたいな顔になる。
「……いいんですよ」
小瓶を握り締め、
「……これは、大事なものなんですから」
「……………そっか」
そしていつも、私はこれだけしか言えなくなる。
島の西側にある大通りで梓ちゃんと別れて、二人で学校に向う。
教室に到着したのは、始業までまだ十分ほどの余裕のある時間だった。
いつも通り、私は有希と顔を突き合わせて課題の答え合わせなどをやる。隣に住んでいるのに、何故かこういうところは一緒にやらないのが常なのだ。
「あれ? ここって四分の三じゃないの? 解き方、違う?」
「いえ、解き方自体はあってるんですけど、孤度法に直すときに失敗しています。ほら、180度が一πなので……」
「あ、なるほど……」
とまあ、こんな感じ。
うっかりミスが多い私としては、とてつもなく助かっている所存であります。
そのまま始業し、授業中はそこそこまじめに、そこそこ不真面目に、それこそ私の幼馴染と同じようなスタイルで授業を受ける。
あの抜けているようでかなり要領のいい、やさしいくせに自分がそうである自覚がまるでない、頭は良いのに成績が悪い、腐れ縁の幼馴染。
そして、いつの間にかいきなりいなくなっていた人物。
そう、あれは初夏のある日。
彼は、いきなり失踪した。
学校側にも、姉さんのところにも、もちろん私のところにさえ一切の連絡をよこさず、書置きの一枚すらなしに、文字通り忽然と、姿を消した。
本当に、驚いた。登校してみればあいつの席が空席で、遅れてくるのかと思えばぜんぜん来ないし、心配になってたずねてみれば、その家には誰もいない。メモもなく、門にも玄関にも鍵はかかっておらず、生活観のまるでない家とあいまって、文字通り、存在が消失してしまったかのような、感覚だった。
おじいちゃんも、何も知らないらしい。あいつの失踪を伝えたときは、訳知り顔でうなずいて、即座に休学扱いにはしてくれたけど、あいつの場所を知ってるとか、理由を知っているとか、そういうわけじゃないらしい。
だから、私は泣いた。
私にとって大事な友人で、心の寄る辺。それがいきなり、なくなったんだから。
それから、二週間ぐらいあとだっただろうか。
有希が、その家に住み始めたのは。
きっかけはごく単純。隣の家の二階にある私の部屋から隣を見下ろしてみると、部屋に明かりが見えたのだ。
もしかしたら、あいつが帰ってきたのかもしれない。
そう考えて、隣の家へたずねていったのだ。
………まさか有希が出てくるなんて、思わなかったけどね。
あいつが帰ってきたと思って突撃していったらまさか本格派大和撫子が出てくるなんて、本気で腰が抜けるかと思った。
しかも話を聞いてみれば、有希はどうもあいつと彼氏彼女の関係であったらしい(本人は否定しているが、そうとしか思えない)。
そして、あいつが帰ってくるまで、あの家を管理してやりたいのだと。
まるで夫婦だ、と素直に思わせていただきました、はい。
見ての通りあれほど妹さんとも仲が良いのに、それからも分かれて、だ。
なんというか、恋愛感情以上の何かを感じる。
………けど、けなげだよね……
何時帰るかもわからない、帰ってくる気があるのかさえもわからない恋人を、延々と待ち続ける。
もう半年に、なるのに……
しかし、なんとなく思う。
あいつは、きっと帰ってくるだろう、と。
それまで、私はきっと期待し続ける。
あいつの、帰還を。
だけど、なぜだろうか。
今日はその期待が、かないそうな気がする。
※※※※※
「……ああ、やっと見つけたわ」
どれだけの日数、俺は、ここにいるのだろうか。
感覚は途絶えて久しく、意識はここへきて久しい。
時間を計る術のない現状、どれほどのときが経ったのか俺に知る術はなく、ただ大樹の中、意識だけの存在となって外へ出るため、あがき続ける。
試すべきことは、色々試した。
一度全てを試してだめだったら、もう一度アレンジを加え、繰り返した。
もう一度、もう一度。
そういった繰り返しを幾多積み重ねても、俺はまだ帰ることが出来なかった。
………だけど、
俺は、帰らなければならない。
ここから出て、そして令の、有希の元へ、戻らなければならない。
だが、成果は一向に上がらず――――
俺は、無の中にたゆたうままだった。
ここには、何もない。あるのはただの力と、意思と、そして願い。それ以外のものはこの中に一切存在せず、そしてそれらに対して干渉することも出来ないのだ。
だからこそ、だと思う。
俺にいきなり語りかけてきたその声が、俺の良く知る人物の声を数段丸くしたような声であったことが、あまりにも自然に思えたのは。
この人物ならここに干渉することぐらいはやってのけるであろうという、意味のわからない確信めいたものを抱いていたからだろう。
俺はその意識に、特に動揺することもなく答えていた。
「……あんまり、驚いてはくれないようね」
当たり前だ。あれだけ小米姉さんと一緒にどんぱちやってて、いまさら驚くかよ。
「あら? 知ってたの?」
いや。気づいたのはいまだ。戦闘中の小米姉さんの口調、混ざってたし。
「あらあら―――私もうかつね。うっかり小米じゃなくて、自分の口調で話しちゃうなんて」
それにメインにしてた魔法も違う。小米姉さんなら、最初から近接戦だろうと思ってたからな。
「そうだっけ? 小米、結構マルチだから」
手合わせの時には大抵近接だぞ?
「使い方もつたなかったかも知れないわね……」
そうかもな……
「……………」
なあ、
「何?」
色々、聞きたいことがある。いいか?
「駄目なんて、言うと思う?」
まさか。お互い退屈なんだろ?
「ええ。その通り。でも、どうせ話すなら――――」
いつか襲った感覚が再びやってくる。ひどく懐かしいからだの感触、ひどく懐かしい『感触』という感触。それらが一挙に、戻ってくる。
そして俺は、ひどく懐かしい感覚とともにその足に地面を感じて……
「こういう風にお話したほうが、いいんじゃない?」
そこはいつかも対面した、大樹の広場。大樹のふもと、そこに広がる芝生の場所だけをくりぬいたような、夜明け前の風景。
ただし今回はその広場だけではなく、その真ん中あたりにティーセットの乗った白いテーブルがあり、それとセットになったやはり白い椅子も二脚、向かい合って置かれており、そしてそのうちの片方にはやはり――――
「………どうしたの?」
「…いや、」
俺はゆっくりとそのテーブルに歩み寄り、何の遠慮もなく椅子に座る。
「やっぱり、小米姉さんそっくりなんだ、って思って」
テーブルに頬杖を着き、片手で目の前に置かれたカップをスプーンでくるくる回し、悠然と微笑むその姿は、紛れもない俺の姉のような存在、御涯小米の姿そのものであった。
ただ違うところといえば、その服装が小米姉さんでは絶対に着ないような、黒いゴシックなドレスになっているだけ。
そして、その雰囲気がいくらか柔らかなものになっていることも。
それ以外は、完璧に同じ。
「まあね………小米は、私のお気に入りだから」
「お気に入り?」
その少女、『魔女』の指運ひとつでポットが中に浮き上がり、俺の前のカップに紅茶を注いでいく。特に拒む理由もなかったので俺はそれに素直に口をつけ、
「…お気に入り?」
「ええ。もっとも、どうしてなのかを説明しようとすると、いささか以上に長い時間がかかるんだけど……」
「かまわない」
どうせ時間があるのは、お互い様なんだ。
「……なら、いいわ。話してあげる」
食べる? と俺の前に差し出されたのはスコーンが満載されたバスケット。ああ、と受け取ってひとつ食べる。
考え込むように、魔女は上を見上げながらスコーンを一個、口の中に放り込んだ。
「そうね………じゃあ、私の望みから話しましょうか」
紅茶こくこく。
「明も、知ってるわよね? 私がどんな望みを抱いていたか」
「ああ。確か、孤独からの脱却って――――」
ええ、と魔女はソーサーに紅茶を戻し、言う。
「まだ説明してなかったけど、私って『不老不死』なの。信じがたいけど、これ、本当の話ね」
「……………」
無言で、俺は紅茶を口に運ぶ。
「小米と私、そっくりでしょう? 私が不死になったのも、今の小米と同じぐらいの年のことで、ね。若気の至りで、色々やっちゃって、こうなったわけ」
まいったわ、と軽い口調で語る魔女。
が、そこにあるものは、軽くはないはずだ。
「明は、八尾比丘尼の話を知ってる? 人魚の肉を食べちゃった尼の話」
「ああ、知ってる。確か、周りが死んでいくのに耐えかねて、尼になったんだよな?」
そうよ、とうなずく魔女。
「私の場合も、それと似たような感じ。周りの奴が全員死んでいくのに、自分は健やかで若いまま。家族も友達も、全員死んでいくのに、何時までも私は生き続ける………」
それはまさに、八尾比丘尼の孤独。
不死という時間から外れた存在であるが為に強要される、愛しき人の死。
「まあ、家族や友人が死んだのはまだ不死になってそれほど経ってないころだったし、まだそれほどつらくはなかったわ。だからこそ、不死になっても最初のほうはそれほどつらくなかったんだけどね」
「………であったのか? 俺でいうところの、有希に」
きょとん、とした表情で魔女は俺を見つめる。
一拍の後、魔女の顔に納得の色が広がって、
「鋭いじゃない。そういうことよ。不死になってから、数百年もたったある日に、私にも有希ちゃんみたいな人が出来て――――全部を受け入れてもらえて、幸せになったわ」
想像する。魔女が抱いていた終わりなき孤独。そこから拾い上げてくれた人物のことを。
それはまるで、一昔前の俺と有希を見ているようで………
「結婚して――子供も出来て……子供も立派になって………全部がうまく行っていたころだったわ。
だけどね、その幸せも、壊れたの」
「………死んだのか?」
いいえ、と魔女は首を振る。スコーンを一口。
「殺されたのよ。あの人も、子供も、もちろん私も」
「!」
「ひどかったわ。不死の体になって殺されかけることはあったけど、殺されることはなかったから。だけど、それでもやっぱり私は不死で………結果、私は、殺されても、死ななかった」
はあ、と小さく魔女がため息をつく。
「また、私は孤独になった。前よりもずっと辛い、孤独にね」
ぬくもりを知ってしまったからこそ、寒さが余計に身にしみる。
ぬくもりを知らなかったからこそ、寒さに今まで耐えられた。
その条件が崩れれば、今まで耐えてこられた孤独にさえも――耐え切れなくなる。
「……辛かったわ、本当に。何度か死にたくなって、自殺したこともあるけど――――それでも死なないんだもの。自分が死ねないってことを、これ以上嘆いたことはないわ」
不死ということは、死なずに済むということではない。
不死とはすなわち、死ねなくなるということ。
死と言う解放が永久に訪れなくなり、生きるという苦しみの中を永遠にさまようということ。
苦しみ、傷つき、痛みにまみれ、その末にやってくる救済がない。それはまさに、生き地獄と呼ぶにふさわしくは、ないだろうか。
「だから、私は願ったの。あの人と、もう一度生きることを」
「それが小米姉さんと、何の関係が――――」
「あるわ」
ゆったりと、魔女は微笑みをうかべる。
「願いをかなえるには、それ相応の存在が必要となる。私は世界一の魔術師であり、魔法使いであり、力持ちよ。だけど、それをもってしたところで世界のルールの根底を覆すことは不可能。だからこそ、私はそれを可能にするものに、干渉することにした」
「…何なんだ、それ?」
やや温度の下がった紅茶に、口をつけつつ問いかける。
楽しげに魔女は紅茶を自分のカップに注ぎなおすと、少し身を乗り出して、
「『もしもあの時、ああだったら』って、思ったことはない?」
「………それは、」
誰でも、一度はあるだろう。もしあの時寝坊しなければ、送れずに済んだ。もしあのときに使い込まなければ、今はまだ余裕があった。もしあのときにあの矢が当たっていれば、今は優勝していた。
そんなかなうはずがないと知っている、未来のもう一本の道行きを願う、思い。
「もしも八ヶ月前に鷺ちゃんが死んでいなければ、あなたは有希ちゃんに出会わなかった。もし有希ちゃんとであったときにあなたが言葉をかけなければ、二人が友になることもなかった。もしもあの時名を聞かなければ、二人の関係はそこで途切れていた。
もしも、もしも、もしも――――
現実は、色々な『もしも』に、可能性にあふれている。
私が干渉したのは、その可能性。
例えばAという人物がいる。このAという人物には何人もの女性が思いを寄せていて、その全員がAという人物と結ばれる可能性を持っている。
この場合、『Aという人物と結婚する人間』の可能性は、その女性の数だけ存在している。本当はもっとあるんだけど、あくまでたとえだから、こうしておくわね。
で、AがBという女性を選んだ。と、すると、残りの女性たちは選ばれなかった、ってことになるわけ。つまり、可能性が一本に集約される、と。猫の話で、似たようなのがあったわよね、確か」
シュレリンガーの猫。
致死の罠が仕掛けられた箱の中に猫を入れ、その生死を可能性にゆだねて地に埋める。そうした結果、猫の生死は確立に飲みゆだねられ、あけたときに初めて、猫の生死の可能性は一本に集約される。
つまり、そういう話だ。
魔女はゆったりと微笑んだまま、紅茶に砂糖を一杯、落とし込んだ。
「人と人とが結ばれると、子供が出来る。子供はさらに可能性を連ねて、さらに多くの子を残す。このサイクルを続けて、人は己から可能性を広げていく。
だけど、どれだけその樹形図が広がったところで、選ばれるのは一本しかない。
だったら、こうは思わない?」
くるくると、紅茶をかき回しながら、魔女は確信を口にした。
「もし、一人から生じる全ての可能性の先端を、同じ場所にもってくることが出来れば、
そこには、自分の望むものが含まれているんじゃないか、ってね」
そう、それは籤引きに当選するために、くじ全てを買い集めるようなもの。いくつ存在するのかもわからない大量のはずれくじ、その中からあたりをひとつだけ引き当てるのは、相当の運がなければ出来ないことだ。
だがもし、自分が全てのくじを入手していたら? 全てのあたりと全てのはずれを、全て同時に所有していたら?
その膨大な数の中に、必ずあたりは、存在しているということになるだろう。
「………なるほど。そういうことか」
そして魔女は、全てのくじを、入手することにしたのだ。
自分の愛しい人、それと自分が同時に存在していることを、夢見て。
「ええ。私は、可能性に干渉することにしたの。そして、私はそのための場所を用意した。それが、これ」
指し示したのは、俺たちの横。俺たちのやり取りの全てを見下ろす、荘厳なる大樹。
「大樹、ひいては、白樺島という島全て。
そこが、私の用意した舞台。
私というただ一人の人物の願いをかなえるためにゼロから私が作り出した、『私という個人から生じる全ての可能性の先端たる人物が住まう、願いに囲われた楽園』。
それこそが、私の用意した舞台よ」
砂糖の良く混ざった紅茶を見、満足げに微笑んでから、魔女はその紅茶に口をつけた。
「………あんたが――作った?」
「ええ。大樹が少し、難しかったわ。
大樹はね、ただこの島という土に根を下ろしているわけじゃないの。可能性をめちゃくちゃにするという役目を負った、白樺島そのものを支える一本の大樹。それが根を張るのはね、世界そのものなの。
まあ、あれに生じた願いをかなえる機構は副産物で、あれは望まれた形に可能性をいじる装置だから、ちょっと方向性を与えてあげれば望まれたとおりの可能性をもたらしてくれるの。
花がめちゃくちゃなのも、そのせいね。私が白樺をベースに作ったんだけど、花は何でも咲くし何でも咲かないような曖昧な風に改造したら、ああなっちゃって……」
でも面白いでしょう? と、魔女は笑った。
「――――話がそれたわね。
小米はね、私の望みの形に一番近い子なの。
あの子は、私とあの人の間に生まれた子。
あれ以上先に続いていない、だけど可能性の先端に位置するが為に生まれてくれた、私のかわいい子供」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 可能性の先端ってことは、この島の住人ってもしかして全員――――」
「ええ。そうよ。
この島の住人は、全員多かれ少なかれ私の血を持った私の子。
もしかしたら、私の生んだ子供のあとに続いてくれていたかもしれない、そんな特別な子供たち……」
こともなげに、魔女はうなずいた。
「と言っても、この島にもともと住んでいた人たちだけで、今はもう私も管理してないから、その中で新たな可能性を持った子供たちも生まれてるけど………」
「………と、いうことは、俺も、有希も…」
「ええ。あなたも有希ちゃんも、正真正銘立派な私という存在から始まった、私の子よ。もっとも、あの子の妹さん――梓ちゃん、だっけ? それとあなたは『種子』って言う、ちょっと特別な子なんだけど………」
「『種子』?」
そういえば、何度か小米姉さんが言っていた気がする。が、それが何を意味するものなのか、どういう存在のことなのかまでは気にする余裕もなかった。
「島全体に大樹の力を及ばせるための、言ってみればアンテナみたいな役割ね。生まれたときに、私が精神にちょっとした種みたいなのを植え付けるからこう呼んでるんだけど」
そこで少し、俺は考える。俺にあった違和感、その後生じた認識の大幅な変異、その全てを統合して――――
「『種子』は…もしかして大樹で捻じ曲げた現実の認識に気づけるのか?」
にこり、と柔らかな笑み。
「ええ。生まれたときから大樹の力を内側で仲介してるわけだから、ふとした拍子に大樹が何処に力を与えているのかがわかったり、曲げている認識が正しく認識できちゃったりするの。他にも、大樹の力の影響で、魔法が使えるようになったり、とかね」
俺が前者、梓が後者のパターンか。なるほど、大樹にすんなり同調できたり、何故か魔法が使えたりするわけだ。
「けど、あなたも無茶したわね。同調して大樹の中に取り込まれた魔法使いの命から力だけを取って、大樹にぶつける、なんて」
「ああ、俺も無茶だったとは思うよ。こうなったっていうのも、しょうがない」
カップに残っていた紅茶を飲み干す。
すると魔女がすぐに俺のカップに紅茶をそそ――――
がない。
「……気になる? 二人が、どうしてるか」
笑みを含んだ目のまま、俺をじっと見つめる。
なんとなしに居心地の悪さを感じながら、俺は、
「……もちろん。だから今までがんばってたわけで…」
「叶えて、あげましょうか?」
今度は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「もちろん、ただじゃないけどね」
どうする? と、魔女は言う。
答えは、きまっていた。
「俺に払える代償なら、喜んで払う」
そういって、俺は席を立った。
今まで、どれだけの年月が経ったのかは知らない。
だが、その間も、ずっと有希は待っている。
あの声が届いたのかどうかはわからない、だからあそこにいるのかどうかもわからない。だが、何処にいるにしろ、有希はきっと、俺を待っている。
「待ち人を、迎えに行く。だから、俺は帰りたい。心のそこから、そう思ってる」
その返答に、魔女は満足したのか。
今までに見た笑みの中でもっとも無邪気な笑みを浮かべ……
「そう」
いって、魔女も席を立ち、
「じゃあ、代償を伝えます」
テーブルを回り込んで、俺の隣まで移動し、
「その代償って言うのは、二つ」
そして俺ときっちり、目を合わせた。
「ひとつは、ちゃんと有希ちゃんを幸せにしてあげること。そして、二つ目は………」
にっこりと、また笑みを浮かべて、魔女は言った。
「二人の子供が生まれたら、まっさきに小米に抱かせてあげること。いい?」
………なんだ。
そんなもの、代償ですらない。
全部、当たり前のことじゃないか。
あるいは、これも魔女の祝福なのかもしれない。
そう思った俺は、魔女に向って一度うなずき、
「わかった」
そして軽く、微笑んだ。
「だから、俺を帰してくれ」
「……もちろん」
笑みに答え、魔女は俺に手を差し伸べる。
そしてその手から包み込むように、俺の体を覆う何かがあふれて、あたりの風景がぼやけて、そしてそのまま全身が一瞬浮遊感に包まれ………
※※※※※
「……有希―砂糖の分量ってこのぐらい?」
「ええ。もう少しあってもかまいませんが、今日は少し控えめにお願いします」
「お姉ちゃん、きゅうりはどうするの?」
「塩で揉んで、上からお酢をちょっとかけてあげて」
夕食時、彼の家はにぎやかになる。
お友達の悠さんと、妹の梓。三人そろっての夕食が多くなるからだ。悠さんは自分の家でおじいちゃんと食べることが多いらしいけど、最近は留守にすることが多く、うちで食べていくことが多いみたい。梓も、お母さんが最近家を空けることが多いから、よくこっちに来ている。
各言う私も、にぎやかなのは嫌いではない。もともと私はさびしがりやな方だし、それに一人で住むには、この家は少々広すぎる。
………だけど、
この家から離れていこうとは、思ったことはなかった。
彼の留守中、この家を管理するのは私が頼まれた、大事な仕事。彼があんなふうになって崩れる寸前、私に託した大事なこと。
それを守り続けることが、私の出来る唯一の恩返し。
だけど、
………逢いたい。
そう思うと、止まらなくなる。
彼に会いたい、会ってあの一週間のように一緒に暮らしたい、幸せをかみ締めたい。
そういう思いが止まらなくなって、夜には、時折泣きそうになる。
梓にも、辛い思いをさせてしまっているかもしれない。退院して、ようやく私と暮らせるかと思ったら、相変わらず別居中。母は私の一人暮らしを快く承諾してくれたけど、梓にはちょっと――酷だったかもしれない。
けれど、最近は母も心配する必要がないことがわかってきたのか、そろそろ向こうに戻って仕事をする日が増えてきた。近いうちに、梓も完全にこっちへ移り住むかもしれない。
………そうなっても、きっと。
彼は、快諾してくれるだろう。
そんな確信が、そこにはあった。なんだかんだ言っても、彼は優しいのだ。それぐらいでとやかく言えるわけはないだろう。
………そういえば、
この家も、ずいぶん物が増えた。
もともと食器や調理器具はそれなりにそろっていた。けれどそれは二人分しかなくて、最低限の機能を果たしていればいいという考えの下から購入したのか、色もデザインも素気ない物ばかりだった。
けれどこの家で色々やるにつれて、必要なものやそうでない物、趣味の物や、なんとなく買った物などもどんどん増えていて、いつの間にか普通に四人で食事できるぐらいの食器はそろっていた。
食器ばかりではない。飾りもそっけなかった家の廊下には、ところどころに雰囲気にあった飾り物を配置したし、それに寝室として使われる部屋も増えたので、その中に放置される私物も増えてきた。
彼が一人で住んでいたころよりは、ずいぶんとにぎやかになったと思う。
だけど、その彼はまだ帰ってこない。
「有希、分量は――やっぱりいつも通り?」
おっと、少しぼんやりしていたらしい。
「はい、四人分、お願いします」
「四人分、ねえ……ほんとに健気な奥さん」
奥さん。
その単語に、つい顔が赤面してしまう。がm実際そういわれても無理がない状況なので、強くいえないのも事実だ。
この家に住み始めてからの、日課。
料理は常に、人数分よりも一人分多く作る。
何時彼が帰ってきても、いいように。
だけどそれが今まで必要になったことはない。いつも、私の次の日の朝食になる。
しかし、今日はなんとなく。本当になんとなくだけど、この料理が私の口に入ることがないような気がしてきた。
………勘違い、かな?
それでも、うれしい。
予感の中であっても、彼に会えたんだから。
と、その時。
―――― プルルルルルル プルルルルルルル ――――
台所に据え付けられている、インターホンがけたたましい音を立てた。
何故か全員が一斉に注目し、台所が無言になる。
インターホンに出るのは、いつも私の役目だ。
注目されている居心地の悪さを感じながら、味噌汁の火を止めて菜ばしを置き、インターホンに出る。
「はい、巫女ヶ浜ですが……」
『よう、その声は――――有希か。今日まで管理、ご苦労さん』
え?
思考が、一瞬にして停止した。
呼んでほしかった声、そばにいてほしかった人。
それが今、このインターホンの向こうにいてくれている。
その、実感。
「………め、い……?」
『さあ、誰でしょう?』
少し面白がるような、声。
だけど、私はまず起こるより前に泣きそうになっていた。
間違いない。彼ならきっと、ここでまじめに答えるよりも、こういう風にからかって、そして実際にあったときに、何か言うはずだ。
「――――――っ!」
インターホンをたたききり、エプロン姿のまま台所から駆け出す。
「あ、ちょっと有希! 今のって、やっぱり――――」
「お姉ちゃん! お兄ちゃんだったの?」
後ろから二人が何かを叫んでくるが、今は答えている余裕がない。そのまま転倒しそうになるほどの勢いで、私は廊下を駆け抜ける。
長かった。
半年は、長すぎた。
一日とて離れていたくない人物。その人が、半年も、遠いところに居た。
それは今から考えてみると、あの孤独だった夜の日々よりも長くて、そして、さびしかった。
だけど、それももう終わってくれる。
会いたい人が、ここに来てくれている。
最初にかける言葉は、もう決まった。彼ならきっと、何を言うより最初にああいうだろうし、ならば私はこういうべきなのだ。
玄関、その向こうにともった明かりの中に、人影が見える。私が通う学校と同じ制服に身を包んだ、一人の男性の姿。
そして私は鍵を開け放って………
「ただいま」
彼の言葉に、私は。
「………お帰りなさい」
その人間の帰還を、心から祝福する言葉。
それを持って、その人を、迎えた。