第十部 雨鏡 令
※※※※※
それから、一週間が経った。
その間は令が俺の家に泊り込むことになったこと、俺の長期欠席を心配して家に押しかけてきた悠と令が出くわしてちょっとした騒ぎになったこと、異性と同居しているという環境からいくつかのトラブルが生じたことなどを除外すれば、これといって何もない平和なものだった。小米姉さんの盗聴を警戒して普段娯楽用の部屋として使っているほうの自室には寄り付かないように言い含めていたし、そのせいなのかどうかは知らないが、小米姉さんがアクションを起こしてくることもなかった。
そうする必要がないと、もう知っているという、それだけの理由かもしれないが。
まあとにかく、あれだけ大きなことがあったにもかかわらず、俺が大怪我と呼ぶに差し支えない怪我を負った以外の一切のことが怒らず、気がつけば一週間という時間が経過していたというわけだ。
そして、妙な胸騒ぎがあったのも。
この日、だった。
「………………………」
内側で、何かが外を目指してうごめいている。
そんな奇妙な胸騒ぎを覚えながら、俺は布団から身を起こした。
目に入るのはこの一週間世話になりどおしとなっている部屋。その部屋にしたところで最初の文机しか存在しなかったときに比べると物が増えている。具体的にはスポーツバックが二つと布団が一組、それと他の部屋に置きっぱなしにしていた硝子テーブルが一つといったところか。言うまでもなく、令がこの部屋に持ち込んだものである。隣で寝てたからな、あいつ。
「……………………」
違和感の最も強い部分、平たく言えば胸部を押さえつつ、時計に目をやる。
七時四十四分。
俺の日常に照らし合わせても、遅い部類に入る目覚めである。もっともそれは、普段俺の必要とする朝食を自らの手で作っているためであり、ここ最近は家事全般を令が担ってくれているのでまったく問題は生じないわけだ。
………時間的に、登校、できるよな……………
布団から半身を起こした姿勢のまま、自分の傷の具合を確認する。
胴体のほうに問題は、特にない。触れれば痛むし全力でアクロバットすれば開いてもおかしくないが六割がた傷は治っているようだし、それに身を起こせたことからも日常生活に弊害がいないことがわかる。
けど、左肩は………
日常生活に弊害はないだろう。問題なく動くし、ちゃんと力も入る。が、この目盛りの入った肩で果たして一週間前のような大立ち回りがやらかせるのやら…………
ま、大丈夫だろ。
布団から跳ね起きるようにして身を起こす。
さあ、まずは飯だ。久々に登校するとなると朝食は必須、しかも悠がやかましく追求してくる事は必定だから、体力をつける意味でも食っておくべきだろう。
令は……もう登校済みか。
ならしょうがない、自分で作るか。そう思って寝癖頭を掻き回しつつ部屋の外へ………
出ようとしたところで、硝子テーブルの上にいろいろ置かれていることに気づいた。
「……お?」
厚焼き玉子、紅鮭、漬物の小鉢。脇に置かれている小鍋の中身は味噌汁だろうか。典型的、かつ定例どおりの、我が家の朝食である。ご丁寧なことに俺愛用の漆塗りの箸が、箸置きの上に並べておいてあった。
脇にはメモ。
手にとって見る。
『おはようございます。
少し用があるので、早めに登校します。
朝食はそれほど冷めていないと思いますので、そのままでどうぞ。小鍋の中はおじやです。
登校するのでしたら、制服は机の下にあります。学校でお会いしましょう。
雨鏡 令』
「……………新妻か、あいつは」
文面の登校を『出社』に変えても普通に違和感のない文章に仕上がってしまう。板橋あたりにばれたらわけのわからない自分勝手、かつ妄想たっぷりな邪推の末にクラスのモサドも似捉えられた挙句、魔女裁判だ。
とりあえず制服に着替えてから飯にしよう。
そう思い立って、硝子テーブルの下に手を突っ込んで、そこにある厚手の布の感触を引きずり出し……って、ちょっと重くないか? 何かが上に乗ってるような――――
「………………」
乗ってました。
それはもう、立派な弁当箱が、メモ紙つきで。
『昼食にどうぞ』
……だとさ。
「……ますます新妻か、あいつ」
ま、ありがたくいただくけど。
考えてみたら、この一週間完全に擬似夫婦やってたような気がする。俺は普段働いてるけど、事故だか病気だかで働けなくなってる亭主、で、令がそれを支える奥さん。
げ、思ったらますますしっくりきた。
まずおきたら隣で『おはようございます』、動けるようになってからはそのまま布団を畳んで、令が運んでくる朝食を『味付けはどうでしょう? 今日はいつもと少し変えてみたんですが……』などとやり取りしつついただいて、令が登校するときには『では行ってきます。今日は早く帰れそうですから、帰ったら鍋物でもどうでしょう?』『お、それいいな。いってらっしゃい』、で実際帰ってきたら夕食作りやってる令の後ろで手伝ったり手伝わなかったりしながら夕食の完成を待って、出来たら二人で夕食を囲む。やっぱりそこでのやり取りは『初挑戦だったんですけど、いかがですか……?』『いや、普通に旨いよ』で、その後は入浴。やり取りは皆無だ。互いに入ってるときに風呂場に接近しないというルールがある。その後は大抵俺の寝室で令が課題やったり読書やったり、俺も読書やったり魔法の練習やってみたりで、たまに令と話したり。でもっていい時間になってくると再び二人で布団を敷きなおして、『おやすみ』『おやすみなさい』で、夢の中。
うっわー……マジで夫婦みてぇ……
まあ、恥ずかしかったりはするけど後悔はしてない。
自らの命が尽きるまで、俺の傍にいること。
可能な限り長い時間、令の傍にいること。
それが、俺たちの望みだ。
願わくば、それが一生涯続かんことを………ってか。
「…………わかってる」
それが、叶わない願望であることぐらい。
あの大樹の力をもってしても成せない、不可能な望みであることぐらい。
そんなこと、とっくにわかってる………
わかってるよ、本当に………
言い聞かせるように内心でつぶやき、言い切れない感情を押し殺すため、俺は制服に手を伸ばした。
内心に存在する違和感は、いつの間にかなくなっていた。
「…………行ってくる」
無人になった家、正し今は俺ひとりの居住地ではなくなった家に向かって一言言い置いてから、門を出る。
朝の、住宅街。
島の人間のほとんどが住んでいるこの住宅地の中には、当然ながらも学生が数多く住んでおり、朝、それも登校時間ともなればその道は学生を目にする事は珍しくない。まあ、もっぱら今の時間目にするのは同じ高校でも普通公立の赤樫高の連中か白樺中学の奴らで、俺の通う時瀬大付属の生徒の姿ははっきり言って希少だ。それに制服も独特なので、ぽつぽつ見かけるその姿も、他の高校中学の制服の中から浮いてしまって逆に少なく見えるのである。
まあ、はっきり言ってしまえば今の時間帯の住宅地でも、時瀬大付属の制服は目立つということだ。
それが家の門にもたれて何者かの来訪を待ちわびる幼馴染の姿となれば、なおさらである。
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
………なんだろう。
誰を待っていたのかも、何で待っていたのかも、どういう感情が今悠を支配しているのかも明白なのに、どういうわけか声をかける気が起きない。
いや、声をかけたほうがいいというのはわかる。うん、それはもう、これ以上ないほど明確に。鞄は体の前、両手で握り締められているけど、その取っ手が尋常じゃない力で握り締められていて手に食い込んでるし、うつむいた表情もはっきり言って悲壮の一字だし、どことなく足も震えてるし………こう、完全に自分の世界を構築しちゃってる感がひしひしと。
………もしもしおぜうさん。愛しき人がお亡くなりにでもなりましたか?
そう問いかけることがぜんぜん不自然に思えないほどの悲壮感を全身から放出している、わが幼馴染の姿がそこにあった。
「……………」
声をかけることをためらって、ためらって、ためらって、ためらって、ためらって、ためらって――――で結局無視していくことにした。
いや、だって向こうはこっちに気づいてないみたいだし、それにこっちも声かけにくいし、いやいや声かけるべきだって言うのはこれ以上内ほどよくわかるんですけど、こんな状況の悠に声かけるよりは学校で発見されて恨みがましい状態になった悠と会話するほうがまだ楽というか、そんな感じなわけでして……
要するに、今この場からは逃走したい。
そういう自分勝手な理屈の元に悠から目線をそらして、とそのとき。
くるっと、何の前触れもなしに悠の首が稼動する。ずっと見つめる視線を感じたのか、それとも自分がもたれているものから伝わった振動にようやく気づいたのかは知らない。が、とにかく悠は左、つまり俺の家の門のある方向であり、なおかつ俺の昼方向へとその首を向け…………
あ、目が合った。
「………………」
「………………」
「………………」
「…………………よう」
こっちを発見して完全に脳内が白紙になっている感じの悠にとりあえず言ってみる。すると悠もほうけた表情のまま、俺がいたことを認識して、
「…………おはよう、明――」
と挨拶。
ふう、とりあえず嵐は回避でき――
「って、そうじゃないでしょ!」
た、わけでは、なさそうだった。
まさに肩を怒らせて、という表現がしっくりくる様子で悠が俺に迫る。
「まったく! せっかく起こして上げたのになんだかボーっとしている間にいなくなっちゃって、何があったか気になって次の日に言ってみれば大怪我で欠席? 私がどれだけ心配したか、わかってるの!」
ああ、なんとなく既視感……入院中にも似たようなことやられたような気がする。
「それで心配して行ってみれば七星さんが出てきて『私が看病していますから心配要りません』? 一体二人で何してたの!」
「落ち着け、悠。それとこれとは関係――――」
「ないわけないでしょ! 私に教えられなくて、七星さんに教えられる理由って何!」
「だからそれは………」
まずい完全に頭に血が上ってる。このまま会話を続けても埒が明かない。
「………とりあえず歩きながら話す。いくぞ」
言って悠に背を向けて、学校のほうへと歩き出す。
「! ちょっと、まだ話の途中!」
と、後ろで声がして俺の左肩に手が置かれて、
「ぐあっ………」
瞬間、左肩から思わずその場にしゃがみこむほどの激痛が全身へと駆け巡った。
一瞬視界が白く染まってしまうほどの激痛。そこから俺は、今の左肩に日常生活における負担をかけることがどれだけ無謀なことなのかを思い知らされた。
「………完治、してなかったの……?」
恐る恐る、といった様子で横にしゃがみこんだ悠。表情は先ほどまでの叱責のものとは打って変わった、心配のそれである。
「あいにくながら………」
左肩を軽く抑え、立ち上がる。じくじくとした痛みの残滓のようなものが残っているが、悶絶するほどのものではない。
「うそ……一週間たってるのに、まだそんなにひどいの…?」
「まあな。けど左肩だし、どうにかなるだろ」
とりあえず、学校目指して移動を開始。悠もそれに続き、いつもどおりの登校風景となった。
「たしかにどうにかなるかもだけど、一体何やったら一週間も休むような大怪我するの…?」
先ほどまでの詰問口調とは完全に異なる、心底いたわるような口調だった。
悠は俺たちのこと知らないし、
さて、どう誤魔化したものか………
「病院で、ちょっとな」
「病院で?」
悠の表情が怪訝なものへと変動する。まあ確かに、病院の中で大怪我なんて滅多なことじゃあ起きないだろう。
だが、俺は続けた。
「そ、病院で。須藤総合病院の屋上、どうなってるか知ってるか?」
「須藤総合病院って、西側にあるあの?」
「そう、それだ」
と、言うかこの島に総合病院はひとつしかないだろう。しかもとびっきり立派なやつしか。視分不相応の生き見本だ。
え〜と、と悠は前置きし、
「………うろ覚えだけど、確か謎の大穴と無数の斬撃痕が残っていたって…おじいちゃんが……」
あ、やっぱりそういうことになってたのね。
「もしかして、それ?」
「そうだ。屋上でぼんやりしてたら、いきなり巻き込まれた」
「………何があったか、見てないの?」
今度は心配そうな目。まあ、『斧の時代』の後の屋上ははっきり言って廃墟のほうがまだまし、みたいな状況だったからその反応はおそらく正しい。
「見てない。見てたら証言してるよ」
警察機関も原因究明のために多少なりとも動いているだろう。徒労、お疲れ様。
「でも、どうして病院の屋上なんかにいたの? ミコ、確か七星さんに付いていったんだよね?」
「ああ。あいつの妹とも仲良かったからな、その縁でちょっと」
考え込むように、悠は口元に手をやった。
「と、言うことは病気なの? 七星さんの妹さん」
ふむ、話していいものか。俺の幼馴染とはいえ、令に取ってみれば赤の他人も同然の人物である。それに梓にとっても、話されて愉快なことではないだろう。
しかし、
「ああ………わりと、重いらしい」
大部分を暗に伏せて話すぐらいなら、問題ないだろう。
そう判断してちょっとだけ話してみると、案の定悠は暗い表情になり、
「………そっか。じゃあ、しょうがないよね」
ポツリ呟くように言い、軽く顔を伏せた。
まあ、わかってくれたならいいのだが………こう沈まれるとどうもやりにくい。ちょっと罪悪感沸くじゃないか。
「七星さんも、いろいろ大変なんだ……」
「みたいだな。結構しっかりしてるけど、いろいろ大変らしい」
「うん………って、あれ? じゃあミコ、仲のよかった七星さんの妹さんのことで行ったんだよね? ならどうして屋上になんていったの?」
「ああ、ちょっと令が医者から話聞く間の暇つぶしに行ったんだ。そしたらいきなり」
「なるほど――――」
納得していただけたらしい。これで変な誤解を抱くこともなさそう――――
「あれ? でもそれじゃあどうして七星さんがミコの家にいたの?」
「!」
しまった!
思わず表情に苦悶が走り、そしてそれを表に出してその瞬間に後悔、あわてて真顔に戻すがその時にはもう遅く、ほんの数瞬表に出たその表情を悠に見られてしまい………
「……………」
思い切り変な目で見られてしまった。
「…………………」
「…………………」
ちょっとした沈黙。
語る言葉が存在しないがための沈黙でも、そこにある感情がゼロであるために存在する沈黙でもない、ただの執行猶予として用意された、罪人の首を絞めるための時間として存在する沈黙。
真綿で首を絞めて、その隙間からコンクリートを流し込む間の、タイムラグ。
「………………」
「………………」
目を合わせちゃだめだ、目を合わせちゃだめだ。今の悠と目を合わせれば、石になる。そう、このまま目を合わせずに学校まで向かえばどうにか………
「…そういえば、そうだったよね。七星さん、人のことを名前で呼ぶような性格じゃないのにミコのこと名前で呼んでたし、妹さんとお知り合いになるってことはそれなりに距離が縮んだってことだし、それに看護するんだって、普通は親しい人がやることだよね。あの日に急変したって呼び出されたのなら、その時妹さんまだ厳しいはずだし…………」
見なくてもわかる。右斜め後方、そこに存在する気配。そこにあるのは紛れもなく人のものではない、鬼のもの。
振り向いては、ならない。
「そんな中でも来てくれるって結構親しいって事だよね少なくとも私よりは。私のところには怪我したって報告もなかったのに。行ってくれればすぐに飛んでいったのに」
だんだんダークな空気が膨れ上がってくる。それはもう現実の圧力となってびしびしと俺を戦慄させるほどの。まだ初夏なのに、シャツがじっとりと閉めるほどの冷や汗が滴る。
「…………ねえ、ミコ」
じっとりと、歩きながら。
俺の右肩に、手が置かれる。
「七星さんと、どういう関係なのかなぁ?」
いや、令とどういう関係なのかと聞かれればただの仲のいい友人、ということになるのだろうか? ここ最近の関係を加味してみると、どうも最近はその言葉でくくりきれるかどうか甚だ疑問な関係となってきた。うん、間違いなく、令は現状ただの友人という言葉では絶対にくくりきれない。断言しよう。
けどじゃあどんな関係かと聞かれれば答えに窮するのも事実だ。恋人、ではない。一週間ほど似たような感じに生活したのは事実だが、その間に浮ついた状況は特に生じていなかったし、それになし崩し的にそんな関係になることなどありえない。だからといって家族、というのは無理がある。血のつながりも姻戚関係もないし。そうだな、いうなれば………
「……『大事な人』、かな」
うわ、口に出してみるとめっちゃ照れる。何この羞恥攻め、勘弁してください。
その答えに、悠は不審げに目を細めた。
「ふ〜ん、七星さんが『大事な人』ね……どの程度の?」
うわ、また答えに困る問いかけを……
って、あれ?
「………………………」
思わず、愕然とした。
愕然としたまま、足が自然と止まる。
「………なあ、悠」
「何?」
不機嫌そうに言われた。が、そんなことどうでもいい。
「…さっきから言ってる、『七星』って人、誰?」
「…………誤魔化してるつもり?」
「誤魔化してるつもりはない。いいから答えろ。七星って、誰なんだ」
思わず語気が強まる。
それに気圧されたのか、悠が困惑した表情になり、
「七星、優実さん。ミコが一週間前に一緒に行っちゃった人で、一ヶ月前に板橋君に追っかけられてた間に私が知り合った人で、六日前にミコの家行ったら出てきた人………ミコも、仲良く話してたでしょ? お互いに『明』『優実』で呼び合いながら」
「……………」
間違いない。
悠の言う『七星優実』なる人物は俺の知る雨鏡令、その人だ。
だが、なぜ俺が認識している『雨鏡令』が、悠の中で『七星優実』に摩り替わっている?
そして、なおかつ。
どうして俺は、今日最初から悠の言う『七星優実』がイコールで『雨鏡令』であると何の説明もなく認識できたんだ?
わけが、わからない。
一ヶ月前、確かに悠は令のことを『雨鏡さん』と呼んでいた。
『七星』とは、呼んでいなかった。
だがどうして今はそう呼んでいる?
呼び方を変えた? そんなはずない。会話をしていればわかる。悠は最初から、令のことを『七星』と呼んでいたのだ。
なら認識が変わったのは俺。今朝の違和感が原因だろう。だが、それがどうしてこの状況につながる? どうしていきなり、世界に対する認識が変わる? そう呼んでいたことを認識したのは一ヶ月前。一ヶ月の間何度か令の存在は話題に上っており、そのときも悠は確かに『雨鏡さん』と呼んでいた。ならば俺に変化があったとすれば一週間前から今までのどこか。
………どこだ。
思い出せ、一週間のことを。桜守梓の急変、弱気な令、尋ねてきた小米姉さん、様子がいつもよりも変、戦闘、斧の時代、そう、その直前のあたりだ。内側から這い出る違和感、それに一致する言葉はなかったか?
『鏡をとったら何も残らない』『本題なんて存在しないんだ』『話が早い』『斧の時代よ、その意を示せ』それより前だ。『しかし果たして鏡はこの現実をよしとするだろうか』それより後『案外鈍いんだな、お前も』そう、確かこの直前。
『「種子」の癖に、そんなこともわかってなかったの……?』
これだ。
『種子』。
植物の、種。
大樹の、種だ。
そして、令の印象的な言葉。
『鏡を取れば、何も残らない』
そしてとどめに、『過去大樹に願ったことがある』という事実。
それらが一本のラインとなって俺の中を駆け巡り、そして世間一般の常識ではありえない、俺の人生のもう半分の常識を持って出さえ、ありえるかどうかわからない回答をもたらす。
だが、この回答が正しいとすれば、
正しいとするなら、俺の今まで会話していた雨鏡令という少女は、この先――――
「悠、悪い。急用ができた」
「え、あ、ちょっとミコ、急用って――――」
何事かで俺を呼び止めようとする悠をよそに、俺は全速力で学校へ、令のいる場所へと駆け出した。
病み上がりともいえない体に鞭打ち、全力で走ること三分弱。時瀬大付属高の正門をくぐり、昇降口で今までにない速度で上履きに履き替え、さらに走ること一分。
自らの教室に寄ることなく向かった先は二つとなりの教室だった。
登校ラッシュにはまだ少しあり、だからといって早いという言葉でくくるには少し遅い時間という微妙な立ち位置に存在するこの時間帯は、用事を理由に登校したものにとっては用事がひと段落してのんびりする時間であり、そして普通の時間に登校するものはまだ到着していないという、狭間の時間でもある。
つまり、令はここにいる可能性が高いということ。
誰かと一緒にいる可能性も、高いということだ。
………いる、よな。
思いながら、しかしドアに手が伸びない。
………わかってるだろ。
自らに言い聞かせるように、内心で。
初めてであったときの違和感、今俺が認識している現実、そして今俺が持っている考え。それらがすべて正しいのだとすれば、雨鏡令という人物は ということになり、今まで二人で過ごしてきた時間、そこで抱いた感情にまで、疑問をさしはさむ余地が存在することになってしまう。
それでも、いいのか?
………いいに、決まってる。
俺の今抱いている考えが正しかったところで、
令が俺の懸念どおりの存在だったとして、
俺が令に求めるものも、
令が俺に求めたものも、
変わることは、ないはずだ。
腹は決まった。
眼前に存在する引き戸に手をかけ一気に開く。
教室の中は、閑散としていた。もう少しすればにぎやかにもなるのだろうが、今の時間帯は早いうちからやってきて用事を済ませたがっているものや、部活動の朝練が早いうちから終了したもの、あるいは普段からこの時間に登校している変わり者ぐらいのものだ。
そんな閑散とした教室の中、人の塊が存在している。女子が三人ほどまとまって会話しているらしく、にぎやかな笑い声や楽しそうに会話する声、それらが織り成す雰囲気などが閑散とした教室内によく響き、入り口にいる俺のところ間まで雰囲気がよくわかる。
「雨鏡ぃー、いるかぁー」
少し声を張り上げて、令を呼ぶ。すると、
「あれ? 羽狛に用だって。あの人だれ?」
「うわあ、今度は男子か。相っ変わらず人気あるね、芝野」
女子の塊、そこでなにやらにぎやかに会話するのが聞こえた後、
「…ああ、明さんです。お友達――――ですよ。ちょっと行ってきます」
俺からはちょうど死角になっていた位置、窓際の一席から一人の女子生徒が立ち上がった。そのまま俺の元へと、その女子生徒は歩いてきて、
「明さん」
「……令」
そこにたっているのは、紛れもない俺の大事な人、雨鏡令。二ヶ月前に出会い、一ヶ月前に妹の存在を知り、一週間前に自らの死を受諾した、強さの中に決定的な弱さを宿す少女。
信じたくはない。この少女がまさか俺の思うような存在であるなんて――――
「………あの、何か御用でしょうか…朝のことでしたら、帰ってからでも…」
少し困ったような顔。
「………ちょっと、話がある。いいか?」
「え、ええ…かまいませんけど」
「ここじゃあまずい。場所を変えよう」
令の表情が、ゆっくりと神妙なものへと変わっていく。いつもの穏やかな雰囲気はそのままに、何かを受け入れてしまった後特有の諦観にも似た雰囲気を浮かべ、そしてそのまま軽くうなずき、
「………わかりました」
完全に何かを諦めきったような笑みを、浮かべた。
「………………」
俺は無言で令を促し、元も近場にある階段へ移動、そのまま後者を上へ上へと移動して行く。
「……………………」
「……………………」
人気のない場所へ移動する道がすら、俺たちは無言だった。
お互いに神妙な表情をしたまま、一言も話さない。傍目から見れば少しばかり奇妙な二人組に見えただろう。
普通、ならば。
実際俺たちの姿を目にした生徒、教員の数々も俺たちに一瞬目を留めることはあっても奇妙な目で見ることはなく、誰かを認識することはあっても話題に上げることはない。それはつまり、俺たちのうちの片方が普通ではないことを暗に示しているわけであり、そして、
「…………………」
俺はそれを肯定するに足る考えを、今このうちに持っているという、それだけのことだ。
そのまま会談をいくつかの階層分のぼりきり、そしてその先にある鉄扉をひとつだけあけ、その空間へ出る。
その場所は、屋上。
昼時になれば多少の人も出るだろうが、朝のこの時間ともなれば無人確実な空間だ。
「……………」
令が屋上に足を踏み入れた後、扉を閉め、念のため外側から鍵をかける。そしてそのまま令と向き直る。
「あの、明さん……話というのは――」
困惑している令をよそに、俺の心中はひどく冷静だった。
その冷静さのまま、俺は言う。
「…『七星、優実』『芝野』『羽狛』」
「!」
この状況を、二人の距離を、完全に変動させるに足る、その言葉を。
「あるいは、こう呼ぼうか…………」
完全に狼狽した様子で俺を見る令に、俺はさらに言葉を連ねた。
「…『鏡』………」
狼狽から驚愕へ、令の表情が移り変わる。
その表情が物語るのは肯定。
わけのわからないことを言われたことによる否定でも、俺の言葉を裏切りと感じた悲しみでもない、それはただただ隠していた事実を言い当てられたことによって生じる、肯定の驚愕だった。
………やっぱり、か。
その態度から、自分の考えが正しかったことを読み取る。そしてそれを知られていないという現状を理解していることも。
そうであるからこそ、これほどにまで驚愕したのだろう。
俺は、さらに言葉を連ねた。
「………令、」
ピクリと、令の体が震えた。そのまま数歩、俺から距離をとるかのように後退する。
「お前、どうしてこんな風にいろんな名前で呼ばれてるんだ………。確かに最後にあったとき、悠はお前のことを『雨鏡さん』って呼んでたはずだ。それだけじゃない、さっき談笑してたクラスメイトでさえ、お前の呼び方が一貫してなかっただろ。これ、一体どういうことなんだ……?」
ただのあだ名ではありえない。これほどにまでの無数のあだ名、しかも本人には何のいわれのないあだ名がありえるはずがない。それにしたところで、俺が今朝、悠の『七星』イコール雨鏡令であることを認識できた理由にはならないだろう。
「……梓にしたって、違和感はあったよ――」
それは単純な、苗字の違い。
「何で梓が『桜守』なのに、お前は『雨鏡』なのか、って」
親の違いによって生じた違い、といってみればそれまでだろう。
だが、それでも説明のつかない違和感がある。
それは、病院での受付のこと。
何度も何度も通っているはずなのに、梓と話したことのある人物もいるはずなのに、なぜ令の目で梓のことをみな『妹さん』ではなく『桜守さん』と呼んでいたのか。
家族なのに、周りには家族と認識されていなければこういうことはおきないはずなのだ。
「極めつけは、小米姉さんの呼び方だ」
「………小米、さんの…?」
ああ、と呟くように言い、
「姉さん、最後の最後まで一貫して、お前のことは『あの少女』か、それか『鏡』としか呼んでなかったんだ……」
「!」
再び、令の表情に驚きが走る。
「なあ、令――――」
答えを求めるように、一歩。令のそばへと歩み寄る。
「教えてくれ。『鏡』って、何なんだ?」
踏み出された一歩から離れるように、令は一歩俺から遠ざかる。
「鏡、光を跳ね返して風景を映し出すもの。そんなことぐらい、俺でもわかる。だけど、」
離された一歩を詰めるべく、さらに一歩を踏み出す。
「お前がそんな名前で呼ばれることが、納得できない」
さらに一歩、令は後退する。背が策に触れ、もう後ろへ下がることができなくなった。
「……それがお前にとってどれだけの秘密なのかはわからない。何をそんなに怖がってるのか、俺は知らない。けど、」
踏み出し続けていた足を、止める。
「俺は、それを知った程度でお前から離れることはしない」
そして、
「俺はただ、知りたいんだ」
俺は、断言した。
「………………」
「………………」
令の背後、そこに広がる校門から昇降口までの間に、大量の人が満ちる。登校ラッシュだろう。もうすぐ教室の中も人であふれかえるはずだ。
令をまた違った呼び方で呼ぶ人物も、増えるだろう。
「………………いい、ですよ」
やがて、令が俺を弱弱しく見つめたまま、口を開いた。
そのままくるりと俺に背を向け、目線を屋上の下へと移す。
「すべてを、お話します」
ゆったりとした、しかしひどく脆弱さを漂わせたまま、令は言葉をつむいだ。
「だけど、約束してください」
「……………」
「すべてを知った後も、私から離れて行かないって………」
微妙に湿った声で、令は再び懇願した。
俺は、その懇願に一切の間をおくことなく、
「…………ああ」
うなずいた。
※※※※※
「…始まりは、今から八年ほど前のことです」
八年前。
俺がまだ両親と一緒にいて、妹もいて、そして自分の中に存在する力を使い方をよくわかっていなかったころ、か――――
「発端は、梓が病に倒れたところからでした。梓はあのころ体が弱くて、よく病気になって入退院を繰り返していたんです」
「梓が?」
ええ、と令が答える。
「ある日突然、私と一緒に大樹の公園で遊んでいたときに、何の前触れもなく、梓は突然倒れました。
………あの時は、ほんとに驚きましたよ。まだ小さかったんですけど、それでも仲良く遊んでいた妹が突然倒れてしまって……どうしていいかわからず、私はそのまま途方にくれていたんです」
想像する。夕方ごろの公園、自分と遊ぶ仲のいい肉親、つい先ほどまで自分と同じようにはしゃぎまわっていたその人物が、いきなり倒れて動かなくなる。
それは、どんな人間にとっても衝撃的な光景であるはずだ。
「幸いにも、すぐ近くにいた年上の女性が救急車を呼んでくれました。そのまま私は梓の横で救急車に揺られて病院へたどり着き、何がおこているのかよくわからないまま、心配そうな両親によって家へ送り届けられました――――」
令の手が自分の胸元、そこにある四季の小瓶を握り締める。
「子供心にも、なんとなくわかったんでしょうね………梓が、もう助からないかもしれないって………お母さんたちが、泣いていましたから……」
「だから、願ったのか?」
はい、と。
背を向けたまま、令はうなずいた。
「夜、誰もいない家を抜け出して、私は一晩中願い続けました。
『お願いします。どうか妹を助けてください』、『どんな代償でも払いますから、どうか妹だけは助けてください』。
一晩中、私はそんな風に祈り続けました」
令は、身を翻し俺に向き直った。
「そして………願いはかないました」
さびしげな表情を見せ、令はその場で、目線をそらした。
「大樹は私の願いを汲み取り、妹の命を助け、元通り元気にしてくれました。
――――私の、『存在』を代償にして……」
「存、在?」
聞いたこともない。
大樹は真摯に願われた願いを自動的にかなえる。巫女ヶ浜はそのかなえる過程の中、大樹が取りこぼしてしまった願いを拾い上げる程度の役目で、それもそれで重要なのだが言ってしまえばそれほど大きなことはしていない。
が、その代償はたいていの場合、無償といってもいいほど小さなものしかつかないのだ。
確かに、命を願う願いには代償として命が伴う。とはいっても寿命が大幅に縮んだり、いきなりその場で死んだりするわけではなく、ただ単に体がちょっとだけ病弱になったり、体力が微妙に衰えたりする程度のはずだ。
存在を、代償とする。
そんな願い、聞いたこともない。
「……………何を、とられたんだ…?」
「『誰かとそっくり』」
透明感のある、透明感のありすぎる声で、令は言った。
「はじめてあったとき、そう思いませんでした?」
「…………ああ」
令と始めてあった、あの休憩室。
俺はそこで、なぜかこの眼前の少女が『妹にそっくりである』という認識を覚えていた。
「…………もしかして、それが?」
その問いかけに令は答えず、芝居がかった仕草で天を仰いだ。
「鏡は銀という色を持っている。絵画の中の光照り返す鏡は常に銀色として描かれ、それを見る人々の脳裏にも銀の色を連想させる。だけど鏡が色を持っていようと、人々はそれを見ることがなく、見るのはそこに映りこんだ『何か』のみ……」
鏡とは、得てしてそういうものです。
令はそう締めくくり、
「…あの日以来、私はそういった存在になりました」
つまり、
「誰もが、私を『誰かと限りなくよく似た誰か』としか、認識してくれなくなったんです」
そう、それは例えば自分の知る誰かとあまりにもy区似た誰かを発見して呼び止めてしまうように。
自分の知る人物と眼前の人物があまりにもよく似ているがため、その人物の名前を呼んでしまうかのように。
誰しも経験があるであろう、そんな状況でしか、自己を認識してくれなくなる。
「――――誰もが、両親を含めた誰もが、私を私と見なくなりました。
誰もが私を私の名で呼ばなくなり、
誰もが私の行動を私の行動と見なくなり、
私に対する行動の中から私という存在が消失して、
そして、ただ記憶の中に存在する『その場にいてほしいもの』のための行動が、すりかえられて行われる。
それだけの存在に、私は、なったんです」
死ぬわけではない、消えるわけではない。
ただ自分が『万人にとって誰かにそっくりな誰か』になっただけ。
だが、それは『ただ』という言葉でくくれるほど、安いものなのだろうか。
生きていながら、存在していながら、自らの姿を絶対に見てくれない状況が、果たして幸福だろうか。
それはたとえるなら、幽霊になったようなもの。誰もが自分に目をやるが、そこに自分の姿は映らず、誰かに声をかけようともそれに答えてくれる人は折らず、そこに存在していてもそれを認識してくれる人物は存在せずに、ただただ存在し続ける。
それは、ある意味で本当の地獄だ。
死んでしまいたいと、思ってしまうほどに。
「………確かに、妹は助かりました。だけど、その日から私は私をなくしてしまった。だから、私はその日から自暴自棄に、なったんです………眠ることを拒絶し、食べることを拒絶し、ただ自分がなしたことの意味をなくさないがために妹の世話を焼き続け、それでも自分を壊すためだけに動き続けた私は、ある日、とうとう倒れました――――」
……………。
「雨の日、でした。連日の過労に、栄耀失調による過剰な体力低下、さらには体温低下と、それらが複合的に起因した高熱と肺炎で、生死の境をさまよったと聞いています。
でも、私は空虚でした。
このまま生きても、元のまま私を私と見てくれる人はいない。だったら、このまま死んでしまったところで私の周りは何も変わらないんじゃないかって………
だけど――――」
「一人だけ、違った…………」
はい、と令はうなずき、そのままうつむく。
「妹だけは――梓だけは、ちがったんです。
梓は、まだ入院中だった梓は、今にも死にそうな私を見て、その日病院から抜け出した、らしいです………そして、次の日に私は…」
「生きながらえた、か」
令は、答えなかった。
「………驚きましたよ――私がまともに動けるようになって、梓のところに行ったとき、梓だけは私のことを前と変わらず、『お姉ちゃん』と――こんな鏡のことを、『お姉ちゃん』と呼んでくれたんです………願う前から変わらず、私を姉と、認めてくれた」
ゆったりとした、充実した笑みが浮かぶ。
自らを認めてくれなかった世界で、唯一自分を見てくれた存在を見つけたことによって生まれた感動。それをあらわすかのような、本当に満たされた笑みが。
「だから、私は生きることにしたんです。鏡以外残されていないこんな私でも、生きることを許してくれた妹が、そこにいるから。妹に、姉を失う悲しみを、味合わせたくなかったから――――」
「名前まで、偽って、か……」
「ええ…………。私は鏡です。鏡が、すべてなんです。鏡を取ったら、私には何も残らない。それを示すために、私は雨鏡令と………鏡を取ったら、零名前を、つけた」
雨鏡令。
その名の中に、最初から答えはあった。
その名から鏡を取れば、残るのは雨と令。雨と令を続けて書けば、雨令。
零だ。
「……………明さんが、初めてでした。私がこうなってから、私の名前を尋ねてくれたのは」
「だからあの時、驚いてたのか?」
「ええ。本当に、びっくりしたんですよ? 今まで誰も聞いてくれなかった名前を、いきなり尋ねてきたんですから。だけど、私は、昔持っていた名前ではなく――――」
「鏡としての嘘の名を名乗った、か」
はい、と令は悲しげにうなずいた。
「だけどそれも、もう終わりです………」
やはり悲しげな表情のまま、眼下を見下ろす。
広がるのは平穏な風景。もう予鈴もなってしまったこともあり、すでに登校する生徒の姿はなきに等しく、そこを歩くものは教員と清掃員のおじさん、そして飛び交う小鳥やいついている野良猫程度のものだ。
「願って、しまいましたから………もう一度、願った身なのに」
はき捨てるように、令は言う。
「明さん………私が死ぬのは、確定なんですよね」
その言葉は質問というよりは、単なる確認のようだった。
「………ああ――どれだけ先になるのかは、わからないけど」
大樹はかなり気まぐれだ。それこそ、人のように。だから令の命がこの先どれほど持つのかは俺にもわからない。一日か一週間か、一ヶ月か一年か、あるいは十年か。
だが、その死は確実に、令の身に訪れるだろう。
「けど、安心しろ。お前が死ぬまで、俺はそばにいてやる。約束、しただろ?」
確認するかのように言ったその言葉に、令は微笑んだ。
「……はい。ですけど――」
ふらり、と。
あまりにも自然に、令は屋上の柵にもたれかかった。
「――――その日は、それほど遠いことじゃないと思います……」
そして、そのまま。
あまりにも自然な動作で。それこそ手を離したら荷物が落下した、そんな印象を伴う動作で、
令の体から力が抜け、地面へとへたり込んだ。
「令!」
まさか、もうなのか?
まだ一週間しかたってないのに、もうやってきたのか?
その、死は。
あわてて駆け寄り、へたり込んだままの令の身を抱く。
重い。いや、もともと令の保有する重さが重いというわけではなく、生物がもともと無意識に自らの力で支えている重さ、その支えている分までが負荷としてかかっているがために生じる、いうなれば『死体の重さ』だった。
しかし、令は死体ではない。
その全身は、多少弱弱しいものではあるものの―――暖かかった。
紛れもなく、生きていると断言できるほどに。
「……………すみません…今朝からなんとなく、体が重くなっているような気はしていたんです………こうなりそうだったから早めに出たんですけど、結局ばれちゃいましたね」
悪戯っぽく微笑み、しかしその身は脱力したままで、声には力ないままで、いつもの柔らかな雰囲気も消失していて、本当に去勢だとわかってしまうほどの状態で、それでも令は強がろうとして、
「…………馬鹿野郎っ……!」
誰に言うでもなく俺は言い、
そして腕の中にあるぬくもりを、抱きしめていた。
「あっ………」
腕の中で、声が上がる。
「明…さん………?」
少し困ったような声。抱きしめているため表情は見えないが、おそらく顔も、以前の茹蛸同然の顔になっているはずだ。
「その……明さん…?」
「嫌か?」
抱きしめる力を緩めないままに言うと、あぅ、と困ったような呟きが漏れ、
「いや…………ではありません」
そして令の腕がゆっくりと上がり、
「むしろ……うれしい、です…」
照れたような声と同時に、俺の体にやんわりとした、弱弱しい力が加わった。
離れたくない。終わらせたくない。
素直に、俺にそう思わせる力。
俺の全身はぬくもりの中に落ち込み、感覚がそれだけに集約される。そしてそこに俺というものの感覚すべてが集約されている以上、俺という存在はそのぬくもりの中に埋没する。
願わくば、
この人が、俺から離れて行きませんように。
かなうはずがないと知りながら、
その終わりが近いと知りながら、
それでもなお、俺はそう願った。
そしてその願いが途切れたのは、それからわずかに一週間後のことだった。