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君が奏でる部屋  作者: 槇 慎一


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89音大時代〜初めてのプレゼント


 僕は彼女からプレゼントをもらったことがない。彼女と言っても幼なじみで、心の彼女だ。僕と彼女の家は社宅の上下で、彼女には小さい頃からピアノを教えているから毎日会える。それで充分幸せだった。


 彼女は素直でおとなしくて純粋だ。ピアノを教えている時間は幸福感でいっぱいになる。他に何もいらない。


 ある日曜日。僕は朝から彼女のレッスンをして、その後教授の家でレッスンを受けていた。レッスン中に来客があり僕が対応したら、彼女だった。彼女も教授に何回かピアノのレッスンを受けたことがある。お父さんもいる。特に予約もしていない筈だ。何だろう?


「慎一くん、これはこれは。教授にお会いできるかな。かおりが御礼をお渡ししたいと言ってね。教授は御在宅かな?」

「えぇ、どうぞ」


 僕は彼女とお父さんを中に通して、教授を呼んだ。


 彼女は教授に何かを渡した。教授はそれを開けて広げた。ハンカチだった。教授はとても喜んで、彼女の頬にキスをした。まぁ、いつものことだ。しかし……。


 彼女のお父さんは、ロシア語を使って教授に御礼を言っていた。


「突然すみません、かおりの父です。ピアノを教えてくれて、ありがとうございます。先日は夕食を御馳走になったと聞いた。娘が貴方にプレゼントしたいと言った。私も感謝を伝えに来た」


 僕はかおりの相手をしながらそれを聞いた。すごいな。彼女のお父さんは、仕事でロシア語を使うわけではないのに、充分に伝わる内容だった。教養があって、素晴らしい方だ。彼女の育ちの良さも納得できる。


「かおり?これからパパとどこに行くの?」

「動物園です」


 僕は一瞬、聞き間違えたかと思った。美術館ならわかる。彼女……中等部三年生の女の子が、パパと動物園……。


「そうなんだ。行ってらっしゃい」

 僕は笑顔で答えて見送った。


 ……しかし、僕は彼女から、まだ何ももらったことがない。なのに、彼女が誰かに何かプレゼントするなんて、想定外だった。教授のハンカチを羨ましく思ってしまった。





 翌日、月曜日。

 大学から帰宅すると、彼女が練習していた。モシュコフスキーの新しいエチュードだ。昨日指定したばかりの曲は、もう一人で充分に仕上げられていた。そんなにテンポが速くない曲なのに、若干音が硬い。珍しいな。原因は何だろうか?


「かおり、ただいま。エチュード、よくできているね。ちょっと待ってて」


 僕は手を洗って、二人分のコーヒーを入れた。


 今日は母親は大学の仕事で不在だから静かだ。彼女はおとなしくて口数が少ない。例え沈黙でも心地好い時間が流れる。普段は。……今日はちょっと違った。


 彼女の音の硬さと空気が、何かあるなと思わせた。恐らく、普通の人にはわからないくらいの、ほんの僅かな違いだった。


 彼女のコーヒーには、少しだけ砂糖を入れて甘くして、牛乳を入れて、直ぐに飲める温度にした。


 僕はそれをテーブルに置き、彼女を呼んだ。

「かおり、レッスンの前にコーヒーにしよう。おいで」

「……ありがとうございます」


 少ししてから彼女はこちらに来た。


 彼女はバッグから何かを持ってきた。そして、その四角い物を僕にそうっと差し出した。


「……先生……あの、これ」


「うん、何?僕に?」

「……はい」


「見てもいい?」

「……はい」


 ハンカチだった。教授には深い紺色のハンカチだった。僕は、薄い水色のハンカチだった。両方、色の選択がぴったり合っていて、センスがいいなと思った。そして、嬉しかった。


「ありがとう。嬉しいよ」


 僕は、自然と笑顔になれた。いつもの、彼女を安心させるための笑顔ではなかった。彼女は、……彼女も、いつものにこっとした笑顔ではなく、女の子のような……はにかんだ笑顔で、僕はいつも以上に可愛いと思った。


 僕は彼女のことを好きだけれど、それはまだ言えない。言うつもりはなかった。少なくとも、まだ。彼女はお父さんの休日に、二人で動物園に行くくらい幼い女の子だ。僕のことは男として意識していなくても不思議なことではない。


 僕は、かおりの頭をぽんぽんとして、

「飲み終わったらおいで。ゆっくりでいいからね」

と言い、ハンカチを持ってピアノのところに行った。

 指慣らしに、サン=サーンス作曲の『動物の謝肉祭』の動物の曲を、少しずつ抜粋して弾いてみた。


 彼女は、それらが何の曲か気づいたようで、直ぐにこちらに来た。まだコーヒーを飲んでいないだろう。困ったような顔をしている。



 彼女がぽつりと言った。


「先生……あの、違うんです」


「何が?」

「……私、間違えちゃって」


「何を?」


 彼女は恥ずかしそうに、というより、泣きそうになっていた。僕に言いにくいことなのだろうか。



 急かさなければ、彼女は話してくれる、多分。





「パパとお出かけしたのは……、動物園じゃなくて美術館でした」





 どうしてそんなことを間違うんだ?僕は笑いそうになった。でも、笑ったら彼女は傷つくかもしれない。


「……そうかもしれないって、思ったよ」

「えっ?」


「笑いかけて、ごめん。美術館に行くのかなと思っていたのに、動物園だと言われて、少し驚いていたんだ」


 僕はそう言って『動物の謝肉祭』をやめて『展覧会の絵』を弾いた。彼女は小さい頃、この曲の作曲家である「ムソルグスキー」が正しく言えなかったな……。そんなことを思い出した。



「……私、ムソルグスキーがなかなか言えなかった」

「そう、小さかったかおりには難しかったね」


「……先生が、何度も優しく教えてくれました」


 覚えていてくれたなんて、嬉しいな。


「何度でも教えてあげるよ、今は、何がわからない?」


 僕は自然にそう言えた。

 今は、まだ、このままの関係でいい。


 彼女にバッハの『平均律』を弾かせた。やはり音が硬い。先日、教授に脱力奏法を教えてもらった筈だが、まだ定着していないだけか?まぁ、そんなに簡単に奏法は変えられない。


「かおり、教授に手を取ってもらったり、腕を持ち上げてもらったりしただろう?」 

「……はい」


「他には?背中とか、首とか、脇とか……は流石に触られていないよね?」

「……手と腕だけです」


「変なことを聞いてごめん。筋肉とか、力の使い方だから、怖がらないで。大学では、レッスンで異性の体に触れるのは御法度だ。かおりは、僕のことは怖くない?肩に触れてもいい?」

「……はい」


 僕は、そう言ってもらってほっとした。彼女の後ろに立ち、長い髪を前に落として、肩に触れた。


 やはり、肩が固かった。しばらく優しく撫でるようにし、軽く押してみても、固さが和らぐ感触が得られなかった。おかしい。


 僕はできるだけ優しく伝えた。


「かおり、緊張しないで、力をぬいて。怖かったら、何も言わずに帰っていい。……大丈夫なら、このまま、眠って……」




 かおりは帰らず、そのまま僕にされるがままになっていた。どうか、力が抜けて、良い響きの音が出せるように。



 しばらくの間、僕は祈るように肩を押しては撫で、撫でては押した。そして、ふっと固さがなくなった。


「かおり、今なら力が抜けてる。弾いてみて」


 僕は静かにそう言った。……と同時に、かおりの頭がゆらりと落ちた。



 ……え、本当に寝ちゃった?


 彼女のバッハ、聴きたかったな。


 僕は、彼女が口をつけなかった、冷たくなったコーヒーを飲んだ。













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