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君が奏でる部屋  作者: 槇 慎一
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8コンチェルト



 『フジワラ カオリ』


 高らかに名前が呼ばれた。オーケストラパートを弾く教授が背中を支えるようにして、かおりをステージ中央に連れ出していった。


 去年は、オーケストラパートを弾くかおりを、僕もそうして連れていったんだっけ……。かおりはオーケストラパートも上手だった。あれから一年か。


 プログラムには『藤原かおり 17才 シューマン ピアノコンチェルト イ短調』と書かれ、半袖の白いブラウスに赤いスカーフを結んだ、制服姿の上半身の写真が掲載されていた。申し込んだのは夏だった。この写真を撮った時、僕は一緒にいた。


 これまで堂々一位の成績を修めたかおりへの期待と称賛の拍手。ほとんど無名だったかおりを初めて応援してくれている人が多いだろう。演奏前なのに、ものすごい拍手だった。自信たっぷりに出てくる人も多いが、かおりはドキドキしながら慣れないところにそうっと出てきた感じだった。観客には、制服姿の写真よりも少女のように幼く見えただろう。


 ステージ中央までゆっくり歩いたこともあり、拍手の時間が長く、かおりは緊張感の中で丁寧に礼をした。


 拍手がぴたりと止まり、静寂が訪れた。


 二人はそれぞれのピアノの位置につき、椅子を微調整して座る。かおりはドレスの裾を整え、足元のペダルの場所を確かめている。そして静かに呼吸を整えた。


 僕はステージ袖から、二人の背中を見ていた。







 かおりの背中から、意識が音楽に変わった瞬間がわかった。

 かおりが、すっと鍵盤に手を乗せる瞬間、フルオーケストラを思わせる教授の1音めのフォルテが落とされた。ピアノなのに、本当にオーケストラの音だった。スローモーションの映画のように心に焼き付いた。


 二人が一体となったかのような2台のピアノの音。付点8分休符からの、噛みつくような和音の連続が、とてつもなく切ない音でホールに響きわたった。

 そこから1楽章が終わるまで、他のことは何も考えられないくらい惹きこまれた。



 教授は暗譜で弾いていた。

 レッスン中は、かおりの為に楽譜を置いていた。2台ピアノのために編曲された楽譜ではなく、指揮者が使用する、全ての楽器の音が書かれている総譜だ。それを見て、2台ピアノのために編曲された音だけではなく、長い経験からも熟知されたオーケストラの音の深さを再現するように、かおりに全ての音を与えていた。



 完敗だ。



 僕にはまだ、こんな風にかおりを伸ばせない。引き出してやれない。まだまだ未熟で経験不足だ。これでは、考えていた夢の実現も無理かもしれない。

 僕は、2楽章の美しいインテルメッツォを聴きながら、違う涙が溢れそうで、懸命に堪えた。



 教授のピアノが、この上なく美しく歌っていた。かおりは、得も言われぬ美しさで、それに甘く優しく応えていた。僕は、その悔しさを超えたやるせない想いが募って、それをどう処理したらいいかわからなかった。


 誰か、教えて。


 僕はどうしたらいいんだ……。




 3楽章は、かおりの持つ華やかな音色が全面に表れた。先程までとはうって変わってまばゆいばかりの明るさが、今までの僕の気持ちを払拭してくれた。


 僕は何て単純な男なのかと、泣き笑いしながら、あとは最後の瞬間まで見守ることにした。


 ヘミオラのリズムの面白さや、シンコペーションの連続の緊迫感は、僕たちが子供の頃、リビングのピアノで代わる代わる弾き、連弾した幸福感を思い出した。


 こんなに上手になって。


 こんなに綺麗になって……。


 僕にこんな想いをさせるなんて……。



 もう、我慢できないから、君に好きだと伝えてもいいだろうか?


 君が僕にどんな反応をするのか、どんな返事をするのか、全くわからない。


 それでも、どうしても伝えたい。



 かおりは、僕がちょっとキスしたくらいで甘いものが食べられなくなるほど恥ずかしがって、顔に全部出てしまう。 


 それ以上できなかった。

 それより、まだその一回しかキスしていない。


 あれから少し大人になったのかどうか、この手で、唇で触れて、確かめてみたい。



 終盤の伸びやかな和音展開、アルペジオの上行形では、背中しか見えないはずのかおりが、輝くような笑顔で弾いているのが音でわかった。


 教授は自分の鍵盤を一切見ずに、かおりの息づかいから次の音への瞬間の全てを見て、指揮者のようにかおりを気持ちよく羽ばたかせていた。



 完敗だ。


 でも、僕は君に好きだと伝えよう。

 



















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