55入学式
新年度の新学期が始まった。
僕は大学講師として、平日に新入生の男子学生を週に8人、土日は音楽教室講師としてかおりを含む10人のレッスンを担当する。音楽教室は、かおり以外は子供なので、かおりが小さかった頃を思い出す。皆可愛い。週末の夜はレストランのBGMだ。土日の時もあるが、金土のシフトもある。
平山は4年生になり、将来はソリストを目指す。教授の代わりに、新しく来日したピアニストA氏のレッスンを毎週受ける。恐らく、大学院進学を希望しているだろう。
かおりとマヤちゃんは、僕たちの住まいの近くにある女子大学の一年生になった。大学の看板的学部である、フランス語が中心の文化芸術学部だ。高等部から持ち上がりの学生もいるが、外部から入学した学生もいる。幼稚部から高等部まで一貫校だったかおりには新しい友人ができる機会になるだろう。
また、かおりは音大附属音楽教室の特待生で、ピアニストA氏のレッスンと僕の二人のレッスンを大学で受けることができ、学内の公式行事に参加することができる。
5月末のソリストコンチェルトオーディションのために、平山とかおりは合わせ練習の計画をたてた。かおりの高等部の卒業式の日に、お互いの演奏は聴いていたが、かおりは初見だったし、二人が2台ピアノで合わせるのは今日が初めてになる。夕方には僕も学生のレッスンが終わるので、学内のレッスン室ではなく僕の家で合わせることにした。時間を気にせずに練習できるし、食事もできる。
午前中、かおりは女子大学の入学式だった。僕は午前中のレッスンがなかったので、保護者として出席した。
高等部の卒業式でもかおりが卒業生代表の言葉を述べていたが、大学の入学式でも新入生代表の挨拶をしていた。
フランス語に力を入れている大学だけあって、全てフランス語だった。長いスピーチで、ちょっと……いや、ほとんどわからなかった。かおりの声も、かおりのフランス語も綺麗だった。赤いリボンに明るいグレーのボレロにフレアスカートだった制服姿のかおりではなく、紺色のタイトなスーツ姿は大人の女性のようで、すらりとして綺麗だった。
スピーチの後、僕はそっと退席した。
帰りに、大学の正面玄関に飾られた大きなサイズの絵画が目に留まった。絵画はそんなに詳しくないが、何て言うか、色使いが綺麗で、いつまでもそれを見ていたかった。かおりのピアノを連想した。こんな素敵な絵が飾られているなんて、いいなと、幸せな余韻に浸りながら音大に移動した。
夕方のレッスンが終わる頃、オケパート合わせの一時間ほど前だった。かおりからメールがあった。
「直前の連絡で大変申し訳ありません。体調が優れないので後日に改めさせてくださいと平山さんにお伝え頂けますか」
とあった。
かおりは午前中、入学式でスピーチしていた。何も言っていなかったのに、どうしたんだ?
平山に要件をメールして、急いでかおりに電話した。電話からは応答がなかった。音大とマンションが近くてよかった。僕は走って帰った。
家の中は全く物音がしなかった。誰もいないかのようだったが、かおりはベッドの中で小さくなっていた。
僕は、かおりのそんな姿を見たことがなかった。
「かおり、かおり!どうした?」
「……ごめんなさい、……生理痛です」
「謝らなくていい。そんなに痛いの?薬は?」
答えられないくらい痛みがあるようだった。
平山に電話をしてみたが、応答がなかった。平山は午後最後のコマが個人レッスンで、そのままそこで練習をしているだろう。僕は、大学に戻った。平山の6階のレッスン室に行ってみると、やはり一人で練習していた。
ノックをして入った。
「平山、練習中にごめん」
「槇先輩……先生、すみません」
「そんなのいい、ごめん、かおりが具合が悪くてコンチェルト合わせできないってメールしたんだけど」
「すみません、確認していませんでした。藤原さんは大丈夫ですか?」
「中断させてごめん、ちょっと助けてほしいんだ」
「はい、予定が空きましたし、僕にできることでしたら」
「えっと……、生理痛で辛いらしいんだけど、どうしたらいい?」
「今ですか?……わかりました。買い物してからご自宅に伺いますから、側にいてあげてください」
「わかった。ありがとう」
僕はすぐに家に戻った。かおりはさっき見たままの姿で、全く動いていないようだった。眠ってはいないみたいだった。痛みで眠れない程なのだろうか。
「かおり、大丈夫?薬は飲んだ?僕は何をしたらいい?」
「……かみと、ペン……」
僕は言う通りに紙とペンをかおりに渡した。かおりは辛そうにしながらも、メモ用紙に何か書いた。
『薬はないしのみたくない』
『もっとひどい時もある』
『高等部のアルバム』
いつも丁寧だった、かおりの見慣れた字ではなかった。インクの掠れ具合に、見ているこちらが辛くなる。高等部のアルバム?卒業アルバムが近くにあったのを思い出して、開いてみた。もっとひどい時もある?かおりのクラス写真のページを見て驚いた。カラーの写真なのに、かおりの顔色が白かったのだ。もともとの色が白いのに、消えてしまいそうな程白かった。この撮影の時、辛かったのだろうか。それでも、集合写真も個人写真も笑顔で微笑んでいる。
「……かおり、この写真を撮った時、痛かったの?」
かおりは頷いた。今も顔色は良くない。これよりひどかったのか。それでもこんな微笑みを……。
僕の携帯に、メールの新着ランプが灯った。
「外にいます」
僕は玄関から外に出た。平山から、明るい色の花束のアレンジメントとビニール袋を渡された。袋の中には、生理痛・即効性と書かれた薬、純ココアの缶と牛乳が入っていた。
「マヤに聞きました。少し甘くした温かいココアが好きだと。砂糖は控えめで、牛乳から作ってあげてください。薬は、いやがってほとんど飲まないそうです。内部進級試験の時に、先生方が強く勧めた時には渋々飲んだと言っていました。花は、僕が勝手にしたことです。少しでも慰めになればと……」
「ありがとう。……感謝する」
「いえ、側にいてあげてください。今日は失礼します」
僕は、ココアの缶に書かれた作り方を読んで、鍋にかけ、少量の水と砂糖とココアを木ベラで練って牛乳で少しずつ伸ばし、温かいココアをつくった。
薬の飲み方の紙も読んだ。こんなものを読んだのは初めてだった。女の子は中学生くらいから常備しているのか……。
僕は、薬と、薬を飲むための水と、温かいココアをトレーに乗せて、かおりのところに行った。
「かおり、そんなに痛そうで辛そうで見ていられない。心配だから薬飲んで?」
「……あ……ココア?うれしい」
「薬を飲んでから」
「……あ、……はい」
返事をした。
かおりを抱き起こした。
かおりは薬を手に取ったけれど、一向に口に入れない。僕の手前、入れようと思ってはいるけれど、心が拒否していて、視線は困り果て、手が動かなくて、口が開かないみたいだった。
どのくらいの間、そんな風にもじもじしていたのだろうか。その間だって、痛みで辛そうな表情だった。
僕は、かおりの手から薬を取って自分の口に入れ、かおりの口に入れた。水も同様に含ませた後、ちょっと顎を持ち上げれば反射的に飲み込み、あっという間に飲ませることができた。
僕の脳内にある、かおりの取り扱い説明書の重要ページに上書き保存した。
かおりの両手にココアを持たせた。
花束にも気づいた。
かおりは、それをずっと見ていた。
そのうちにココアが斜めになり、僕は咄嗟にそれを支えた。
「かおり、飲める?」
「……うん」
「熱くない?」
「……うん……おいしい。ありがとう」
ゆっくり飲んで、痛みが薄れたのか、薬が効いたのか、疲れたのだろう。倒れるように眠った。
こんなに辛そうなかおりを見て、僕は痛くないのに、僕も辛かった。でも、そんなことは言えない。女の子はいつもこんな思いをしていたのか。数時間も痛みと闘っていたのだろう。学校では先生とお友達が助けてくれただろうが、家では一人で耐えていたのだろうか。
18年間側にいたつもりで、一度も見たことのない姿だった。弱いところも見せてくれて、ちょっと嬉しかったと言ったらいけないだろうか。
眠っているかおりを見ながら、僕はいつまでも髪を撫でた。
痛みがなくなりますようにと。




