5エリーゼのために
彼女が産まれた時、僕の腕にだっこして『ハッピーバースデー』を歌った。笑顔がかわいくてかわいくて仕方なくて、その時からこの子と結婚すると決めた。
翌日からは、病院の面会時間に会いに行った。
母親同士も友達だから僕の母親も行ったが、母親が行けない日でも、幼稚園が春休みの僕は毎日出かけていった。
僕は4月生まれ。もうすぐ年中さんに進級する時だから、5才になるところだった。
毎日母親と練習していた午後のピアノの時間を、朝に変更して、目一杯練習してから赤ちゃんに会いに行った。
僕の母親はピアニストで、音楽大学でもピアノを教えている。そして、毎年僕の誕生日に近くのサロンで発表会を開いていた。
母親の生徒は音楽大学の受験生とピアノ科の音大生と、趣味でピアノを弾く大人の方々で子供はいない。僕はいつも一番先に弾いては皆にほめてもらい、可愛がってもらっていた。
5才の誕生日に開催された発表会のために練習していたのは『エリーゼのために』だった。
僕は同じ年の子供の中でも一番背が高くて手も大きかった。一瞬だけ出てくるオクターブの音が弾きたいけれど届かなくて、毎日一生懸命手を広げて練習していた。ベートーヴェンが書いた音を、届かないからと抜かして弾くなんていやだった。ゆっくり広げて弾いてみてから、瞬間的にパッと広げて弾いてみたり、自分なりに真剣に練習していた。
『エリーゼのために』以外にも、母からの宿題だったハノンもツェルニーもブルグミュラーもソナチネもカバレフスキーも頑張って毎日弾いてはどんどん進めていた。
彼女が産まれてからは、あの子と結婚したいなんて言っても、今の僕じゃ本気にしてもらえない。そんなことを軽々しく口にしたくなかった当時の僕は、本に書かれていた『エリーゼのために』を書いた時のベートーヴェンの気持ちを、自分に重ね合わせて弾いていた。
発表会前日も朝からのレッスンの後、面会時間に合わせて出かける支度をした僕に、母親が花束を持たせてくれた。
「今日はママは行けないから、このお花を悦子さんに差し上げてね」
「わかった。きれいなお花。いいかおりだね」
母親が用意したのに、まるで自分が初めて女の子にプレゼントするような気持ちになり、密かにうきうきした。普段着だった僕は、玄関の姿見に映る花束を持った自分が、何故か物足りなく感じた。母親に見つからないように着替えて、髪もとかして花束を持ち、そっと出かけた。
着替えたのは、発表会のために誂えてもらった長ズボンのスーツだった。それまでは、いかにも元気な子供みたいな半ズボンだったのを『エリーゼのために』だからと、自ら主張して長ズボンにしてもらったのだった。
父親が着ているような濃い紺色の光沢のある生地のそれは、幼稚園の明るい紺色の短パンの制服とは全く雰囲気の違うスーツで、僕は大満足だった。
タイのつけ方はまだ教わっていなかった。お花にひっかかるといけないからつけないことにした。花束を両腕に抱えて、落とさないように転ばないように注意して出かけた。
病院に着くと、赤ちゃんのお父さんがいた。
会ったことはあるけれど、久しぶりだった。
「こんにちは」と挨拶すると、
「こんにちは。もしかして、慎一くんかい? いやぁ、びっくりしたな。大きくなって。来てくれてありがとう」
とにこにこして中に入れてくれた。一人で来てはだめかと思ったが、大丈夫みたいで安心した。
「これ、母からです。悦子さんにって。いいかおりでしょう」
僕は、お父さんに恭しく花束を渡した。
「ありがとう。うん、いいかおりだね。………毎日来てくれているって聞いたよ。ありがとう。赤ちゃんも喜んでいるよ」
「赤ちゃん、喜んでくれているの? わかるの?」
「わかるよ。赤ちゃんはね、いやな時はいやだーって泣くものだよ。慎一くんは、そんな風に泣かれていないでしょ?」
「うん。『ハッピーバースデー』を歌ったら、笑っているように見えたよ」
「そうか、ありがとう。赤ちゃんにもお花を近くで見せてあげよう。ほら、慎一くんがお花を持ってきてくれたよ。いいかおりだね」
お父さんは立ち止まって、何か考えて、こちらを向いた。
「そうだ。赤ちゃんの名前は、かおり」
まるで、いいことを思いついた子供みたいな笑顔だった。
「赤ちゃんの名前?」
「かおり、かおちゃん、どうかな?」
「かおり、かおちゃん?かわいい!」
まだ当分赤ちゃんだと思っていた女の子の名前が、こんなふうに決まるなんて。僕が持ってきたお花のかおりが赤ちゃんの名前になるなんて、嬉しくてたまらなかった。
「よし。そうしよう! 慎一くんが、綺麗なお花をプレゼントしてくれて、かおちゃんは世界一幸せだね」
「かおちゃんが世界一幸せ?」
「そうだ。慎一くんのおかげで、かおちゃんは世界一幸せな女の子だ」
「僕もうれしいです。あの、明日の発表会にかおちゃんも来てほしいです。子供はいないけど、かおちゃんにピアノを聴いてほしいです」
「わかった。かおちゃんはおとなしいんだ。泣かないと思うから連れて行くね。楽しみにしているよ」
発表会の日。
髪を整えてもらい、タイもつけてもらい、濃紺のスーツを着た僕は、ステージでお辞儀をした後、かおちゃんをだっこしたお父さんが後ろのドアからそうっと客席に入ってくるのを見た。
これが緊張というものなのだろう。初めて自覚したのがこの時だった。絶対に失敗したくない。失敗してもお母さんに怒られたりすることはないが、失敗したら自分で自分を許せないだろう。
お辞儀をした後、弾き始めるまでが異様に長く感じた。長すぎて、早く始めなければいけないとドキドキした。大丈夫だから落ち着いてと、まるで母親が生徒に励ますような声が、心のどこかで聞こえてくるようだった。
僕は、自分に挑むように右手の中指を鍵盤に置いた。普段は薬指から弾いていた。中指の方がコントロールしやすい。そして、より意識するために、あえて一拍めの薬指に重みを乗せて弾いてみた。
そんな風に『エリーゼのために』の冒頭の入りで、試したことのない指づかいで、試したことのないルバートをかけた。感情を表現するための、速さを加減することだ。左手の低音で充分に保つよう小指に長めのテヌートをかける。なめらかに響かせるため、響きの行方を追って見るようにして聴き、響きを濁らせないため、いつものタイミングより打鍵からペダルを僅かに遅らせてみた。全体のバランスを考慮した、減衰に負けない低音の調整、メロディーの核、和音の広がり、そっと握りたくなるような美しいピアニッシモ。みんなみんな、客席の後ろにいるかおちゃんのために、心をこめて弾いた。
もちろん、当時はこんな風に言葉で表すことは出来なかった。今までに経験した全ての技術を総動員させて、本番のその一回に落とし込んで成功させたことを覚えている。とにかく必死だった。ピアノを弾くのに緊張したことも初めてなら、たった一回の演奏で疲れたのも初めてだった。心をこめて弾いたのも、それが最初の経験だった。たった数分の曲だったのに、演奏後のお辞儀をする時に足がふらふらしそうになったのを、足の親指を意識させて懸命に堪えた。
かおりも、ピアノを初めて聴いた経験が僕の演奏だった。
それから、僕の演奏で母親が泣いたのもこれが初めてだった。
何故だったかは知る由もなかった。