44新しい部屋
結婚式より少し早く入籍し、慎一さんと二人で暮らし始めた私たちの新居。
私たちの新しい部屋。
もともとここは、教授と奥様の部屋だった。
本番前、私にキスをした後にいなくなってしまった教授。もうどこにもいないのかと、あてもなく探した。
教授が私にレッスンしてくださったピアノ。
教授が私を教えるために弾いてくださったピアノ。
この2台のピアノを奏でると、それぞれの音色の中に教授がいらっしゃった。まるで、今はフランスにいらっしゃる、奥様の言葉も聞こえてくるような気がする。
「ハラショー、カオリ」
「カオリ、よくできたわ」
きっと、慎一さんのピアノの中にも教授がいらっしゃるだろう。
「慎一さん、ピアノ弾いて?」
「いいよ、何がいい?」
「『献呈』」
「あぁ、気に入ってくれてうれしいよ」
慎一さんが弾いてくれるなら、何でもいいの。そうね、『献呈』も素敵な曲だけど、もっと長く聴くならもっと長い曲をリクエストすればいいのかな。今度リクエストするとしたら、リストの『バラード』かな、ベートーヴェンの『熱情』もいいな。私とはレパートリーが違うから、どれも聴きたい。ん?違うな。レパートリーは同じでも聴きたい。私と同じレパートリーで長い曲もある……。ドビュッシーの『プレリュード』、ベートーヴェンの『テレーゼ』、バッハ=ブゾーニの『シャコンヌ』……。
あ、考えていたら音が聴けなかった。慎一さんが弾くのをやめて、黙って私を見てる……。
「かおり?何を考えてた?」
「あ、ごめんなさい」
「謝ってほしいんじゃない。何を考えていたのか教えて?」
「……はい。もっと長く聴きたい時は、もっと長い曲をリクエストしようかなって」
「そんなことだったのか。短くても何回でも弾くし、長くても何でも弾くよ」
「ありがとう」
「どういたしまして……と言っても何でも弾けるわけじゃない。レパートリー増やさなくちゃ。聴いてくれてありがとう」
慎一さんは私にキスをして、楽譜の棚のところに行った。楽譜はすぐに見つかったみたいで、2冊持ってきた。
「じゃ、早速さらうことにする。かおりは聴いていてもいなくても、どちらでも」
楽譜を見たら、ベートーヴェンの『ハンマークラヴィーア』とバッハの『ゴルドベルグ』だった。うれしい。聴かなくてもイメージできる、慎一さんの音。『ハンマークラヴィーア』は落ち着いた中にも華やかで高級な感じ。『ゴルドベルグ』は、まろやかでミルクティーみたいな、粒のそろった、真珠みたいな……。想像するだけでも嬉しいし、聴かせてくれるのも幸せ……。
まだ、自分のものにしていない曲。かおりからのリクエスト「長い曲」。
有名な曲ではあるけれど、初見で聴かせるレベルの演奏をするのはきつい。そんな曲ではない。ざっと弾く時間は勿体ないな。やはりきちんとさらうことにするか。かおり、このリクエストはキツい。これはいつ仕上がるんだ?両方とも、通して弾くだけでも50分はかかる。先に『ハンマークラヴィーア』をさらった。
一息ついて横を見ると、かおりは、もう一台のピアノの椅子に座ったまま寝ていた。
かおりは「おうちのドレス」と名付けたネグリジェを着ている。何か掛けてやろう。寝ているとはいえ、近くにいてくれるのは嬉しい。僕は、ピアノの方を向いている長いソファに、かおりを寝かせることにした。
隣のピアノの椅子に座っているかおりを抱き上げようとすると、胸の中が見えそうになった。いや、何もつけていないことが見えた。かおりの腰のあたりも中の布地の存在を感じなくて、丸く撫でるとさらりと抵抗が無かった。かおりは、ネグリジェの下は何も着けないのが好きみたいだ。確かに、この生地は素肌にあてるのが正解だ。僕もその方が好みだ。
かおりをソファに寝かせた。僕がピアノを弾きながらかおりの顔が見えるような位置に寝かせて、毛布をかけた。
僕はまた練習に戻った。『ハンマークラヴィーア』は一旦おしまいにして、『ゴルドベルグ』をさらった。たまに、かおりの方を見ると、僕が寝かせたままの状態で寝ていた。僕は、何だかとても満足して、また練習を再開した。少し疲れたらかおりを見て、またさらった。何だこれは。防音してあるから夜でも弾けるし捗るし、最高だ。
深夜は、ライトをピアノのところだけにした。かおりからは光が直接見えないようにこちらを向けた。しかし、そうすると逆光になってしまい、練習の合間にかおりを見ても顔はわからなかった。かおりがそこにいることはわかるから、また今度工夫しよう。
意外に『ゴルドベルグ』は譜読みが終わった。まぁ、それなりに時間はかけた。それにしてもこの捗りかたは「かおり効果」とでも呼ぼうか。僕は、一人で笑った。
仕上げに、もう一回通してみよう。
『ゴルドベルグ』が聴こえる。私は目を閉じている。
まだ眠っている。ずっと聴こえる。今はピアニストが流れるように弾いている。綺麗。まるですぐ近くで弾いてくれているみたい。ピアノそのものの音もあたたかい。教授のピアノで、先生が弾いているみたいな。
先生が、教授のレッスンを受けているところを最後に聴かせてもらったのはいつだろう。チャイコフスキーのコンチェルトの時かな。私がオケパートを弾いて、先生が色彩も鮮やかなチャイコフスキーの世界を展開させていた。あれは本当に素敵だった。私も、先生の良さを生かすために、オーケストラの音を目指した。
ちょうどあの頃、学校の講堂でオーケストラの演奏会があった。シスター先生にお願いして、皆と同じ1階席の椅子じゃなく、3階席の一番前から、オーケストラを見下ろすようにして見せてもらった。いろいろな楽器の、いろいろな音色を、すぐ近くで感じられて、その後のレッスンでは、私のオケパートの音が良くなったと教授にも先生にもびっくりされた。私も、工夫したことや感動した音、再現したかったことをわかってくれて嬉しかった。そんなことを思い出しながら、『ゴルドベルグ』の丸く連なるフレーズを聴いていた。幸せ……。
この寝心地は、お部屋のソファーかな?
先生……大好き……。
もうすぐ日が昇りそうな時間までさらってしまった。僕も少しは寝ないと。かおりのことも、ベッドに寝かせないと。僕は、またかおりを抱いてベッドに寝かせた。
「……ん、先生……、だいすき……」
寝ている。最近ようやく名前で呼んでくれるようになったが、夢ではまだ「先生」か。懐かしいな。ずいぶん長いこと「先生」だった。もっと早く、気持ちを伝えればよかった。自信がなかった。勇気がなかった。ごめん。
かおり、17年待たせたね。
僕も大好きだよ。
朝のやさしい光がきた。私は朝の光が好き。お部屋の電気はいらない。慎一さんを起こさないように、そうっとピアノのところに行く。私はいつも5時に起きて勉強していた。ずうっと昔からだった。夜は眠いから。大抵、目覚ましがなくても起きることができた。
ピアノの譜面台の上に『ゴルドベルグ』の楽譜が置いてあった。何だろう?私は今、とても『ゴルドベルグ』を弾いてみたい気持ちになった。まだ弾いたことがない。でも、すごくたくさん聴いたような気がする。私は、私の楽譜じゃない、この楽譜を勝手に借りて弾いてみた。
こう弾きたい、が容易くできるみたいな感じだった。……不思議。……指が動く。頭が、曲を先へ先へと案内する。心が、一つ一つの音を優しく抱きしめるような、そんな初見ができた。
もう一回、最初から通してみよう。
違う弾き方ができるかもしれない。でも、心のままに、無心になって弾いてみたい。アリアから。
『ゴルドベルグ』を、僕はまださらってるのか?寝ながらさらっているのだろうか?手を動かすと、その感触は鍵盤ではなくてベッドだった。キングサイズのダブルベッドだから、広くて快適だ。でも、手を伸ばしてもかおりがいない。朝はいつもいない。
かおりはドレッサーで勉強していたり、キッチンで勉強していたり、ピアノのところにいたりする。いろいろ変えるのが新しい遊びのようだ。
あ、『ゴルドベルグ』はかおりが弾いているのか。上手いな。弾いたことがあっただろうか。……ないな。何ていうか、まるで僕が甘く弾いているみたいだ。僕と同じ演奏ではない。でも、かおりだけの演奏でもない。何ていうんだろう?かおりだけの音色なら、もっともっと甘い。これは、そんなに甘くない。なのに、すごく恥ずかしくなるくらい甘い。僕の演奏に似ているからだろうか。似ているのは当たり前だ。僕が一から教えた、自慢の生徒だ。そして、共に教授の教えを受けた、同門同士でもある。
また、かおりが欲しくなる。
僕は、広いベッドで蹲る。
まてよ、我慢する必要はない。
僕は、自分を無理矢理立ち上がらせて、ピアノを弾いているかおりのところに行った。
「あ、先生……おはよう」
「……もう、先生はおしまいにして?」
「慎一さん」
「おはよう」
わかった。
僕が飲むブラックコーヒーと、砂糖とミルクの入ったかおりのコーヒー。その後、キスしたらこういう音になるんだろう。
僕はピアノの前にそれをまず確かめることにしよう。
この新しい部屋で。




