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君が奏でる部屋  作者: 槇 慎一
3/148

3ロマンス




 僕が出場した「日本ピアノコンクール」は歴史があり、規模が大きくて参加者が多い。

 特に、僕が参加した年齢制限の無い一般部門は課題曲が多く審査にも時間がかかるため、平日も休日も関係なく長期間開催され、出場順によっては審査結果の発表までの待ち時間も長かった。


 その年の最終結果発表は平日の夜だった。

 会場が毎年変わるかどうかは知らないが、今年は僕と彼女がよく利用する駅の近くのホールだった。

 僕は、彼女が学校から帰宅する時間を見計らって「来てくれないか?」とメッセージを送った。


 暫くして、制服から私服に着替えた彼女が待ち合わせ場所に現れた。僕は浮き立つ心を抑えるのが大変だった。


 毎日のように僕の自宅で彼女のレッスンをしているが、いつからか『レッスンは制服』という約束になった為、私服で外で会うのは新鮮だった。


 デパートの高層階にある、フルーツとデザートが有名なティールームに入った。

 夕方というよりは、夜に近くなっていた。静かだし、コンクールの結果待ちでここに来る人はいない。時間をつぶすような店ではないし、高級なフルーツをふんだんに使ったデザートは値段もそれなりだ。彼女の笑顔をゆっくり見たかった。


 本番の後は、只でさえ精神状態が普通ではいられない。しかもコンクールの結果待ち……一位を狙っているという微妙な心境でもある。彼女にいきなりキスをしたのも先週だったし、彼女の反応にも疑問が残っていた。本当はいろいろな意味で落ち着かなかったが、口数の少ない彼女の前で平静を装うくらいなら大丈夫だった。


「来てくれてありがとう。何がいい? ごちそうするから」

 彼女の前にメニューを広げてあげると、にこにこしながら目をきょろきょろさせていた。


 彼女の目の動きが止まって、唇がきゅっとした。

「決まった?」と聞いたら頷いたので、店員を呼んだ。


 彼女は小さな声で「これをお願いします」とメニューを指していた。横顔も可愛いなと思いながら僕はコーヒーを注文した。


 店員が戻った後、二人の間に再び静寂な時間が訪れた。


 もちろん、こんなところで先週キスしたことを話題にするつもりはない。しかし、彼女はそれをどう思っていたのだろうか。僕はコンクールの結果よりも気にしていた。僕のことを、どう思っているだろうかと。


 長く待たされることもなく、ケーキが運ばれてきた。色鮮やかなフルーツを小さくカットして乗せてある、生クリームのケーキだった。かわいい彼女が、ますます愛らしい表情をして手を動かした。彼女はフォークでクリームをすくって小さな口に運んだ。いつも、この時の表情がかわいいんだ。来てよかった。


 瞬間、ハッと彼女の動きが止まって見慣れない表情をした。口許を手で押さえている。


「かおり、どうした?」

 彼女は答えなかった。

 目もぎゅっと瞑っている。

「かおり!何かあった?何か変だった?」

 彼女は動かないままだ。

「かおり!」

 少し大きな声を出してしまった。


 僕は彼女の手からフォークを取ってケーキを口に含んでみた。甘い。特に変わったことはない。飲み込んでみても、彼女がどうしたのかわからないままだった。


 店内に客は少なかった。僕は向かいのソファーに座っていた彼女の隣に移動した。


「どうした?何か言いにくいこと?」

 静かに、彼女の耳許でゆっくり聞いてみた。


 彼女は手で顔を押さえたまま下を向いてしまった。少し頬が赤いように見える……。急かさなければ、いつも彼女はちゃんと話してくれる。近くに人もいない。僕に……心を許してくれるだろうか。話してくれるだろうか。





「あの……」

 あ、大丈夫だ。話してくれる。

「なあに?」

「……先生、この前、私に……」

「うん。いつ?」

「あの、……『献呈』を弾いてくれた後……」

「キスしたこと? いやだった?」

「うん、ううん、あの……」

 どっちだ……。

 黙って待つ。









「……先生がしてくれたこと、うれしかったの。……それで……」

「うん。それで?」

 本心を聞きたかったのが、意外なところから解決した。安心した。


「そのあと……」

「うん。そのあと?」

「……あれから、甘いものを食べた時、同じ感じがして、果物もそうなの。味が同じなわけじゃないのに、食べたわけじゃないのに、どうしても、思い出しちゃって、恥ずかしくて、大好きなのに」


 え、大好きって……僕のこと?


「甘いもの、大好きなのに食べられないの。果物も」


 僕じゃなかった……。少しがっかりしながら、僕はソファーから立ち上がり、もともと座っていた向かいの椅子に戻った。


 原因はわかった。僕のことを男として意識してくれているみたいだから、今はそれでいいことにしよう。


「わかった。いやじゃなかったのなら安心したよ。美味しいから食べたら?」

「……はい」

とは言ったものの、フォークを持つ手が震えて、ケーキに何度もフォークを差し、形が崩れて大変な状況になった。必死になって可愛いな。その状態でそのフォークでは、僕でも無理だと思うよ。



「すみません。カスタードプリンと、スプーンをもう1つお願いします」

 僕は店員を呼び、勝手にオーダーした。


 彼女がプリンを好きなことはよく知っている。

 プリンはすぐに運ばれてきたし、スプーンも2つあった。僕はプリンを彼女の前に差し出した。そして、彼女の前の崩れてしまったケーキの皿を僕の方に寄せた。


「これは僕がいただくよ。たまには甘いものが食べたい。かおりは今日はこっちを食べたら?」

「……はい」



 僕はケーキをスプーンですくって食べた。彼女の唇の味は僕には感じない。時計を見た。彼女が来るまでは待ち時間をとても長く感じたのに、もうすぐ結果発表の時間だ。というより今から会場に移動しても、もう間に合わない。


 彼女を見ると、いつものような笑顔ではなく、ちょっと困ったような表情で、僕の方を見たり見なかったりしながら、少しずつプリンを口に入れていた。


 ……ちっとも進まない。


 甘いものが唇に触れる度に僕のことを思い出してくれるなんて……堪らないな。恥じらっているのか。嬉しかったと言ったか。自惚れそうだ。



 学校や家ではどうしているのだろうか。

 彼女がわざわざ人に言わなくても、この調子では勘のいい友達に詮索されるだろう。


 どんな反応をするのかな。

 お父さんは、まずいな。

 でも、相手が僕なら許してくれるかな。

 想像するだけでも楽しいかも。

 僕は一人で笑いそうになった。


 彼女が産まれた時のことから思い出せるほど、ゆっくりと時間が流れた。店内には、ベートーヴェンの『ロマンス』が流れていた。作品番号50。もしも弦楽器が弾けたなら、ほんの少しだけヴィブラートさせて、彼女の横で囁くように演奏してみたい。

 僕はいよいよ動きたくなくなり、閉店まで彼女を見つめていた。




 後日。

 表彰式を欠席した僕に、一般部門一位の賞状と、全部門総合グランプリのクリスタルの楯が、自宅に届いた。








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