24喪失感
再び目が覚めた時には、夕方になっていた。
かおりを教授のレッスンに連れていく時間だ。支度をしなければと、あわてて飛び起きた瞬間に気づいた。
……今日はレッスンがないんだ。もう、教授のレッスンがない……。それは、まるでこれから朝がこないかのような気持ちにさせた。僕は、身近な人が亡くなる経験をしていない。かおりもそうだ。こんなに突然に訪れるものなのか。
一人でいたくない。かおりに会いたい。かおりにはまだ言いたくない。それでも、かおりを無言で抱きしめたい衝動に駆られた。否、着替えよう。明るい色のシャツが目に入ったが、とてもそれを着る気持ちにはなれなかった。暗い色のパーカーを引っ掛けて外に出た。
かおりの学校は、携帯電話の持ち込みが禁止だから連絡はできない。僕は6時間めが終わる頃を見計らって、かおりの学校の近くまで行くことにした。
かおりが通う高等部は、幼稚部から大学まである女子校だ。大学だけが別の場所にあるキャンパスで、これから僕たちが住む教員住宅の近くだ。かおりは、家から徒歩10分のこの学校に、幼稚部から高等部まで通ってきた。かおりのお母さんも僕の母親もこの学校の同窓生で同じ学年だ。僕の母親は高等部を卒業した後、音楽大学に進み、かおりのお母さんはそのまま上の女子大に進み、卒業と同時に結婚して家庭に入ったと聞いている。僕が4月生まれでかおりが3月生まれだから、ほぼ5つ違う。
僕の5歳の誕生日に行われたピアノの発表会に、かおりが来てくれた。あの時はまだ産まれて数日だった。どんなにぐちゃぐちゃでも速く弾いたり、汚い音でも構わずにフォルテで弾くのがカッコいいと勘違いしていた当時の僕は、産まれたばかりのかわいいかおちゃんが発表会に来てくれたことで、自然に音に対する意識が変わった。普通の子供は、小学生になるまで演奏会場には入れない。静かに聴くのが難しいからだと母親が言っていた。けれど、かおちゃんはおとなしくて泣かないから、お父さんが僕のピアノを聴かせるために、連れて来てくれた。僕の出番が来て、お辞儀をしている時に、ホールの一番後ろのドアからそうっと入ってくるかおちゃんのお父さんが見えた。
僕は、あそこにいるかおちゃんが泣かないように、小さくてもキレイな音を届けよう。それに、力任せに叩くんじゃなく、フォルテでも遠くに響くように弾かなければ、かおちゃんはびっくりして泣いてしまうかもしれない。『エリーゼのために』という、この素敵な曲をかおちゃんに聴かせたいと思って、初めて心をこめて弾いた。かおちゃんとお父さんは、僕が弾き終わったら帰ってしまった。
母親の生徒さんや保護者が、僕のことを素晴らしいって言ってくれた。それまで、ピアノのことになると厳しかった母親が、人目も憚らずに泣きながら僕を抱きしめた。僕は何故だかわからなかった。かおちゃんとお父さんが帰ってしまって、寂しかったのに。どうしてすぐに帰ってしまったのか。会いたかったのに。話しかけたかったのに。ふっくらした頬を触りたかったのに。そう、あの寂しさに似ている。
そんなことを思い出しながら、僕は高等部の生徒が出入りする通用門の少し手前で、かおりを待ち伏せすることにした。目立たない格好をしてきたつもりだが、女子校の前だから当然女の子ばかり出てきて、妙に居心地が悪かった。僕が通う音楽大学だって圧倒的に女の人数が多いが、何だか雰囲気が全く違った。制服のせいなのか、年齢のせいなのだろうかと考えた。
通用門から出てきて僕の前を通りかかる女の子たちは、例外なくちょっと驚いて警戒しながらも会釈しながら通りすぎたり、お友達同士で小さくキャーキャー言いながら駅に向かった。僕は、ガードレールに寄りかかって下を向いていた。
「失礼します。槇さんではありませんか?」
何故ここに僕の名前を知っている人がいるんだ?と顔を上げたら、一緒にいた10人あまりの女の子が皆立ち止まった。僕に話しかけた女の子は、
「やっぱり。突然すみません。私はかおりの友人のマヤです」
と言った。
「あぁ、マヤちゃん。こんにちは。かおりからお友達と聞いている。初めまして、という気はしないな」
「えぇ、こちらこそ」
マヤちゃんは、確かにかおりの口から一番よく名前が出てくるお友達で、元気な女の子だった。何しろ座席が前後だとか。席替えの話は聞いたことがない。マヤちゃんはお友達が多く、リーダー的な存在だと想像していたが、今の状況からもまさしくその通りだった。かおりが慕っているし、マヤちゃんも、おとなしいかおりを皆の仲間にさりげなく入れるよう配慮してくれているらしい。僕はたちまち、10人程の女子高生に囲まれてしまった。
「かおりは?」
「かおりは居残りです。今日はピアノがないんですって?」
「あぁ。居残り? かおりが? 何か出来なかったの?」
マヤちゃん以外のお友達は、一際キャーッと叫んだ。何故だ、何がそんなに? 本当に元気な女の子たちだ。
マヤちゃんは、
「そうなんです。私からは言えませんが、多分あと一時間くらいで解放されると思います」
と、僕が欲しい情報をくれた。
「そうなんだ。教えてくれてありがとう」
「いえ、失礼いたします。ごきげんよう」
女の子たちも全員口々に「ごきげんよう」と僕にお辞儀をして、駅に向かって歩いていった。
そうか、マヤちゃんは僕の母親に似ているんだ。きっと、かおりのお母さんと僕の母親も、そんな感じだったのかなと思うと、微笑ましくて可笑しくて、僕は一人で笑った。
かおりのことを想うだけで、こんな時にも笑うことができるなんて。
かおり……僕はかおりと結婚できることになって幸せだ。
あと一時間くらい、こうしているさ。




