2愛の夢
先生がキスしてくれた。
びっくりしたけれど……うれしかった。
先生が私に『献呈』を聴かせてくれた。
音がなくなる時、先生の指先がゆっくりと鍵盤から離れ、その瞬間も、その余韻までもが美しくて、その静寂をこわしたくなかったのに……いつのまにか私の口が、「きれい」って言った。
いつの間にか先生が目の前にいて、肩に先生の手が置かれて、先生の手が頬触れて、あまりにも近すぎて思わず目を閉じたら唇に肌の温かさを感じた……。少したってから、先生にキスされているんだってわかった。
先生は、優しかった。
唇にキスされたのは初めて。
頬にはパパもキスするし、先生の先生……ロシア人の教授にも会う度にされる。
いつも、どうしたらいいかわからない。この前も、いつもよりすごくたくさんされて、ちょっと……すごく困った。抱きしめられちゃってるから逃げられないし。それにその後、先生が私に冷たくなるような気がして悲しくなる。どうすればよかったの。
教授の家からタクシーに乗っている間、先生はずっと私の手を握っていてくれたけど、先生はずっと反対側の窓の外を見ていたから、表情もわからなくて不安だった。だけど、握り方があまりにもやさしくて、あんな風に手を握られたのも初めてだった。
『献呈』の余韻の中で先生にキスされている間、どのくらいの時間だったのかわからないけれど、……とても長く感じられた。
キスしている時に、先生の大きな手が私の頬を包んでいて、逃げられない体勢で、恥ずかしいのに逃げたくなくて、唇があたたかくて心地よくて、私はずっとそのままで動けなかった。
ずっとずっと、そのままでいたかった。
先生の体が離れて、ようやく私に笑顔を見せてくれた。
先生が私に「ありがとう」って言った。
「ありがとう」って何だろう。
「ありがとう」って何に?
唇のキスって、好きな人にするんでしょう? 誰にでも、しないんでしょう? それとも、大人は違うの?先生は私のことを好き? 生徒として? それとも特別な……?
キスの意味も、「ありがとう」の意味もわからなかった。
何て聞いたらいいかわからなくて、聞けなかった。
聞いたら、先生が困るような気がして、聞けなかった。
何よりも、返事がこわくて、聞けなかった。
最後に、先生が優しい目をしてくれてうれしかった。
子供の頃にコンクールで弾いた『愛の夢』より、教授と先生の前で弾いた『愛の夢』より、今ならもっと綺麗な音でピアノが弾けるような気がした。
先生がいないところで弾いてみたい。
先生はすごく年上だし、私のこと、とても大切な生徒だと思ってくれているのはわかっているつもり。そうじゃなければ、ここまで頑張ったりしない。
もし……例え先生が私のことを好きでも、先生は私に好きとか言わないと思うし、つきあうとかそんな風にならないと思う。想像がつかない。だから、私だけの『愛の夢』でいい。先生には聴かれたくない。聴いたら、先生が困るかもしれないから。
今日の昼休みにもそんな話になった。
「ね、かおりならすぐ彼氏できるよ!」
あ、私?
急に思い出したように意識が戻る。皆が私を見ていた。
「え? えっと…………」
「やっぱりピアノの先生が好きなの?」
そこはすぐにうんと頷いた。
私だけ彼氏がいなかった。
「お兄ちゃんみたいだよね。妹だと思われてない?」
「それは……大丈夫。お兄ちゃんとよんではいけないよって、言われたことがあるから」
「でも、それで『先生』なんでしょ?」
私はまた頷いた。
「それじゃあ、脈無しじゃない?」
向こうから、ぼそりとつぶやく声が聞こえた。
円になった私達の、一番向こうにいたエミカちゃんだった。
皆が一瞬で静かになった。
みゃくなし……って、なに?
なんだろう、この空気。なんだかいやだ。
私が、何かよくないことを言ったのかな。
ちょうど予鈴が鳴った。
学校のチャイムの音は外国の鐘を思わせる音でキレイ。聴き慣れた、鐘の音の余韻を感じながら、私の体は自然に次の授業へと動いた。
皆も、立ち上がって教室へと向かう。
「かおり、待って」
マヤちゃんが私の腕を優しく押さえた。
スカーフを結び直してくれるみたい。私はそのまま止まって、いつものように顔を少しななめにする。
まだ、うまく結べないスカーフは、輪っかになって止まってはいるけれど形が変で、毎日違う角度で縦になっていたり左右の長さがちぐはぐになる。今日は結び目が決まらなくてほどけそうになっていた。曲がったリボンは、演奏がうまくいかない音楽みたいで……まるで不完全な私自身みたいで、美しくなかった。
マヤちゃんは、今日みたいな時や体育の後、いつもリボンを結んでくれた。最後にきゅっとする時、ぐらぐらしている私自身がまっすぐになるような気がして、安心する。いつも結んでほしい。不安になるたびに結び直してほしい。
「これで大丈夫。かおりの気持ちも、大丈夫。先生とのこと、応援してるからね」
「……ありがとう」
「行こう!」
先生がいいの。
いつもやさしい先生。私に微笑んでくれる笑顔。大きな声を出さないし、ゆっくり話してくれる。私がうまく言えない時でも、待ってくれる。
先生じゃないなら、彼氏なんていらない。ずっと先生でいてくれたらいい。
先生に彼女がいてほしくない。彼女がいるかどうかはわからない。聞けないし、知りたくない。知るのはこわい。
だから、今のままでいいの。
私はピアノを頑張るから。