110 僕の両親2
タクシーの運転手に社宅の住所を伝えると、直ぐに理解された。
社内で『家族社宅』と呼ばれるその建物は、所謂高級マンションだった。一階と聞いていたが、一階は一世帯だけだった。
玄関から最初に開けた大きなドアの先は、軽くホームパーティーができる広いリビングだった。想像以上だ。商社の建物だから、海外からのお客様を滞在させる広さと設備だとは聞いていたが、なるほどね。
俺自身、訳ありで富裕層の出身だ。実家よりは勿論狭いが、ここは都心だ。こういう雰囲気は久しぶり……悪くないという感じだった。
るり子はしゃべらなかった。
意外と冷静で、キッチンで手を洗い、食器戸棚の中や辺りを見回していた。数え切れないほどの食器がある。その目の動きは、初めて来たようには感じられなかった。
「来たことあるの?」
「この真上が悦子の家だから、そちらに何度か……」
なるほど。
「間取りも同じ?」
「……そうみたい」
「見てみようか」
俺はるり子の手を引いた。
隣にも広い部屋。その隣には少し小さい部屋。その次の部屋は……キングサイズのダブルベッドが置かれた広い寝室だった。外国人もゆったりできそうな造りだ。
バスルームもパウダールームも二つ。
一周してリビングに戻ってきた。
ドレス姿のるり子をソファに座らせ、俺は床に膝をついた。顔が近くなった。綺麗だ。
「無理矢理連れてきて悪かった。帰りたい?」
「……自分の意志で、来ています。帰りたくなんて……」
俺は黙ってるり子を見つめた。
「……帰りたくないです」
じゃあ…………。
「抱いてもいい?」
途端に、るり子が緊張したのがわかった。
「……初めてだし、どうしたらいいか、わかりません」
「どうするかはわからなくていい。俺と、嫌かどうか聞いてる」
るり子が少し震えていた。気が強そうなのに可愛いと思った。心配しなくても、無理矢理なんてしないさ。
「嫌じゃ……ないです」
俺は床に膝をついた状態から、るり子にキスをした。るり子はキスも初めてなのだろう。慣れていないのがすぐにわかった。できるだけ優しくした。
俺はキスを続けながらるり子の髪をほどいた。ピンがいくつか刺さっていた。髪を引っ張らないように、手櫛で何もひっかからなくなるまで撫でた。るり子は落ち着いていた。
髪をおろすと益々色っぽくなっていた。好みだ。
「俺も、ドレス姿の美人を抱くのは初めて」
と言って見つめたらサッと赤くなり、恥ずかしがる様が堪らなかった。
俺はるり子を抱き上げて、広い寝室に連れて行った。
俺にギュッとしがみつくるり子は可愛かった。
今まで、こんなに可愛いとか愛おしく感じた女はいない。俺はこの身長と外見で、様々な女が寄ってきた。俺の内面を見てくれる女を選別するのは面倒だった。俺が試すようにちょっと我儘を言っても、大概言いなりになる。中身があると思わせる女はいなかった。
興味があるならと美術館やクラシックのコンサートに誘ってみても、本当は然して楽しんでいない様子だった。演奏者への拍手も、何も感じていないかのようなものだった。
そこから音楽なり美術なり好きになってくれればと思ったが、内心つまらないと思っているのはこちらにも伝わってきた。それは、俺のことがつまらないのと同じだろう。
俺自身は面白い奴なんかじゃない。だからこそ、芸術に触れて癒やされ、感動するのだ。それを生み出せる芸術家を心から尊敬できるから。
贅沢な悩みだが、デートした程度の女はたくさんいた。それ以上深入りされないよう、躱していた。俺が惹かれる女がよかった。
るり子には、会う前から惹かれていた。
チラシの写真、知らない曲ばかりのプログラム。曲目解説の知的な文章、情熱的な演奏。会ってみて、ますます惹かれた。自分の意見をはっきり言えることも好みだし、感情をむき出しにした表情も可愛いと思った。逃したくない。
るり子、同じくらい俺に夢中になれ。
今夜は感じてくれるだけでいいから……。
翌朝。
携帯電話の音で目が覚めた。現実に。
俺はベッドサイドの椅子に掛けたままのスーツのポケットからそれを出した。会社から持たされていたものだ。土曜日だぞ……遅れている仕事はない筈だった。出てみたら藤原さんだった。
「槇君おはよう。社宅にいる?ドアに朝食を掛けておいた。何か必要だったら連絡して」
珍しく、やけに早口だった。俺が返事をする前に切れた。気を使ったのだろう。
るり子はまだ眠っていた。……疲れているよな。当分起きないだろう。
俺はスラックスと昨日のシャツを引っ掛けて玄関に行ってみた。
ドアを開けると、朝日が眩しかった。
玄関のドアの外側に袋が掛かっていた。キッチンに行って中身を出してみると、サンドウィッチとサラダが二つずつ。お湯で溶かすだけの粉コーヒーにフルーツヨーグルト。休日の朝なのに、上司にコンビニに行かせてしまったのか。心遣いが有り難かった。
俺はお湯を沸かしてコーヒーを入れた。食器棚にあった適当な皿に乗せてトレーでリビングに運んだ。
るり子はまだ寝ていた。
俺はシャワーを浴びた。
俺は心を決めて出掛けることにした。休日なのに昨日と同じシャツにスーツ。早く着替えたかった。洋服ではなく、新しい物に。
目当ての物を揃え、マンションの上の階の藤原さん宅に行った。プライベートなことなのに、まるで仕事の顔みたいだった。真面目な藤原さんらしい。
藤原さんは、俺のお願いを快く聞いてくれた。
一晩経っただけだ。
まだ引き返すことはできる。
るり子、決心できるか?




