108 かおりの両親7
翌年の四月。
槇君夫妻のところに男の子が産まれた。
夜、悦子を連れてるり子さんに会いに行った。個人の病室は静かで、槇君もいた。若くして父親となった槇君に、僕は心からの「おめでとう」を伝えた。
悦子は赤ちゃんを見て、自然とそちらに歩み寄り、ふわぁっとした表情になった。繊細で怖がりな彼女の、そんな表情を僕は初めて見た。
「……私も……赤ちゃんがほしい……」
悦子がるり子さんにそう言った。
僕は驚いた。
るり子さんが、
「悦子、ご主人様にお願いするのよ?」
と言うと悦子は「うん」と言って、にこっとした。今まで見た中で一番可愛らしい表情だった。
恥ずかしくて、なのに嬉しくて。槇君に後でどんなに誂われても仕方がない。向こうを向くしかなかった。
それと前後して悦子は鉛筆を持てるようになり、いくつもの線を書くようになっていた。僕がそれを側で見ていても、悦子は嫌がらなかった。
少しずつ段階が進み、何を描こうとしているのか、何を描いたのかが僕にもわかるようになった。魔法のようにゆっくりじわじわとあふれ出てくるような鉛筆の芯の跡……。僕は、毎日帰宅後にそれを見るのが楽しみだったし、休日には一日中でも………その過程を見ているのは幸せだった。
それは確かに僕の幸せであった。
同時に、悦子の幸せを体現するものでもあった。
まだ鉛筆だけで、色はつけていなかった。
悦子は書きかけた下絵を何度も何度も見ては、涙したりしていた。何の涙なのかはわからなかった。聞くことは出来なかった。絵筆を持とうとすると、心が震えているのがわかったから…………。
小さな絵に、赤い色の絵の具をのせられた時……僕はその瞬間を見ることができた。悦子の横顔が、得も言われぬ美しさで、初めてその唇に自分の唇を重ねた。悦子を一層愛しく思った。
後日。
会社で昼休みに槇君と会った。たまたま僕達二人だけだった。
「悦子が、鉛筆で描いたものに絵の具を乗せられるようになった」
と報告した。
綺麗な赤で、初めてキスをしたことも話した。言わないつもりだったのだが、嬉しくてつい話してしまった。その先は他の人が来たので話はしなかった。槇君に感謝していると伝えたかったのだがタイミング悪く、言葉足らずで不甲斐ない。
それからというもの、悦子の手からは小さいながらも明るい色の「絵」が生まれるようになった。「線」に色がつき、「絵」になっていく様は、僕が待ち焦がれた幸福そのものだった。
僕達に待望の娘が産まれたのは、槇君夫妻の息子である慎一君が産まれた五年後のことだった。
娘は可愛くて可愛くてたまらなかった。白い肌の色、閉じた目元、瞳の色、鼻筋、小さな唇、全て悦子に似ていた。声も発しない、滅多に泣くことのない、おとなしい静かな子だった。
悦子が入院中、慎一君は「いいかおりでしょ?」と花束を持ってきてくれた。槇君によく似た明るい少年のその言葉で、娘の名前を『かおり』と一緒に決めた。慎一君は、僕が行けなかった日にも来ていて、毎日可愛がっていてくれたという。感謝の気持ちでいっぱいだった。
娘は慎一君の弾くピアノが大好きだったようだ。ピアノの音がしていると笑顔になった。
それからも慎一君は、ずっと娘を大切にしてくれた。
僕はいつでも慎一君に渡す覚悟で娘を育てた。しかし僕は、海外勤務を含む転勤をしない選択をしたことで更に忙しくなったし、悦子は普通の生活、普通の育児をすることも難しかった。娘は殆どるり子さんの家族に育ててもらったようなものだ。
娘は悦子に似ていた。
多くは望まない。
とにかく笑顔でいてほしい。
娘に望むのはそれだけだった。
娘は、慎一君のことが好きだった。慎一君は娘にずっとピアノを教えてくれていた。この家にはピアノがない。僕はピアノのことはわからない。応援したいが、具体的に何を応援したらよいかわからず、結果何も応援しないのと同じだっただろう。
慎一君は娘を好きだろうか……。彼の未来を縛ることになってもいけないし……と逡巡した。僕は不器用な父親だったろう。せめて普通の女の子として、普通の男の子に好まれるようにと案じた。
年頃になった慎一君は、礼儀正しく僕に結婚の許可を取り、僕の目の前で娘にプロポーズした。
娘の返事は、悦子が僕のプロポーズに応えた時の言葉と同じで、堪らなく愛らしかった。
僕はその後席を外した。そっと扉を閉める際、慎一君が娘に優しくキスをする瞬間を見てしまった。娘はそのまま受け入れていた。悔しいなんて気持ちは微塵もない。これでいいのだ。
過保護だとか親馬鹿だと言われても構わない。
慎一君と娘には、あんな後悔や心の傷など、無縁で生きていってほしいから。
そうして僕達は、再び愛する悦子と二人の生活になった。
娘と慎一君は時々やってきて、笑顔を見せてくれる。
悦子も、絵を描きながら僕に微笑んでくれる。
まるで、幸せを描いたような絵。美しい色づかい。差し込んだあたたかい光の線。
僕は、絵筆を置いた悦子の手を握った。




