105 かおりの両親4
彼女ができた。
初めての彼女だ。物静かで控えめで綺麗な彼女。嬉しくてたまらない。
出会ったのは美術館で、初デートも同じ美術館。それから何回かデートを重ねた。
ちょっと普通じゃないのは、いつも彼女の親友のるり子さんが一緒なことだ。彼女はとてもおとなしいし、僕に何か言い出せない時、るり子さんにお願いしている。そのうち、僕に何でも話してほしい。慣れたらでもいい。
そんな訳で、常に三人でのデートだった。るり子さんが一緒にいると安心ならば、それでも構わないと伝えてある。るり子さんは、初デートの時から僕に遠慮していたし、彼女が男性に対して怖い思いをしたことを気にしている。この怖さは、彼女にしかわからないだろう。だから、男性が怖くなくなるまで、僕と二人でいても大丈夫になるまで、彼女が望むだけ一緒にいてほしいと伝えてある。
るり子さんと僕は、彼女に代わって電話でたくさんのやりとりをした。デートの約束をはじめ、主に伝言だ。ついでに、僕達はおしゃべりもした。彼女とるり子さんは女子校出身で、彼女は女の子同士でもおとなしいこと、行動がちょっとゆっくりなこと。彼女もるり子さんも男性と付き合ったことがないこと。家庭の雰囲気も想像することができた。僕から見ると、二人ともお嬢様で、厳格な家庭らしかった。僕は、彼女が望むかどうかわからないが、「御両親に紹介してほしい」と仄めかしてある。真面目に付き合い、いずれ将来を考えているのだと伝えたかった。
彼女はとても純粋で、両親に対してありのままを受け入れてもらっていないように感じた。怖がりなのは元からか、もしくはあの事件の影響だろうか、それはわからない。一人娘ということだし、結婚するならきちんとしたい。僕はどう進めていくか、悩んだ。
家族社宅は三月中旬に空くことが正式に決まり、上司の紹介で僕が契約した。
るり子さんは大学院進学が決まっていることを知ったが彼女の進路を知らない。僕は、それを聞いてもいいのかどうか、迷った。
もし予定がなくて僕と結婚してくれるなら、こんな嬉しいことはない。しかし、まだ彼女から両親に紹介する話もないし、卒業後どうするのかも聞き出すことができなかった。
就職が決まっているならば四月からの予定、その前にもいろいろ準備がある筈だが、どうもそういう気配は感じられなかった。
三月になったばかりのある日、彼女から連絡をもらった。そう、彼女からも電話をもらえるようになったのだ。これは、僕達にとって大きな進歩だった。少し、慣れてくれたようだった。
「あの、三月◯日の◯曜日の、午後18時から……一時間でもいいから会いたいんですけど、ご都合は、いかがですか?」
珍しく、細かい約束を要求してきた。何か大切なことなのだろうか。平日の微妙な時間だが、多分大丈夫だろう。
その頃には社宅の鍵を受け取っている。家具もある。もしかすると……と、淡い期待も抱くようになった。まだ手を触れてもいなかったのに。
待ち合わせする私鉄の駅の改札で、時間通りに現れなかったら約束は無しにする、ということになった。駅の改札に掲示板はあったが、悪戯等で消されることもある。
僕は、上司にもその日に私事で大切な約束があるとお願いし、できることを前倒しして済ませ、他の部署から余計な仕事を頼まれないよう、別の場所で仕事をしたりした。
約束の日。
約束の時間に待ち合わせした駅の改札に着くと、余所行きのような綺麗な洋服を着た彼女がいた。僕は仕事のスーツだからそこそこ整えていたが、彼女の綺麗さには叶わなかった。
彼女が僕を見て嬉しそうにした。その表情を見て、僕はたまらなく幸せだった。
何だか照れてしまい、つい「るり子さんはまだかな?」と聞いてしまった。
「今日は、るり子は……」
「えっ?」
彼女は何か言い淀んだ。もしかして今日は僕達二人?
「るり子は、後で会える」
「あぁ、そうなんだ」
僕は、あまりがっかりしたように悟られないよう、いつもの笑顔で対応した。
「この駅は降りたことがない。どこに案内してくれるの?」
「……るり子の大学」
僕達は黙って歩いた。歩く速度もわかる。彼女もるり子さんも、女性の中では背が高い方だ。僕が少しゆっくり歩く速度で丁度良かった。
数分後に到着したのは音楽大学だった。彼女が女子大学なのは聞いていたが、るり子さんは音楽大学だったのか。高校が一緒で、二人とも芸術関係とは。僕は長い間の秘密を知ることができたようだった。
今日の午後、この音楽大学の卒業式があり、これからここで演奏会があるらしい。大学関係者以外の人間も無料で聴くことができる……と彼女が教えてくれた。
受付でもらったプログラムにある名前を見てびっくりした。最終演奏者の名前が、るり子さんだったのだ。
僕は音楽には特別詳しくないが、こういった催し物の最後というのは、一番優れた人物が担当するのだろう。るり子さんが音楽大学の学生だったことも、今知ったばかりだ。僕は静かなホールの中で、彼女と並んで座った。
デートと呼ぶには大変晴れがましい、質の良い演奏会だった。仕事の都合がついて、本当によかった。僕の我が儘な願いを聞いてくれた上司に感謝した。
卒業演奏会は、卒業生の人数に対してほんの少しの人数だということもわかった。ホールに大勢いる袴姿の学生は卒業生だし、皆、学友の演奏を真剣に聴いていた。美術も素敵だが、音楽も素敵だ。若い学生達の瑞々しい演奏姿に、僕は胸が熱くなった。
そして、最後に赤いドレスを着たるり子さんが舞台に出てきた。礼儀正しく、明るくハキハキと元気で、いつも彼女の世話を焼いている。僕達に対してもどかしい思いをさせてしまっているであろう、僕のキューピッド。一人で大きな舞台に立つるり子さんは、いつもと違う雰囲気だった。
演奏からは、非常に鋭敏な感覚の持ち主で、音楽に対する並々ならぬ情熱を感じた。素晴らしくて、後はもう何と表現したらよいかわからなかった。
隣に座っていた彼女が泣いていた。僕はハンカチを差し出し、彼女がハンカチで目を押さえた反対の手を握った。手を握れるのはいつになるかと思っていたが、それは自然にそうすることができた。彼女は一瞬だけびっくりしたようだが、僕の手の中で嫌がらないでいてくれた。細くて、折れそうで、あたたかい手だった。
「……るり子に、会いに行く」
どうやって会いに行くのか、会えるものなのかどうかわからなかったが、ロビーに出てみると、ドレスのままのるり子さんがやって来た。
「悦子!」
「るり子!すごくよかった!」
「ありがとう!」
二人で抱きしめあっていた。僕は邪魔したくなくて、待っていた。
「……一緒に来たの」
彼女が僕を目で指し示した。
「演奏、すごく良かったです」
僕は感想を上手く伝える自信がなく、とにかく一言でもと、それだけ伝えた。
「ありがとうございます。……よかった。二人で。今日は悦子が一人で行くって。あなたに会いに一人で行くって言ったの。よかった。ありがとう。悦子を、よろしくお願いします」
るり子さんが泣きながら言った。
「そうだったのか。大切にすると誓うよ。ありがとう」
僕も、一言ずつ伝えた。
るり子さんは、一言一言噛み締めるように言った。
「私は今日、一緒に帰れません。両親が来ているから……。あ、いた。紹介します」
今日は僕が送っていくのか。顔が緩みそうだったが、先にるり子さんの御両親に挨拶することになった。
るり子さんが僕を紹介してくれた。
「お父様、お母様、悦子とお付き合いしている方です」
「今晩は。初めまして」
僕は頭を下げた。
「いつもお電話くださった方ね。悦子ちゃん、いい方がいらして~」
「恐れ入ります」
彼女は、るり子さんに手を振って見送った。
僕達は会場を後にした。
今日は彼女を家に送って行こう。
初めてだ。
僕は嬉しさと緊張で、武者震いした。




