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君が奏でる部屋  作者: 槇 慎一
1/148

1献呈

 


 



 これは、いつか君に伝えたい物語。

 僕がこれを語る時、君はどんな風になっているのだろうか。

 





 晩夏。


 僕は、ロシア人の教授の自宅でピアノのレッスンを受けている。コンクールが近い。今年一位を獲りたい。来年は大学四年になる。それだと遅い。ある程度の勝算はある。


 今年の春、僕は学内の大学院生までが参加できるオーディションで、ピアノコンチェルトのソリストとして演奏する権利を獲得した。それはコンクールのための練習だ。その他のプログラムも入念に準備してある。絶対にこの秋のコンクールで一位を獲りたい。


 来年は来年の目標がある。大学を卒業したら大学院には進学せず、『日本ピアノコンクールグランプリ』という肩書きをもって仕事をしたい。もしコンクール一位が叶わなかったら、周囲からは大学院進学を勧められるだろう。その場合、就職の準備ができない。一位でなければダメな理由がある。


 誰にも打ち明けていない夢がある。そのために、経済的に自立したい。しかし、何度演奏しても教授が納得しない。コンクールで演奏する他のプログラムは許可を得ている。リスト作曲の『献呈』だけ、教授は首を縦に振らない。諦められているわけでもない。この曲だけ、何故だ。何処が良くなくて、僕に何が足りないのかわからない。



 沈黙の後、教授がロシア語で僕に言った。

「君の彼女の演奏を聴きたい」

「……来られるかどうか、聞いてみます」

 僕も静かにロシア語で答え、携帯で彼女に電話をした。


「いきなりごめん。今から教授の家に来られる?」

「はい」

「帰りは送るから、お父さんにそう言って。気をつけて来て」

「はい」

 まだ外は暗くなっていない。



 彼女とは、僕の生徒であり、幼なじみだ。

 僕の母親はピアニストで、母親が僕にピアノを教えたように、僕が彼女にピアノを教えた。最初は遊んでいただけだった。

 彼女はとても素直で、彼女が弾いたいくつかの音のかたまりを、僕がより美しいイントネーションで弾いて聴かせ、真似させた。音で言葉を話すように、常により美しいフレーズになるように、代わる代わる音で会話した。そんな風に毎日一緒に過ごしたから、相応に上手くなった。



 彼女が来た。

 教授は彼女を抱きしめて頬擦りした。

 彼女には、少しだけ日本語を使う。

「アイタカッタヨ!『アイノユメ』ヒケル?」

「はい」

 彼女は驚きつつも笑顔で応えて演奏の準備をした。突然呼び出しておいて突然弾かせるなんて。彼女は僕のもの、とは言えないが、嫌な気持ちだった。


 かつて、僕は彼女に、この曲を教えてコンクールに出場させたことがある。彼女は普通の女の子より背が高く、手が大きく、指も長かった。小学校高学年でリスト作曲の『愛の夢』が弾けた。


 明るいグレーのボレロとスカートに白いブラウス。襟もとに赤……フレンチ・バーミリオンという、聖母マリアを意味する赤いリボンを結んだ清楚な私学の制服姿で、容姿も愛らしく、選曲も演奏も運も良く、審査員特別賞をもらえた。笑顔で賞状を受け取り、僕にそれを見せに来て、にこっと笑った。


 少女の頃の愛らしさをそのままに、成長して綺麗になった彼女は、今も音をいとおしむように丁寧に音を奏でている。




 演奏が終わった。

 教授は、

「スバラシイ!」

と言いながら彼女を抱きしめて、両方の頬に何度もキスをした。

 僕の演奏では、全く愛情が伝わってこないと言ったのに。

 

 確かに彼女の演奏は美しかったし、愛情が感じられた。しかし、それは僕に向けられたものなのだろうか。僕に足りないものは愛情なのか。愛情ならある。あるに決まっている。でも、彼女には気持ちを伝えていない。こんな僕ではまだ言えない。音でも伝えられる気がしない。


 それにしても……。

 僕は彼女にキスしたことはない。

 子供の頃は別として、抱きしめたこともない。

 まだ気持ちを伝えていない。


 僕は、怒りを抑えて静かに教授に言った。

 彼女にわからないようロシア語で。

「……教授、……僕はまだ彼女にキスをしたことがありません。……抱きしめたことも……」

 教授もロシア語で返してきた。

「すればいいじゃない。彼女の演奏からは愛が伝わってきたでしょう。彼女はキミのことが好きだって、ちゃんと音で表現してるのに、キミはただ普通に弾くだけで何も伝わってこない。何してるの」


 悔しい。僕だって本当は彼女に好きだと伝えて、彼女を抱きしめてキスしたい。彼女を僕の本当の『彼女』にしたい。


 悔しい。ピアノで教授を感動させられないことも。


 もう弾ける気がしなかった。

 弾きたくなかった。


 今日のレッスンは終わりだろう。いつも時間は無制限で決まっていない。僕はレッスン代の入った封筒を教授に渡してお礼を言おうとしたが、教授は受け取らずに奥へ行って戻ってこなかった。封筒はそのまま僕の鞄の中に収まった。





 彼女と一緒に教授の家を出ると、夜になっていた。そうだよな。帰りたくなかった。でも彼女を家に送らないといけない。彼女はまだ高校生だし、お父さんの手前あまり遅くなるわけにもいかなかった。


 人が大勢いるラッシュの電車に乗りたくない、駅前の明るい商店街も通りたくなくて、足は自然に駅とは逆方向に歩き出した。彼女に顔を見られたくない。彼女は不思議そうにしながらも、黙って僕についてきた。


 彼女は余計なことを話さない。ほとんど話さないけれど表情が豊かで、よく考えてゆっくりと大切な言葉だけを話す。いつも静かに僕のそばにいてくれる。それがとても落ち着くし、愛しい。



 タクシーが通りかかり、僕は咄嗟に手を上げた。渡せなかったレッスン代で家まで帰れるだろう。車の中で彼女と二人になれる。


 彼女を先に乗せ、僕は後から乗って運転手に行き先を告げた。


 冷房の効いた暗い後部座席で、僕は彼女に顔を見せないよう反対側の窓の外を見ていた。僕はそっと右手を伸ばし、少しだけ離れて座っている彼女の左手を握った。


 彼女は一瞬こちらを向き、その後下を向いて、そのままずっと僕の手の中にいてくれた。教授が彼女にしたことへの怒り、それに対して彼女がいやがらなかったこと、彼女への想い、うまくいかないピアノへの気持ち、コンクールへの焦り、苛立ち、様々な感情が混ぜあわされて暗く重く沈んでいたのが、時間と静けさの中でだんだん浄化されていった。


 やわらかい手だった。彼女をレッスンする時に、指先や手に触れることなんていくらでもあるのに、全く別物だった。当然だ。意味が違う。いやがってはいないようだ。僕の手の中で溶けるような、なんとも形容し難いものを壊さないよう、やわらかく握りしめた。


 僕がキスしたら彼女はどうするだろうか。この手と同じように、溶けあわされるだろうか。……いやがるかもしれない。いつ、どのタイミングで。ある程度近くにいないとできない。してもいいのだろうか……。握った手の温かさに勇気が湧いてくるような気がしたが、答えはすぐに出なかった。焦っちゃだめだ。彼女を怯えさせたくない。



 僕の家に着いた。

 ラッシュの時間帯だったが、電車の乗り換えもなくタクシーで帰れた分、時計の針は少ししか進んでいなかった。渋滞していたら、もっと彼女の手を握っていられたのに。


 まだ帰したくない。

「ごめん、もう少しつきあって。うちでピアノ聴いて」

と言った。彼女はついてきた。


 レッスン後、気持ちの整理のつかない僕に励ますでもなく気を使う訳でもなく、ただただ黙って側にいてくれる。そんな彼女に救われている。彼女の方を見たら、にこっとしてくれた。かわいい。いつもかわいい。昔から変わらず、ずっとかわいい。どんなに気持ちが塞いでいても、彼女が笑顔を向けてくれれば必ず僕もそうすることができる。



 僕の家のリビングにあるピアノの椅子の隣に、別の椅子を持ってきて、そこに彼女を座らせた。



 僕は数小節ほど心を落ち着けた後、『献呈』を弾いた。


 もう、この時には教授が彼女に触れた怒りも、苛立ちも忘れて、ただただ彼女の愛らしさと、何も言わずに側にいてくれることへの感謝をこめて弾いた。短い曲ながらいつしか夢中になり、彼女がそこにいたことも忘れる程だった。いや、忘れる筈はないのだが。


 演奏が終わり、伸ばした音のペダルと指とを、鍵盤からゆっくりと離して膝に置いた。


 そちらを見たら、彼女の頬を光るものが下に落ちていった。

「……綺麗……」

 彼女がぽつりと言った。

 瞬間、彼女に吸い寄せられるように膝を落として唇を重ね、長いことそうしていた。


 初めて彼女にキスしたのは、そんなタイミングだった。





 僕が弾くピアノに彼女への愛情が伝わり、その音が彼女に「綺麗」と言わせてくれたのなら、こんなに嬉しいことはない。コンクールだとかグランプリだとか、どうでもよくなった。

 僕は、自分と自分の音楽を取り戻すことができた。


 結果、そのコンクールで僕は部門一位と総合優勝であるグランプリを獲得した。


 審査員からの講評用紙を受け取った。コンテスタントが貰える審査用紙には、審査員の名前とともに点数とコメントが書かれる。パラパラとめくると、ロシア語で書かれたものがあり、一番に読んだ。


「数々のプログラムの中でも特に『献呈』が素晴らしかった。弱音からのフレーズは繊細かつ美しく、フォルテからは溢れるような豊かな愛情が感じられました。自然と涙がこぼれてきました。綺麗な音楽をありがとう。『愛の夢』の女神のおかげかな」


 やられた。策士だな。

 それは、彼女にもらった、形のない幸せな気持ちだった。












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