第十四話『醜く愚かな心の痛み』
物語は動き出す。
天道史奈は嘘をつかない。
彼女は嘘をつかない人間だ。でも、最近は自分に気付けていない。結果的に、自分に嘘をついている。
俺は嘘が嫌いだ。
嘘をつかれたと知った時、酷く傷ついたから。俺は嘘をつきたくない。
そんな俺はどうだろうか。自分に、嘘をついているのだろうか。
過去を美化して記憶に植え付けることは、嘘に該当するのだろうか。
過去の自分が優れていると思うのは、きっと今の自分を下に見ているからだろう。実際は優れているわけではない。正確には昔の方がマシ、という表現が正しい。
今の自分を下に見れば見るほど、過去は輝いていく。ならば下に見なければいい、という話なのだが。
どうしても、今の自分を受け入れられない。変化を簡単に受け入れることができない。そんなのは自分らしくないと、つまらないプライドが邪魔をしてくる。
どうして受け入れてやれないんだ。
心のどこかで認めているはずなのに、つまらないプライドが邪魔をする。いくら剥がそうとしても、そのプライドは全く剥がれてくれない。
そもそも自分らしさというものを分かっていないのに、分かった気になってそうであろうとする。
改めて自分を分析すればするほど、どうしようもないくらいに醜くて、愚かなことに気が付いてしまう。
だから、怖いのだ。
受け入れて、これ以上傷つきたくないから、前に進もうとしない。
前に進まなければ何も変わらない。何もせずに変化があったのなら、変わったのはお前ではない。周りだ。お前は、何一つ変わっちゃいない。
そこまで思考し、無意識のうちに史奈さんを受け入れていることに気付く。
そして同時に、史奈さんに理想を抱いてしまっている。過去にも、同じように期待して失敗してしまったのに。
だから、過去の方がマシだと思ってしまったのだ。過去の俺ならば、史奈さんを受け入れることなく拒絶しただろう。
いや、過去の俺も、あの人に興味を持ってしまうかもしれない。
出会うタイミングがどうであれ、史奈さんは俺を欲するはずだ。
なら、今俺が思ってしまったことは、過去の自分への期待だ。
過去の方が優れている、優れていてほしいと思ったのだ。
今の自分は自分らしくない、昔の俺なら自分らしかったのだと、そう思いたいだけ。
実際は、過去の俺も醜くて愚かだ。なんだ、何も変わっちゃいないじゃないか。少しだけ安心した。
だが、このままでいいのだろうか。俺にとって、史奈さんは何なのだろうか。
恋人ではない。友人とも言えない。なら、理解者? そんなわけない。相互理解は、絶対にありえない。
やはり、理想を押し付ける相手だ。
お互いに理想を追い求めている。しかし一緒に求めているかと言われればそうではない。
お互いに押し付けているのだ。お互いにそうであってほしいという理想を押し付けながら、現実を見ているふりをする。
現実主義者のふりをしているが、俺たちが見ているのはいつだって理想なのだ。理想を捨てられなくなってしまった、愚かな機械だ。
* * *
考えに考え、夜中、俺は史奈さんに電話を掛けることにした。
チャットアプリの通話機能を使う。スマートフォンから電子音が流れる。携帯電話や固定電話から出る電子音といえばプルルルルというようなものを想像するだろうが、アプリの通話機能のせいで俺の電話からその電子音が流れたことはない。
二回ほど電子音がループし、プツっとノイズが走る。通話開始だ。
『もしもし』
『もしもし、珍しいね。キミから電話を掛けてくるなんて』
布の擦れる音が聞こえてくる。寝転がっているのだろうか。いけない、余計な想像をするな。変態みたいではないか。
これから伝えようとしていることを想像して胸が痛む。しかし、これは必要なことなのだ。
意を決して、息を吸い込む。
『史奈さん』
『なにかななにかな』
どんな面白いことを言ってくれるのだろうか。というような期待をされているのだろう。まあもちろん、本気ではないのだろうが。
俺の声の雰囲気から、史奈さんもある程度察しがついているはずだ。何か、重要なことを伝えようとしていると。
『少し、距離を置きましょう』
『……っ』
通話越しから、息を呑む音が聞こえてきた。
そこまでは想像していなかったのだ。あっても、俺と史奈さんの関係についての話し合い程度だろうと。
申し訳なさで、胸が痛む。呼吸が苦しい。
『……どうして?』
あくまで落ち着いた様子で、史奈さんは理由を問う。
四文字の言葉とは思えないほどに、その声からは感情を読み取ることができた。そこまで分かってしまうから、さらに苦しくなる。
人生を楽しく過ごす方法は無知であること、とはよく言ったものだ。
『近くで姉貴たちが本物の恋愛をしているのに、俺たちが恋愛ごっこをしているのは、嫌じゃないですか』
ああ、これは言い訳だ。史奈さんのためにならないからと、なぜそれが言えないのか。
俺なんかといるといいことなんてない。そう思ってしまい、会うだけで罪悪感に苛まれるのだ。
『そう、だね。私たちの恋愛は本物じゃあ、ないもんね……』
『ええ、だから。しばらく距離を置きましょう。一旦冷静になって、お互いをどう思っているのか。恋愛とは何なのか。そういう気持ちにけりを付けましょう』
これは俺の押し付けだ。俺がこの気持ちを整理したいから。再び一人にならなければ、はっきりと思考することができないから。史奈さんを言い訳に使っている。
またこれだ、どうしようもない人間。自分のことは好きだが、こういうところは大っ嫌いだ。
『それまでは、その、会わないの?』
『…………はい』
もう会うことはないだろう。一度関係をリセットしてしまえば、再び会うことはない。
それは、小中学校で経験済みだ。よっぽど仲が良い相手でなければ、関係が続くことはまずない。望まずとも、自然消滅するのだ。
俺がその程度の存在ならば、なおさらだ。自慢ではないが、小学生の頃の同級生は誰一人として俺のことを覚えていないだろう。
『分かった。でも、いつか。この関係に戻れるといいな』
『っ…………そう、ですね』
戻るつもりはない、とは言えなかった。
その日の夜は真夏のように寝苦しく、息苦しく、激しい自己嫌悪に襲われた。
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