幼い姉妹と記憶のない少女
「ねえ、ルミ。ありがとね、ついて来てくれて」
「……え?」
血の匂いを追って森の奥に進む最中で、ボクは前を走るルミに話しかけた。
「実を言うと、ボクも怖いからさ。もしこの森の主と出会っちゃったらどうしよう、もう既に襲われてたらどうしようって。だからありがとう、二人だと心強いよ」
「……」
無言で走るルミの前に、四足のモンスター――ピオニーが現れる。牙はないけど額が石みたいに硬いから、囲まれたりするとかなり厄介だ。
ボクたちの姿を認めると、勢いよく地面を蹴って突進してきた。驚いて立ち止まるルミの前に立って、剣を上段に構える。
森の主も四足歩行の魔物らしいけど、目の前のモンスターはそれより全然小さくて、ボクの膝くらいの高さしかない。それにそこまで強いモンスターじゃないから心配はいらない。だけど、ただ走ってくるだけでもないんだ。深呼吸を一度して剣をしっかり握ると、ピオニーはもう目の前まで近づいて来てる。でもまだ、まだ剣を振っちゃダメ。もっと近くまで引き付けてから……今!
ピオニーは獲物の目の前まで走ると、必ずどこかにジャンプするんだ。それを知らずに焦って剣を振っちゃうと、反撃を受けちゃう。でも体が小さいから、ジャンプの直前には必ず屈んで溜めるんだ。だからボクは、その瞬間に剣を振り下ろす。
「びっくりした……お見事、ユウ」
倒れたピオニーを不安そうに見てるルミ。ボクは少しでも安心させようと、その背中に声をかけた。
「大丈夫だよ、もう倒したから。モンスターは魔物と違って消えはしないけど、そのうち土に還るし」
「し、知ってるわよ! アカデミーで習ったんだから!」
また怒って頬をふくらませると、先に走ってく。ボクも剣をしまうと、ルミの背中を追いかけた。
「……これは、一体……」
たどりついたそこは、ひどい有様だった。横倒しになった馬車に、倒れて動かない馬が一頭。それに御者さんが二人、手足を投げ出して目を閉じていた。近くにはナイフが落ちてて、二本とも血が付いてる。
「大丈夫ですか!? ねえ、聞こえますか!?」
ルミが御者さんに駆け寄って肩を叩くけど、反応を示さない。その理由は考えなくてもわかった。刺し傷とか切り傷もあるけど、それより、体に三つの大きな爪痕が、首筋から腰まで走ってるんだ。
「……ユウ、二人とも……」
立ち上がったルミが泣きそうな顔で首を振るのも、地面に広がる真っ赤な血だまりも、全部目の前の人たちが死んでしまっていることをボクに突き付けてくる。まさか、まさかこんなことになるなんて。血の匂いがしたときに嫌な予感はしたけど、でも誰かが怪我をしてるとかだと思ってたのに、こんなことになってるなんて……
わかってる。怪我くらいで血の匂いが遠くまで届くはずないって。でもだからって……
自分の顔を自分で叩いて、ボクは倒れた馬車に近づく。こうやって立ちすくんでてもしょうがない。これが駅馬車か貨物馬車かはわかんないけど、もし誰かいるなら、見つけてあげないと。
そう思っていたけど、馬車の中はボクの考えてた光景とはまるっきり違ってた。そこには倒れた人たちもいないし、芋やパンでいっぱいのカゴも転がってない。ただそこには、馬車に繋がった沢山の手枷が宙づりのままぶらぶらと揺れていたんだ。その内のいくつかは真新しい金属の色だけど、それ以外のほとんどは古くて錆びた手枷だった。気味の悪さを覚えて手を離すと、何か変な感触がする。視線を落とすと、ボクの手には血が付いていた。切り傷程度の出血じゃないことは、べったりついた掌の血でわかった。
「どうしたのユウ? ……なに、これ」
ボクの後ろから様子を窺ったルミが、そう声を漏らす。
「もしかして、この人たち、人さらい……?」
それを聞いて、お母さんの言葉を思い出した。隣の国で――この森を抜けた先の森で、人さらいが起きてるって。この人たちはもしかしたら、人を誘拐して、この森に隠れてたのかも……
「じゃあ、捕まってた人は逃げられたのかな……」
ここで倒れてるのはナイフを持ってるから誘拐された人じゃないだろうし、きっと逃げたんだ。
ボクが不幸中の幸いを願って振り返ったその瞬間、どこかから女の子の叫び声が聞こえてきた。心臓が早鐘を衝く。だけど今回は間違いない。この先で誰かが生きてる。
「ユウ、この先も行くの……よね」
気乗りしない様子でルミが聞いてくる。きっと、ボクに聞いてるっていうより、自分に言い聞かせてるんだ。無理しなくてもいいよ、って言おうと思ったけど、ここからルミを一人で帰らせるのも危険だし、きっと言っても帰ろうとはしない。
それに、この先に誰かがいるなら、見捨てるわけにはいかないよ。
「ルミ、急ごう!」
頷きあって走り出す。木の幹や草の葉にべっとりと付いた血が、ボクたちの足を心から速めた。
行く先で鳥が飛び立ち、モンスターの鳴き声がする。間違いない、この先に誰かがいるんだ。
ボクたちはまた、亡くなった男性を見つけた。さっきと同じような恰好だから、きっとあの馬車の――もしボクたちの想像が合ってたら、人さらいの仲間。
この人も同じようにナイフを持ってて、それに付いてる血の量はさっきよりずっと多い。だけどそれ以上に気になったのが、この人の体だった。さっきの御者二人は体に大きな爪痕があったけど、この人にはそれがない。じゃあ一体、どうして死んでしまってるんだ……?
「ユウ、この先にも続いてる! 血が!」
ルミはボクの手を引いて走る。次の人はすぐに見つかった。木の幹に背中を預けたまま足を投げ出して座る、女性の姿が。目を閉じて、肩で息をする、瀕死の人が。
「……だっ、大丈夫ですか!? しっかりしてください、聞こえますか?」
ボクがはじめ声をかけるのが遅れたのは、何もその女性に見とれたわけじゃない。その服装が、あまりに見慣れないものだったからだ。だけど今はこの人の出身について考える暇はない。それより、服を染める血の方が問題だ。
その女性が大丈夫じゃないのは、一目見ただけでもわかった。ここまで来る間に見た3人の男性もそうだったけど、この人はそれ以上に全身に傷がある。森を歩く最中に出来たような擦り傷や血の流れ出る切り傷、それと説明するのも嫌になるような刺し傷は、きっとナイフで出来たんだ。それに服に残った青い粘液や痛々しい痣は、モンスターや魔物にやられたんだろう。だけど死んでいた男の人たちとは違う。この人は息をしてる。
「咬み傷もあるみたい! ル、ルミ、毒消し持ってる!?」
ボクがあたふたとしてたら包帯をルミに取られたから、ボクは代わりに周囲とこの人の観察をすることにする。……けど、この女の人は見れば見るほどよくわからない。
生まれてから一度も見たことのないような服装は、この人がはるか遠くから来た旅人だって示してる。だけどそもそも旅人は普通、砂塵を防ぐローブとか、長い間歩くための装備があるはずなのに、この人が持ってるのは不思議な意匠の箱みたいなものだけ。軽く触ってみたけど、表面はすごく硬いし、開け方もわからないし、すごく重たい。それにさっきの叫び声は、この人の声だったのかな。
「この人は、一体……」
傍らの箱から視線を上げて、微動だにしない女性を見上げる。とその時、突然女性が咳き込んで、瞼を持ち上げた。
「ルミ、目覚めた!」
「大丈夫ですか? ここでなにが、何があったんですか?」
ルミが肩を叩いて、朦朧とした女性の意識を引き戻す。何度か瞬きをした女性は何かを喋ろうと口を開いて……ボクの背中の剣を見て、形相を変えた。
「jq@ze:@gt@!? fu;w、3kbqa0́s@b^7Zqk!!」
「……!」
「……言葉が、通じない……!」
ボクとルミは顔を見合わせて、同時に彼女から距離を取る。それと同時に彼女はぼろぼろの右腕を振った。その手には、彼女の手より大きなナイフ。武器? なんで武器なんか……
「3kbqa0́ 、3kbqa0́ 0qduxe! 3uqqam3ezokutjuyw@d)!」
しきりに辺りを見回して、何かを探してはボクたちを威嚇するように叫ぶ。あれだけ傷付いて気を失っていたにも関わらず、彼女は今すぐにでも飛び掛かってきそうなほど全身に力がたぎってるのがわかる。それにこうして声を聞いて気が付いた、さっきの叫び声はもっと幼かった。
「ルミ、ボクの後ろに! 擬態が出来るくらいだ、隙を見て……」
ボクも剣を抜いて腰を落とす。この相手は油断できない、ルミを守りながらじゃ、難しいかもしれない。そんなことを考えた一瞬。目の前の女性は走り出していた。意識の隙を衝かれたボクは突進してくる相手を見据えて、剣を握りなおす。大丈夫、いくら大ぶりなナイフでも、ボクの剣より間合いが広いわけないんだから。
向かってくるなら守るしかない。しょうがない。だけど……ボクは剣の向きを横に変え、腹で殴りつけるように振り下ろす。腰を落とし、低く深く走ってくる女性は剣が当たる、その直前、ボクの目の前から消えた。
「えっ、消えた!?」
左右を見渡して姿を探す。幸い、女性の姿はすぐに見つかった。この森の更に奥の方にいたんだ。……その背中に、小さな女の子たちを隠しながら。
「……女の子?」
剣を握る手から、力が抜ける。女性は女の子二人を守るようこっちにナイフを向けて、更に敵の――つまりボクたちの増援が来ないか、警戒してるようだった。まるで……
「……まるで、私たちが悪者みたいじゃない」
ムッとした顔でルミが抗議の声を上げる。そう、確かにそんな感じになってるんだ。あの姉妹のような女の子たちは手首から血を流してる。きっとあの子たちが人さらいに捕まってた子供なんだ。
「君たち! その人は危険だ、早くこっちに……」
「ううん、この人はたすけてくれたの! 本当よ!」
女性に守られた女の子が、首を大きく振って否定する。
「わたしたち、まちで男の人たちにつかまって、馬車でこの森までつれてこられたんだけど、この人がそこにやってきて、わたしたちを命がけでたすけてくれたの!」
「おねえちゃんのいってることはほんとなの!」
もう一度ルミと顔を見合わせる。あの子たちは本気で言ってるんだ。
「2人ともわかってるでしょう? その女の人は言葉が通じなかった! それがどういう意味か!」
「わかってる! でも、でもたすけてくれたんだもん!」
ルミは頭を掻いて眉間に手を添える。アカデミーでたまに見たことのある仕草だ。これをやるときは大抵ルミは何かにいら立ってる。大体の場合は勉強じゃなくて、先生の授業についてだったりするけど。
そんなボクたちの後ろに、突如として獣臭い匂いが漂い始めた。それと同時に圧倒的な存在感が、首筋を撫でる。唸り声が聞こえ、よだれみたいな粘液がボクの肩に落ちる。
「…………ルミ。合図したら走って」
「……それじゃユウは」
「今すぐ走って!!」
ルミの背中を押して、ボクは振り返る。そこにはボクの二倍……いや、三倍は高い四足獣が、全身の毛を逆立てながら、唸り声を上げて睨みつけていたんだ。