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3 物語が動き出す時

「配達を私が、ですか?」

「そうそう。テーヌちゃん、よろしく頼むね」


 ある日のこと。私が戴いている屋根裏部屋から降りてきて調理場の掃除をしていると、店主の奥さんであるメアリーさんが調理場に顔を出し、いきなりの配置変換を告げてきた。


 この「イーストのパン屋」はフェデラムのあちこちに毎朝パンを届けている。城塞都市らしく石畳で覆われた道の上を、馬に荷車を引かせてあちこちに向かうのだ。それは長年メアリーさんの仕事だったのだが、私が馬の扱いを覚えたので任せることにしたらしい。


 ああ、そうそう、テーヌ、というのは私の名前だ。テンコ、と名乗ったはずなのに、テンコ、テーコ、違う違うテンコ、テーン、テーヌ、という流れを経て定着してしまった。もう訂正するのも面倒なのでそのままにしている。どうやらこちらの人にとって「テンコ」という名前は発音が難しいようなので。


「わかりました。では掃除を終え次第行ってきます」

「行くところは覚えているかい?」

「はい」


 頷き、行く順番に名前を答える。といっても数カ所だけだ。商人ギルドフェデラム支部、冒険者ギルドフェデラム支部、街中のいくつかの商家さん、それから最後にフェデラム騎士団。

 最短ルートで回れる順に行き先をさらさらと諳んじれば、メアリーさんは鳶色の目を細め「やっぱりテーヌは頭がいいねぇ」と言ってきた。


「そんな。これくらい普通ですよ、普通」

「そうかい? じゃ、お願いねぇ」

「はい」


 あらかたの掃除を終えて、掃除道具を部屋の隅に仕舞い込む。この世界からみれば遙か未来の人である私に言わせればこれくらいの掃除は食べ物を作る所の掃除としてはまだまだ足りないのだけれども、これ以上はやりようがないので目を瞑る。そうすることを、ここに来て三日で覚えた。

 粗末ながらも洗濯はしてあるために清潔なスカートをふわりと翻し、外に向かう。やるのは配達の品物ができあがるまでの他の家事だ。具体的に言うとお洗濯かな。


 洗濯物を放り込んだ籠を取りあげ、水場に向かう。籠を抱えてすれ違ったイーストさんに「おはよう」と挨拶すれば、イーストさんはあくびをしながら「おはよう、今日も早いねぇ」と言ってきた。


「パン屋で働いていますから」


 私の中には、パン屋というのは街で一番早起きなお店、という印象がある。それは近所にあった古いパン屋さんがそうだったからかもしれない。毒親だった私の親はそこに行くことを「低俗な店に行くな」と言って髪を引っ張って怒っていたから、私はそのパン屋の窓から流れる焼きたてパンの匂いしか知らないけど。


 色々と考えつつ、重たい木桶を抱えて水場に向かう。颯爽と向かった先には幾人もの女性がおり、その方々と談笑しながら私はお洗濯に励んだ。

 その時のことだ。


「いつっ」


 洗ったタオルとシャツをぎゅっと掴んで絞っていた時、手に痛みが走った。思わず漏れた声に、隣で洗い物をしていたリュシエンヌさんがこちらを向く。


「どうしたの?」

「あかぎれが……」

「ああ、なるなる」


 こっちに来てから、ハンドクリームなんてものが身近にあるわけがないため、ついに現代人の弱々しい肌が限界を迎えたらしい。

 右手の掌側の人差し指の根元と、手の甲側の第一、第二関節の所に、ぶちりと赤い線が走っていた。手を握ったり開いたりしてみれば、それはぐじぐじとした痛みを私に伝えてきた。


「テーヌは肌が薄いものねぇ」

「悲しいことです」

「でももう洗濯は終わったのでしょう?」

「うん」

「ならいいじゃない。帰ってオイルでも塗っておけばそのうち治るわ」

「残念ながらこの後は配達です」


 リュシエンヌさんはあらあらと眉をハの字にした後、お大事に、と言って自分の洗濯物に戻った。まあ、そういう反応するしかないもの、しょうが無い。


 絞った洗濯物を持ってお店に戻る。裏庭に張ったロープに洗濯物を通して乾かし、さらにあちこちの掃除やら何やらを住ませると、あっという間に手の痛みに慣れてしまった。


 そうこうしているうちに、イーストさんがパンを焼き上げたと言ってきた。


「はーい。それじゃあ、配達いってきまーす」


 焼き上げた、というのは、同時に必要なパン達を荷車に積み込み終わった、ということである。

 私は返事とともに掃除していた二階の部屋から出て廊下を小走りに駆け、軽やかに床を蹴り、二階の上から一階の床に飛び降りた。


「とうっ!」


 ふわ、という浮遊感の後、着地する。

 小学生みたいな行動だ。我ながら、三十二歳の女性がやっていいことじゃないと思う。ていうか、そもそもこんな動きは三十二歳の女性ができるものじゃあないと思う。

 でもできてしまうのだ。不思議なことに。

 どうやら、私の身体能力はこの世界に来たことで向上しているらしい。


「ふふん」


 広がったスカートを直し、飛び降りた階段の上を見る。ほんの少しの飛翔にちょっとした満足感を得つつ、私は店の表にいる馬に走り寄り、年老いて尚現役の彼女の頭を撫でた。

 彼女の名前はクララ。雌馬である。


「今日から私が一緒です。よろしくね、クララ」


 言いつつ撫でて、裏庭に生えている木に成っていた果物をあげる。もぐもぐと食べる彼女をさらにぽんぽんと撫でた後、私は後ろに来ていた荷車を付けた。


 果物を食べ終えたクララが声を上げる。ひひん、と、ぶひん、の中間みたいな声を。そのまま私のほっぺに自分の鼻先をすり寄せた彼女は、乗れ、と言うように私の顔を見てから足を曲げて背を低くした。


「悪いですよ」


 荷車を引いてもらうのに、さらに私の体重なんて乗せたら可哀想だ。そういう意味を込めて首を横に振る。

 しかし、そう言っても彼女はひひん、ひひん、と鳴くばかり。さらには蹄でがつがつごつごつ地面をたたき出した。


「わかりました」


 そうされるとこっちだって折れるしかない。私はスカートをたたみ込むようにしてまとめ、クララの上に飛び乗った。

 メアリーさんはずっとクララの横を歩いていた。私ももちろん同じようにしていた。だから、正直、クララの上に乗っての配達ってのは不安がある。

 でも、その不安を打ち消すような色が、この老馬の目にはある。まかせんしゃい、と言わんばかりにしゃっきり背を伸ばした彼女の手綱を取り、私は高らかに宣言した。


「さて、配達任務開始です!」



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