2 どこに在ろうと在り方は変わらず
異世界に来てから四ヶ月が経った。その間私がやったことといえば、保護して戴いた騎士団の方が紹介してくれた仕事先での仕事を覚えることと、この世界の言語を覚えることである。
本当は文字も覚えたかったのだけど、残念ながら変なものを見る目をされて「女に学は必要ない」と言われてしまい、ダメだった。街の風景を見た時点でなんとなく察してはいたけど、この世界の識字率及び女性の優先度の低さは異様だ。まるで中世以前である。
言語学習については、昔読んだアイヌ語収集のお話を参考にしてみた。
金田一京助という人物がアイヌ語調査のために樺太に渡った際のことである。彼は、アイヌ語を一つも知らない状態で言葉を集めるために、「これ何?」という言葉を欲した。
彼はその言葉を得るために手元の紙にぐじゃぐじゃの線を書き、これをアイヌの子ども達に見せた。すると彼らは「ヘマタ!」と言ったそうな。
金田一京助はこうして「これ何?」という表現を手に入れ、これを使って様々なものの名前を集めて行き、最終的に四十日ほどで日常会話と相当数の単語と詩吟を手に入れた、というお話である。
全く聞いたことのない言語の世界だ、と受け入れた後、私はこのお話を利用させてもらうことにした。医務室で服をもらうと同時に紙とペンをもらい、見るからに高そうな羊皮紙に遠慮無くペン先をインクに浸した羽ペンを付け、ぐしゃぐしゃと書き殴って騎士さんにばっと見せ、相手から耳慣れぬ単語をいくつか引き出した。それのうち、重なっているものにこれが「これ何?」という表現だと当たりをつけ、それを覚えて様々なものの名前と言葉を覚えていった。一ヶ月も経つ頃には片言でも喋れるようになってて、昔読んだ本に感謝したよね。
そうそう、こうやって言葉を覚えたことで、私は騎士団の人間関係やら何やらを理解することができた。ので、備忘録がてらそれを整理しようと思う。
まず、森から飛び出した私を一番最初に抱き留めて助けてくれた人。赤い髪と橙色の目に銀色の甲冑という「いかにも」なファンタジーファッションに身を包んだこの人は、ルブルムという名前の男性で、この街の騎士団団長らしい。西洋風のイケメンなんだけど、身長が二メートルくらいで、体はデカいわ顔つきが修学旅行先で見た金剛力士像にそっくりだわで、正直なことを言うと怖すぎて真正面から見つめられない人である。
次に、このルブルムさんの同僚のヴィルディさん。この人は騎士団の中で唯一甲冑の代わりに魔法使いのローブを着た魔法使いさんである。指パッチンでろうそくに火を付けたのはこの人だ。いつもフードを目深に被っていて口元以外の顔はよくわからないが、フードの間から見える髪は目の覚めるような青色で、白地に金の装飾がされたローブにとてもよくはえている。見た目はちょっと胡散臭いけど、私が線のぐしゃぐしゃを見せてすぐに私がやりたいことを見抜いてゆっくり話すようにしてくれたから、たぶん頭が良くていい人。
ルブルムさんとヴィルディさんは、幼なじみらしい。どっちも伯爵家というとても偉い家の、しかも別々の家の人で、つまり彼らはめちゃくちゃ偉い。本当ならばこの街で騎士をすることなんてありえない人なんだそうな。
じゃあなんで彼らはここにいるのかというと、研修中だから、らしい。研修なら仕方ないよね。ただ、研修中というのなら、彼らの上には先達役つまりはその上司がいるはずなのに、現在その人は不在である。なんでかっていうと、彼らが来る直前にあった亜人との戦いで負傷し亡くなったかららしい。
それを教えてくれたのが、お世話になっている仕事先のパン屋さんの店主イーストさん。名前からしてパン屋の人っぽい人である。腕の筋肉がヤバいことになっている荒事が得意そうなおじさんで、でも奥さんのメアリーさんには頭が上がらない恐妻家にして愛妻家。ルブルムさんと同じような強面系の男性なのだけど、たまにパンの切れっ端でおやつを作ってくれるから、いい人。
奥さんのメアリーさんは、優しいおばさん。騎士団が私の仕事先を探していた時に、話を聞いて私を可哀想に思って引き取りの挙手をしてくれたいい人だ。会ってすぐ、言葉も何もわからない私に色々と世話を焼いてくれた。世話好きおばさんってどこにでもいるんだなぁ、と思ったのは内緒である。だってその世話好きに私は助けられたからね。揶揄するような言い方はしちゃいけない。
私の身の回りでよく見る人、必ず挨拶する重要な人、はこの四人くらいだろう。あとはパン屋さんの常連さんとか、騎士団の人とか、名前を覚えていてもあんまり重要じゃない人が殆どだ。
あ、忘れてた。私がろくすっぽここでの言葉を話せない間に周りの人が推測から作り上げてしまった設定があるので、それも挙げておこう。
なんでも、彼らは私のことをとある遠方の国の御姫様だと思っているらしい。右腕にある献血の注射痕を見てヴィルディさんの口元がひん曲がったこと、ルブルムさんに彼が何か言った後、ルブルムさんの背中から義憤の炎みたいなものが立ち上るのを見た(あくまで比喩表現だ)こと、これらを総合すると、酷い扱いを受けた後だと思われたみたいである。ま、素っ裸の全身ずぶ濡れ擦り傷切り傷だらけで森から出てきたら私もそう思うだろう。
予想するに、彼らの認識の中で、私はどこかの敗戦国の戦利品である姫が逃げてきたようなもの、だと思う。そしてそれを当人が隠したがっているか、指摘されると酷く困惑することから、下手に触れないようにしようと決めている、みたい。だから彼らは特にあれこれ聞いてきはしない。
代わりに彼らがしてくるのは、毎日のほんのちょっとの接触だ。ルブルムさんは街と周辺の見回りの最後に騎士団の建物に戻る前にうちのパン屋に立ち寄って買い物していく。その度に息災か否かを確認してくる。最初こそ丁寧に対応してきたが、人間時が経てば状況に慣れて精神が図太くなるもので、ここ最近は売れ残りのパンを押しつけている。
ちなみに、たまにルブルムさんの代わりに現れるヴィルディさんはそこんところをよく解っているらしく、お使いっぽく銅貨を握った手を私に見せて「今日の売れ残リハ何ですカ?」とショートカットして聞いてくる。それに私はいつも銅貨を受け取り一番数の多いパンを渡すことで答えとしている。
たぶん、ルブルムさんだって私が売れ残りばっかり押しつけているのには気付いている。だってそれを察せるくらいの頭がないと、騎士団長なんて人の上に立つ職に就いていられるはずがないもの。でも、それでも、彼はほぼ毎日律儀に私が差し出すものを買っていく。昨日は食パン。一昨日はライ麦パン。そして今日はフランスパン。
気がつけば、私はルブルムさんやヴィルディさんとこんなやりとりをするのを楽しく思うようになっていた。たぶん、中世時代を思わせる厳しい生活の中で、私が防衛反応的に「毎日を生きる楽しみ」を見つけたせいだと思う。