13 不穏な貴族思考(ルブルム視点)
******
話し合いを終えると、テーヌは早々に帰っていった。彼女は恐らく彼女の人生において最大の選択を強いられたであろうに、それに対しての動揺を彼女の背から見て取ることはできなかった。
団長室で別れても、入り組んだ砦の中からは一人では出られない。だからヴィルディとルブルムは見送りといって厨房の裏口まで彼女を送り、そこで彼らは別れた。
別れた後、団長室に二人が連れ立って戻る。ルブルムが団長机に座り、これから来る冬の支度についての決算書類に目を通したり、ヴィルディが魔法で設置した簡易机でそれの手伝いをする。
数時間そうやって黙って仕事をこなした所で、ルブルムが書類から目を上げずにぽつりと言った。
「嫁、か」
小さい呟きに、ヴィルディの手が止まる。そのまま音もなく書類から顔を上げ、フードの暗闇からじいとルブルムを見つめる彼の顔には、心配の色があった。ただし、それは彼以外にはわからぬものである。
「兄弟に、ですけどネ」
「一応、案として受けとってはおいたが……」
カラド家はそもそもヴィルディ以外に生き残りがいないから除外するとして、問題はアゾート家である。
次男、という肩書きをルブルムが持っていることからわかるように、彼の上には兄が一人いる。しかも、存命の兄が。
しかしこの兄が家督を継ぐことはないだろうと言われている。
その原因は、皮肉なことにテーヌが持っている『新しい血』が長いことフラーマ王国になかったことだ。
「あなたの兄のデイネブリス様ハ、ああですものネ……」
貴族、という存在は、その利権を他に拡散させないために同族で結婚を繰り返す傾向が非常に強い。その結果とある深刻な問題が発生する。
近親婚による遺伝子異常の発生、というものである。アゾート家の長男は、朝は奇声で目を覚ます。テーブルにあるものを食らうことはできても口を閉じることはできないので唾液を四六時中垂れ流す。物事の受け答えにすら不自由するその姿は、大人の中身が赤子になったという方がまだ可愛い有様であった。
高校時代、社会で世界史を取り、真面目な学生をやっていたテーヌなら。
成人後うっかり歴史上の偉人達が出てくるゲームにドはまりし、とち狂って有休をはたいてギリシャに行き散在する島たちを船で巡り「オケアノスツアー!」などとほざいた謎の行動力を持つ彼女なら。
そんなことをするだけあって、世界史の雑学が変な方向で増えてしまった彼女が聞けば。
彼女は納得顔で言ったであろう。「あー、はいはいわかった。ハプスブルク家の隆盛と滅亡原因ね。カルロス二世ね」と。
口に出すのもはばかられるほどの状態の第一子に、アゾート家は落胆した。しかし精神薄弱な奇形児が生まれてくるのは何もアゾート家に限った話ではなかったため、彼らはめげずに次の子を為した。それがルブルムであった。体の大きさで母体に負担を強いた以外は健康優良で産まれた彼に、当時のアゾート家の者たちは諸手を上げて喜んだ。
そんな彼は彼で問題を抱えている。この顔と体格と家柄が災いし、今までに寄ってきた女の全てが「自分の家のためにアゾート家に取り入りその利益を吸い上げよう」と願う者ばかりだったのだ。そのために、有り体にいえば、すっかり女性不審になってしまった。寄ってくる女性が皆浅ましい獣に見えるようになってしまったのである。
さらに、彼は騎士として有能でありすぎたために、本来貴族の次男が否応なしに取らされる「家を出て王族に仕える騎士団に入る」という選択をこそ願っていた。当代のフラーマ国王が特に偉大な王であり、謁見した者皆心酔させ、騎士団の志願率を上げるほどだったというのもある。ルブルムはその王の威厳に当てられた男達の一人だ。
──女は苦手だ。しかし家のために女を娶り、家を存続させなければならない。
──貴族の次男の当然の身の振り方をこそ何より望む。しかし、使い物にならない兄に代わって家を継がねばならず、このような騎士団に所属し続けることはできない。
内心で呟いた言葉は、己の性質と己を包む現実が自分に求めるものの乖離を克明にする。文字にするだけ辛くなるから普段はあまり考えないようにしている言葉だ。
(いや……いや、違う。違うのだ)
ふ、と沸き上がってきた黒い思考に、ルブルムは首を横に振った。
本当ならば、彼はそもそもこんな風に辺境の騎士団で前線に立つこと自体できなかったのだ。兄の代わりにアゾート家次期当主として王都を守る王都防衛騎士団の一員となり、剣を取って戦うことよりもグラスを取って会話で切り結ぶことを求められるような職場にいるはずだったのだ。
今そうなっていないのは、ルブルムの父が存命でその任に就いてくれているからであり、その父が、兄の代わりとして苦労を強いてしまう息子に少しでも長く自由な時間を与えようと考えているからだ。神に愛されたと言っても過言ではない剣才と騎士の心を持った子に、血の定めを強いる謝罪の先払いを戴いているのである。
そして、何よりもそれをフラーマ国王が許してくれているから。それがルブルムが騎士団の一員でいられる理由だ。自分に尽くしたいと願う男の、あつい信仰心に似た忠義に免じて望む在り方を許してくれているからだ。
本来であればあり得なかった事態に感謝こそすれ恨むことなど許されない。
ルブルムは黒い思考を追い払い、騎士団に入団した時に父から与えられた先祖伝来の剣の柄に手をやった。騎士であることを示す家宝であり、初代以降は佩くことを許されなかった魔法の剣である。
(フラーマ王……父上……)
これを佩くことを許してくれた王と父が作ってくれたこの自由な時間の期限は迫っている。この地での研修とは名ばかりの任務を終えれば、ルブルムは王都に戻り、宮廷貴族の一人としての『騎士』の任に付かなければならない。それはつまり、王の剣として在るとは名ばかりの、政治家としての職に身を捧げなければならないということだ。
あと暫くすれば、彼は恵まれた体格、天性の戦闘センス、荒くれを率いる魂の格、そういった諸々の美徳を何一つ生かせぬ世界に、ただ血を理由としてゆかねばならない。そしてそこで家の存続を主目的として行動しなければならない。
それにルブルムは納得していた。貴族の責務だから、この家に生まれた己の定めだから、仕方ないと。
納得した上で、それでも尚少しでも自分の望む生き方をしたいと願い、父の優しさの上に乗って騎士として国を駆けてきた。その隣には、彼の身を何より案じる親友を連れて。
(──だが)
だが、その終わり行く時間が、もしかすると、終わらぬ時間になるかもしれない。
ルブルムの兄がおかしくなってしまったのは、近親婚によって血の穢れがその身に溜まってしまったからだ。少なくともこの世界の科学を知らぬ人間はそう認識している。そしてそうなった人を『狂人』と呼び、これは生命魔法ですら救えぬ呪いの状態であるとしている。実際治療方法が高度医療しかないようなものなので、それがないこの世界ではその認識でいいだろう。
だが、この奇『病』には、罹患者本人を治療する術がなくとも、その子への病気の遺伝を回避する術が伝わっている。その術とは全く別の家の血を入れることである。濃くなりすぎた血を薄めてしまうのだ。そうすると、生まれる子の幾人かにはまだ親の症状が現れるが、幾人かはその呪いから解放されるとされている。
この『治療』に使われるのは、普通は身よりのない健康的な平民の女だ。子を産める体を持つ処女の胎と命を金で買い、子を産ませた後はあったことの抹消のために母を消す。しかし、アゾート家はそれを為すにはあまりにも高位な家であった。平民の血など、歴史から消すにしても物理的に入れられぬほどの格を持っているのだ。
だが、それが『始祖の母』なら、話は変わる。
王に献上することすら現実的なほどの『高直』な女の胎ならば、大手を振って取り入れることができる。
つまり、テーヌという『新しい血』を持つ者を、ルブルムが自身の兄に嫁として差し出せば。
そしてその二人で子を作らせ、アゾート家を継続させるという当主の役目を受けてもらえば。兄の任をそれただ一つと定めてしまい、実務的な部分を家人に任せてしまえば。
ルブルムは晴れてただの騎士として王に仕えることができるようになる。
彼の望みは果たされ、また、副次的な効果を上げるなら、貴族の社交場というやがてヴィルディが入れなくなる場所から一緒に足を遠ざけることができるようになる。熱い血の滾る戦いの世界に、自分が一番得意なものを王に捧げられる場所に、彼は行くことができる。
なんという幸せな未来だろうか。
なんという夢にみた未来であろうか。
その未来は、ただ一人、異邦からその身一つでやってきた女の体を捧げれば、手に入る。
「───っ」
だがそれは、一度は助けた存在を自分が逃げ出すような環境に送り出すことと同義である。
しかも、自分は貴族としての責務を受けるという意味で、一度は自分の運命に納得した身だ。対する彼女はそんな決断をしていない。
ちらりと聞いた親の状態から察するに、彼女は自分にはわからぬ苦労をしてきた『平民』だ。見目や頭脳がまっとうな教育を受けた貴族なみであろうとも、その精神構造は平民のそれだ。でなければ、街の一角で細々とやっているパン屋に住み込みで働くなんて状況は受け入れられないだろう。あかぎれの酷い手を気にせずにいるなんてこともできないだろう。
貴族とは、民を守る代わりに民からものを捧げられるもの。裕福な暮らしの理由は、暮らしを支えてくれている民を守るという責務の存在だ。そうやって平民と貴族はバランスを保っている。
では、彼女はどうなる。
何を捧げられることもなく、ただ唯一持っているその体を差し出すばかりとなる彼女は、出すばかりの彼女は、どうなってしまうというのか。
「ヴィルディ」
迷い困ったルブルムが親友の名を呼びつつ顔を向けると、彼は唯一見える口元に真意の見えぬ笑みを浮かべていた。そして、全てをわかっていると言わんばかりに深く頷いた後、彼は赤い唇を開いた。
「馬鹿な人ですネ、アナタは」
「は?」
親友がその口から出したのは軽い罵倒の言葉だった。予想外もいいところなその言葉に、いつの間にか眉間に刻んでいた皺が変に歪む。
「どういう意味だ、それは」
「アナタはあの娘をデイネブリス様に捧げるカ迷ってイル。そうですネ?」
貴族としては当然であり、人としては唾棄すべき「生け贄」という選択肢。それを自身の内側に持っていると指摘されたら、ルブルムは普通言い返すし否定する。自分はそんな浅ましく愚かな人間ではない、と。例えそれが嘘であっても。
しかし相手がヴィルディならば話は別だ。親の声よりも先に声を覚えた幼馴染には、何も隠せない。
内心を偽っても意味が無いとわかっているから、ルブルムはすとんと頷いた。
「ああ」
「アナタは即断即決の気持ちのいい男。そんなアナタが『迷う』訳がありまセン。そんな顔をした時点で答えが出ているのデス。それはイヤだ、という答えガ」
ヴィルディは立ち上がって机を回り込み、ルブルムの隣に立った。その細く白い手が先程とは逆にルブルムの手を取り、書類から離れさせ、持ち上げる。そのままぺたりと押しつけた先にあったのはルブルムの左胸だ。
その奥にある心臓に言い聞かせるように、ヴィルディが優しい声で言った。
「もしもアナタが、私の愛する素晴らしき騎士ルブルムであるのナラ。
異邦からただその身一つでやっテキた、何の責務も落ち度もないと思われる平民の小娘ニ、アナタが逃げ出したいと願ウ程ノ騎士の家の定めを押しつけるなんてコト、正気を失いでもしない限りできっこないデス」
そして、できないのであれば、やらなければいい。元の道に戻るだけだ。
ただし、新しい要素が生まれたことにより、道は少しだけ変化の兆しを見せている。
その変化をうまく乗りこなせるかどうかはルブルム次第だ。
静かに語るヴィルディの手が、ルブルムの手から離れる。そのまま後ろに回り込み、ヴィルディは幼少の頃よくしていたようにルブルムの頭を抱えるようにして抱き締めた。
「実を言うとネ、私もイヤなんですヨ。アナタの兄様などにあの娘をヤるのハ」
そのまま、耳との距離が近くなった唇に載せられた囁きに、ルブルムは意外そうに目を開いた。
「お前もあの娘が気に入ったのか」
「ええ。いい人ですヨネ、あの人」
「そうか、お前もそう思うか」
ルブルムの声から、悩みの苦しみが消えて喜びの色に染まる。彼が喜んでいる理由はただ一つ。現状に立ち向かおうとしているのが自分一人ではなく、親友もだとわかったからだ。彼もまた、同じもの相手に戦ってくれるとわかったからだ。
「ユーモアがあって面白く、強さがあると思えば不思議な所で弱い。見ていて飽きん。ああいう女性もいる所にはいるのだな」
ルブルムは楽しげに笑う。眉間の皺も、顔の恐さも相変わらずだが、その表情だけは少年のようにして、快活に笑う。
頭を抱き締め撫でる手を止めずに、ヴィルディは同じように頷いた。
「わかりマス。ていうカお前、あの人の幸せをばっちり願っているジャないですカ」
「そうなのか?」
「そうですヨ。じゃないと、助けたってだけで毎日顔を見にパン屋に通ったりはしまセン」
──だから。
そ、とヴィルディがルブルムに覆い被さる。
その姿はまるで悪魔が無垢な人間に悪知恵を囁くようでもあり、また、天使が守るべき人間に天啓を授けるようでもある。
どちらであるかは、それを向けられた人間の選択と行動次第。
「だから、アナタが娶ってしまいなサイ。
アナタが娶れば、あの方は兄君に嫁がずに済む。
アナタが娶れば、あの方が今何をしているか心煩わずに済む。
アナタが娶って子を為せば、十数年我慢すレバ、アナタはまた騎士に戻レル。
何よりも、アナタが娶れば、アナタは自分の気持ちに気づケル」
囁く言葉が、ゆっくりとルブルムの耳に入る。穏やかな声の全てを聞いた後、ルブルムは不思議そうに首を傾げた。
「俺の気持ち?」
「ソウ。それを私から言うのは無粋ですカラ、言いマセンけどネ」
「意地悪なことを言う」
「少しくらい楽しませてくださいナ。アナタは幸運の女神に出会えたんですカラ、そのお裾分けくらい戴いてもいいでショウ」
からからと笑いながら、ヴィルディが優しく抱き締めていただけの頭に力を込めた。締め上げるように。けれど、魔術師の腕でやる締め付けなど、騎士の誉れを詰め込んだような大男にとっては猫のじゃれつき程度の意味しかない。
「暑いわ、馬鹿者」
「ちょっとは苦しがれデス、このばかー」
楽しげな声が、団長室に響く。聞く者が差し込む陽光しかおらず、位置関係の問題で互いの顔を見られぬからこそ為せるやりとりは、やがて部下が報告のためにやってくる時間まで続いた。
主人公「私今ものすごく見なければいけないものを見逃した気がする!」