第1話:出会い
涙って大事なんだと思う。子供が泣き出すと嫌な顔をする親がいるけれどそれはたぶん
何かを伝えたくて泣いているのだ。友達とケンカした時、告白に失敗した時、スポーツの
試合で負けた時。涙にはいつも意味があって私達はそこから何かを学ぶ。だから何があっても
泣けない私は他の人が持っている何かが欠落しているんだろう。
周りの会話、教室に入ってくる生徒。何も変わらない普通の学校の風景。私、雨宮 澪(あまみや みお)は朝の教室にいた。窓際にある私の席からは教室に入ってくる生徒がよく
見える。でも何人の生徒が来ても私に話しかける人はいない。それがこのクラスの、そして
私にとっての日常だから。別に何をした訳でもない。ただ私がおかしい人間というだけだ。
自分でもよく知っている。だって私には感情が無いんだから。
感情がまったく無い訳ではない。ただ普段の生活で感じる刺激では感情が出てこないという
だけだ。昔から私はそうだった。小学生の時、父が亡くなった時だって涙は出なかった。
むしろ父は母に対して文句ばかりを言い、時には暴力をふるうこともあったからスッキリした
気持ちもあった。しかし父の葬式の時の私は無表情だった。まるで安物の人形のように乾いた
表情。それを見た母が泣き出したのを覚えている。何をされても変わらない表情の私をよく
いじめる連中もいたけど、すぐに気味悪がって近寄らなくなった。小、中とそれは変わらず、
私は高校に入る際に全寮制のこの学校を選んだ。私は母のことは好きだったから。私の顔を
見るときの母をもう見たくなかったから。ここに入っても私はすぐに気味悪がられた。
そんなことには慣れていたからどうといった訳でも無かった。周りから違う物のように扱われて私の高校1年の生活は終わり、今は2年の5月。クラス替えはあったが、私は有名のようで
誰も近寄っては来なかった。でも私はやっぱり人形のような動かない表情だった。
屋上にある長い梯子の登った所。ここは私の特等席だ。最近はわざわざ屋上に来る生徒は
少ない。危ないし来る理由もないだろうから。
ここは静かで安心できる。誰も来ないこの場所は私と同じで存在を許されてないような錯覚を起こす。だからここが好き。ここは私の『世界』だから。
ある日のこと。いつもは静かな屋上で音が聞こえた。私が下を覗くと何やら1人の男子が
いた。ハーモニカだろうか、私の知らない曲が聞こえてくる。なぜかその音色を聞いていると
落ち着く。まるで昔から知っているような。
「あ、悪い。うるさかった?」
その男子が急にこっちに気づく。
「学校の中じゃ思う存分できなくてな。まさか人がいるなんて思わなかったけどさ。」
私を見ても普通の反応ということはたぶん1年だろう。2、3年生には私は有名すぎて
知らない生徒はいないから。
「なぁ。」
こっちを見て聞いてくる。
「俺の演奏どうだった?」
本当は貶してみたかったけどそんな所がまったく思いつかなかった。だから仕方なく本当の
感想を言う。
「…悪くないんじゃない?」
それを聞くとその男子は嬉しそうに笑った。そして梯子を上がってきた。
「なんで登ってるの?」
答えること無く登ってきてしまった。
「よっと。」
登り切ると私の隣に腰を下ろした。そして空を見ながら私に聞いた。
「名前は?」
「え?」
「だから名前だよ、アンタの。」
なんて急な聞き方。失礼な下級生である。
「…先に自分から名乗るべきじゃない?」
そう言われると少し考えるようにしていた。
「そうだな。俺は1年の白河 慧(しらかわ けい)。そっちは?」
「…教える理由は無いわ。」
私の態度に少し驚いたようだったが、それでもまだしつこく聞いてくる。
私は観念して名前を教えることにした。
「…2年の雨宮 澪よ。」
「へぇ…じゃあ澪って呼んでいいか?
「…好きなようにして。」
私は彼のその勢いが苦手なようだ。いつもよりも疲れている。授業開始の10分前のチャイムが鳴ると彼は梯子を下りた。私が降りると彼はもういなかった。出来ればもう会いませんように。生まれて初めて神様なんてのにお願いした。
でも現実はそんなに甘いものではない。彼は毎日のように来てはハーモニカを吹き、私に
感想を求めてきた。嫌々ながらも答える私は意外と親切なんだろうか。
「なぁ。」
ある日、いつもの演奏が終わると彼が質問してきた。
「いつもここにいるけど何かあるのか?」
ここに彼が来るようになってからしばらく経ったけど一度も聞いてはこなかった話題。
私はどうでもいいように答えた。
「…別に。ただ落ち着かないだけよ。人といるのが。」
彼は何か言いたそうだったが、すぐにまたハーモニカを吹き始めた。
そしてチャイムが鳴ると同時にいつものように梯子を下りていく。
そして、下り終わったところで待っていた。いつもならまっすぐ戻っていくのに。
私が下りると彼は言った。
「今度の日曜って予定ある?」
「別に。何か用事?」
「なら2人で出かけようぜ。集合場所はそうだな、13時に駅前の噴水広場で。」
私が断ろうとする暇も与えず彼はそう言うと自分の教室に戻って行った。
まぁ明日にでも断ればいいか。そう軽く考えて私は考えるのをやめてしまった。
それから彼はこの場所に来なくなってしまっていた。約束をした日は火曜日だったのに
今日はもう金曜日。仕方なく私は彼の教室に向かう。前にクラスは言っていたからすぐに
わかった。入口にいた男子に聞いてみる。
「ねぇ、白河って男子いる?」
私が聞くと快く答えてくれた。
「ああ、白河ならたぶん学校いないよ。よく休んでるし。」
「……そう。」
それだけ聞くと私はさっさとその場を後にした。でも知らなかった。よく休んでいるなんて。
毎日のように会っていたから気付かなかった。でもたぶん学校をサボっているだけだろう。
そう思って私は自分を落ち着かせる。そういえば私が他人のことを考えたのなんてどれくらい
前のことだろう。つい最近までは興味もなかったのに。
日曜の朝。時計は11時40分を指している。私はまだ行くかどうか決めていなかった。
ここ最近を思い返していると私の平穏が何なのかわからなくなってくる。このままでは彼に
『私』という存在が侵食されていくような恐怖を感じる。でもそれと同時に微かな希望も
感じる。それが何かは分からないけど。だからギリギリまで私は考えてみることにした。
目の前が暗い。それに何か音が聞こえる。これは雨の音?
私はどうやらいつの間にか眠ってしまっていたみたいだ。時計を見ると14時35分。
とっくに時間は過ぎている。でも良かったのかもしれない。窓の外を見ると晴れていたはずの空は大降りの雨へと変わってしまっていた。
それからしばらくして私はまだ約束を気にしていた。たぶんもう帰っているだろう。2時間も遅れてくる人間なんていないだろうから。そう思う反面、もしまだ待っていたらなんて
考えてしまったりもする。私は行って見ることにした。いなかったらそれでいい。ただの確認のつもりで行くだけだから。私はコートを着ると傘を持って部屋を出た。
駅前の噴水には雨がまるで滝のように降り注いでいた。そんな中で彼は1人、立っていた。
「バカじゃないの…」
私は彼の近くまで行くとそう言った。彼は身体を濡らしながら待っていた。
「お、やっと来たか。遅かったな。待ってる間に傘が壊れちまってさ。」
「なんで……」
彼は私に笑顔を向ける。それが私を不安にさせた。
「なんで待ってるのよ?2時間もしたら普通帰ってるでしょ?」
「だって約束したし。それにもしその後に来たら悲しいだろ?」
また彼はそう言って笑顔を向けた。
「…私は感情が無いから大丈夫よ。ただの人形だもの。」
そう、私は感情がない人形。そんな私には彼の笑顔は怖く感じた。
「小さい頃から感情が無かった。父親が死んでも涙1つ流れなかった。」
昔から分かり切っていたことだ。そんなことは。
「だからもう私には近寄らないほうがいいわ。貴方まで変人扱いされるから。」
私はついに拒絶の言葉を言った。これで良かったんだ。そう思っていた。でも彼はそんな私の髪の撫でた。そして言った。
「そんな訳無い。感情がないなんてさ。」
「…本当よ。」
「違う。だって感情が無かったらここに今日来てくれないだろうから。」
「それはただ確かめようとしただけよ。」
「それだって立派な感情だ。違うかな?」
そう言われて私は言い返せなかった。そんな考え方したこと無かったから。
「それに先に帰って後で来ていたなんて聞いたら俺が悲しい。」
「え?」
一瞬その言葉の意味が分からなかった。彼はさらに言葉を繋げる。
「こんな格好悪い感じになったけどさ、俺はお前が好きだよ。」
そう言って私を抱きしめる。私はその問いへの答えをうまく言葉にできなかった。だから、
私も抱きしめ返した。出来る限り力強く。私にも感情の欠落なんて欠陥があるように誰にも
欠けている部分があるのかもしれない。彼にも私が知らない欠けた部分があるかもしれない。
もしかしたらこの先は暗闇かもしれない。だけど今は生まれたこの感情に素直になりたい。
彼を愛おしいと思ってしまうこの感情に。