文通〜九年の想い〜
「さっちゃん、泣かないで。絶対手紙書くからね」
昔居た隣家の男の子は、佐山皐月が五歳の頃、そう言って引っ越してしまった。
物心ついた頃から一緒に遊び、家が隣同士という事で食事も共にした事がある。まるで兄妹のような、そんな感覚であった為に、その男の子が引っ越す時は盛大に泣いたのだ。
必ず手紙を書く――。その言葉を信じていたのだが、やがて記憶は薄れてゆく。
そして九年の月日が経ち、皐月は十四歳、中学二年生になっていた。時は十月。文化祭一週間前である。
吹奏楽部でコンサートマスターを務める事になったポニーテールの皐月は、この日も遅くまで練習をし、帰宅時刻は八時半を過ぎたところだ。連日の練習は厳しいが楽しくある。音楽が好きで、自身が担当する楽器のフルートが大好きだから、辛い事もどこかへ飛んで行ってしまうのだ。
(先輩との演奏もあと一週間かぁ。支部大会はダメ金だったけど、文化祭とはいえみっともない音楽聞かせたくないから頑張ろっと)
そんな日常を送っていたのだが、その日、家のポストに一通の手紙が入っていた。
こんな遅くまでポストの中にあるという事は、先に帰宅した母親が中を見忘れたのだろう。宛名には、佐山皐月様と書かれてある。一体誰からの手紙だろう。
何処にでも売っているような茶色い封筒に縦書きで書かれている。習字でも習っているのだろうか。丁寧で綺麗な字だ。差出人に書かれているその名は――
「和久井、葵?」
知らない名だが、どこかで聞いた事のある名にも思える。
家の玄関を開け、リビングに行きながらも考えるがはっきりとは思い出せない。だが葵という名は聞いた事がある気がする。
「ねえ、お母さん。和久井葵って知ってる?」
リビングに入って早々、母にその名を聞くと、すっかり忘れていた事を思い出させてくれた。
「知ってるも何も、あんた子供の頃よく遊んでいたじゃないの。隣の葵くんでしょ? 引っ越しちゃって、暫くビービー泣いてじゃじゃない」
「な、泣いてないよ!」
「そういえば、手紙待ってたのに来なかったわねぇ。葵くんもあんたと同い年だし、どこかで会うかもしれないわね」
冗談気味に笑う母は皐月に夕食を出し始め、皐月は手紙を読む。顔も思い出せない男の書いた手紙を。
『さっちゃんへ
子供の頃引っ越していった葵だけど、覚えてる? 手紙書くの遅くなってごめん。実は引っ越した後、さっちゃんの住所書いた紙が見つからなくて、最近押入れの奥から出てきたんだ』
よくぞそこまで住所が書いてある紙が眠っているものだ。きっとその紙は色褪せているのだろう。手紙を書くと言っても子供の頃の話。そんな何年もの口約束を覚えている葵って人は凄いと思う皐月。
読み続けた手紙の最後に書かれているのは、やはり返事を求める文だった。
『さっちゃんが嫌じゃなければ、俺と文通しない?』
「今時文通!?」
思わず声を上げててしまった皐月の横から、母が手紙を覗き見する。
メールや電話をするこの時代に、手紙を出し合うなんて考えられない。交換日記でさえ小学生の頃に終っている。それなのに文通とは、何て女々しい男なのだろう。絶対に草食系男子だ。
「あら、いいじゃない。書く事って大事よ。メールじゃ伝わらない事も、その人の字で伝わるもの。温かみがあるわよ」
「そう?」
出された夕食に箸をつけた皐月は、翌日学校で友達に相談する事にした。
「――て事があったんだけど、どう思う?」
朝練前に相談したのは、吹奏楽部新部長の葉子と新副部長の杏である。
二人は楽器を組み立てながら皐月の話を聞くと、すぐに食らいついてきた。
「何それ、超羨ましい! 小学生入る前の約束でしょ? 六年以上経ってんのにずっと覚えていたなんて……!」
瞳をキラキラと輝かせているロングヘアーの葉子は、トロンボーンのマウスピースで音階を出し始める。
「誰も皐月の事さっちゃんって言わないのに、その人にとっての皐月は子供なのね」
くすくすと笑うパーマがかった猫っ毛ショートカットの杏もホルンのマウスピースで音出しを始めた。子供じゃないと不貞腐れる皐月も、フルートの頭部管でウォーミングアップを始めるが、頭の中は曲の事より和久井葵が浮かぶ。
「で、返事は何書くの? 文通はするんだよね」
ロングトーンを始めた杏をよそに、葉子が問う。
考える皐月は答えが浮かばない。話題は文化祭しかなく、ぼんやりと思い出した相手に何を聞けばいいのか悩む。今どこに住んでいるのか。それは住所が隣の市だと示している。書くとしたらどこの中学か、何部か等、ありきたりな質問だろう。
「せっかくだから、文通してみようかな。でも何書くかまでは……。文化祭が終わってから考える!」
あーだこーだ頭を使うぐらいなら、音楽に時間を費やすべきだ。楽器を構えた皐月は、集中してロングトーンを始めた。
「あ、文通の内容は教えるのよ」
「え!?」
杏のふわっとした発言に、皐月は信じられない、という顔をした。
そして文化祭終了後、文通が始まる。
最初の一通目は、書くのに五時間を費やした。書く事がない。それが皐月の本音である。
『葵くんへ
お手紙ありがとう。覚えててくれたなんて、びっくりだよ! 確か五歳ぐらいの時に引っ越したんだよね。そっちの生活はもう慣れた? って、慣れてるか(笑)文通は、よろしくお願いします』
***
文通を始めて早半年。皐月は中学三年生、受験生となった。
その間、葵とは文通を絶えず続けていたのだが、皐月が返信するペースは遅い。半年の間に吹奏楽のアンサンブルコンテストや部内ソロコンテストがあった為だ。負けず嫌いの皐月は自分達のため、部の為にどのような練習をすべきか、曲作りをすべきか、勉強そっちのけで部活に費やしていたのだ。もちろん、その事は葵への手紙にも書いている。
半年のやりとりの一部はこのようなものだった。
『さっちゃんへ
文通、ありがとう。嬉しくてこの気持ちをどう表せばいいか分からないけど、とにかく嬉しいんだ。さっちゃんはどこの中学校? 俺は泉河中学校。バドミントン部の副部長をやってるんだ。さっちゃんは何か部活に入っている?』
『葵くんへ
月丘中学校だよ。運動したくないから吹奏楽部に入ったの。そしたらすっごく楽しくて! 楽器も音楽も大好きになっちゃった。フルート吹いてるけど、ピッコロと掛け持ちする事になったの。持ち替え慣れないから不安だけど、頑張る! 全国大会に行きたいから!』
『さっちゃんへ
俺も次の中体連で全国大会に出たい。きっと普通に練習するだけじゃ上達しないよね。どういう練習すれば上手くなるかな……。お互い中学校最後の大会は、絶対に全国大会に行こう!!』
『葵くんへ
お返事遅れてごめんね。アンサンブルコンテストと部内ソロコンテストがあったんだ。アンサンブルは支部大会抜けられなかった。すっごい悔しい。夏のコンクールでリベンジする! でもね、部内ソロコンテストは金賞だったよ、一位の! 努力は裏切らないんだね。この調子で頑張る!』
『さっちゃんへ
おめでとう! 友達から月丘中学校の吹奏楽は強いって聞いてたけど、さっちゃん自身も上手いんだね。一度聴いてみたいな。ところで、どこの高校に行くか決めた?』
高校の事は全く考えていない訳ではない。吹奏楽の強い高校に行きたいのだ。葉子も杏もその事は知っているのだが、葵との文通が順調なのでいよいよからかい始める。
「一緒の高校に行けばいいじゃーん。あっちは皐月の事好きかもよー」
「どこの高校に行くか聞いて、同じところ受験するかもしれないわね」
昼休み、学校の中庭で昼食を摂っている皐月は、二人の友達に箸で頬を突かれた。もう何年も会っていない男を好きになるはずがない。煽られても困るだけである。
「それにしても泉河中学校のバドミントン部って強いんだってね! うちのクラスの男子が言ってたよ。葵くんの名前も聞いた事あるとかないとか」
「そうなの? 写真とかないのかしら。皐月ったら子供の頃の写真も見せてくれないから」
幼い葵と一緒に映っている写真はアルバムにあった。しかし子供の頃と今では違うだろうし、それをきっかけに付き合え付き合えと言われても馬鹿にされているようで嫌なのだ。
「実はね、バドミントン部の女子がこっそり撮っていたのだー! 皐月も見る? 見るよね! 興味あるよね?」
「いいよ、別に。それにこっそりって、隠し撮りでしょ? あまりいい気がしないよ」
「本当は興味あるくせに。その写真、早く見たいわ」
杏の言うとおり、心のどこかで興味はある。
あの可愛らしい顔の葵がどう育ったのか。だが背が低かったらどうしよう、顔が好みでなかったら嫌だ等、いろんな事が浮かぶ。
「ごっめーん! 今度持ってきてくれるってさ。だからもうちょっと待って」
手を顔の前に合わせて謝る葉子。
皐月はほっとするような表情を作ったが、心の中では残念に思っていた。
『葵くんへ
高校はまだ決めてないけど、吹奏楽の強い秋山高校か唐傘高校に絞ってるよ。葵くんは決めてるの? ところで、新入生はどれぐらい入った? うちは十九人! 楽器選びにすっごい揉めて大変だったよ。友達に聞いたんだけど、葵くんってすごく強いって有名なんだってね。中学最後の中体連、頑張ってね!』
新学期早々、夏のコンクールに向けて猛練習を開始していた。
新入生に楽器の事、譜面の読み方等を教えながら基礎を見直し、絶対に全国大会に行くという想いを掲げながら。その間にある運動会や中体連の行進曲の練習もしなくてはならない。忙しい。
そんな時でもやはり葵との文通は欠かさず、この日は彼からの返信が来た。しかしその内容は――
『さっちゃんへ
十九人ってすごいな! 俺のところは六人。女子がやたら多くて十三人だったな。男子の倍かよって、羨ましかったよ。中体連の応援、ありがとう。でも俺、試合には出られない。この字を見て分かる通り利き腕がダメになったんだ。複雑骨折で、リハビリも兼ねると受験まで掛かるらしい。だから俺の代わりに全国大会の夢、叶えてくれよな』
封筒も手紙本文も、いつもの綺麗な字は何処にもなく、利き腕ではない手で書いたような手紙。紙には一行ずつ線が引かれているが、その枠をはみ出している。そしてその紙には、水が乾いた跡が残っていた。きっと泣いたのだ。最後の試合、絶対に全国大会に行く決意をしていたのに、悔しい思いをしたのだろう。
この手紙から葵の気持ちが伝わり、皐月の頬を涙が伝った。
「見てみてー! 葵くんの写真貸してもらったよー!」
その翌日の昼休み、葉子のテンションが上がっていた。
杏はその写真を食らいつくように見て、かっこいい、と一言漏らす。しかし皐月は違う。
「ほらほら皐月ぃ、葵くんだよ! 超かっこいい! イケメン! そんな人が文通って、ピュアだよね~。いいなー、皐月は」
「いいよ、写真は」
バドミントン部の女子が撮ったのだから、きっと試合中の写真のなのだろう。それを見たところで、葵の悔しがる表情が浮かぶだけだ。彼は今、試合に出られず苦しんでいるのに。
「いいから見なって! うちの学校一のイケメンよりイケメンだよー」
「だからいいってば!!」
肩にずしっと腕を降ろして写真を見せようとする葉子を振り払い、尻餅をつかせた。
ぽかんとする葉子に、皐月は口を籠らせながら謝る。
「ご、ごめん……」
「ねぇ、皐月。あなた今朝から変よ。家で何かあった? 朝練も抜け殻みたいだったし」
文通の事は、葉子と杏に話している。でも骨折の事は安易に話してはいけない。噂が広まって、葵が試合に出られないと知られたら、傷つくのは彼だから。
「家は平気だよ。何もない。……ほら、私イケメンだろうと男に興味がないからさ。別に葵くんの写真はどうでもいいっていうか……」
その葵が今どんな想いをして病室にいるのだろう。ふとその光景が浮かぶ。
「ちょっと、皐月、あんた……」
「どうしたの? 泣いて」
「え?」
二人に言われ、涙が出ている事にようやく気付く。葵の気持ちが分かるとは言えないが、自分がそうなったらと思うと自然と悲しくなる。彼の骨折が自分の事のように感じられるのだ。
皐月は人気のない場所へ移り、葉子と杏に葵の骨折の事を話した。
二人は皐月がそれで泣いたのだと知り、写真で舞い上がっていた事を謝る。
しかしそれと同時に、部長、副部長、コンサートマスターとして出来る事をやる決意を新たに固めた。それは葵自身が出来ない中学校最後の全国大会に行く事。それが彼を元気にする薬になるのだから。
葵への返事はどうすればいいか分からず、たった一言、葉書で返したのだった。
『絶対に行くよ、全国大会』
***
夏休み前、行きたい高校が決まった。吹奏楽全国大会出場校の秋山高校だ。
葵との文通は続いている。彼は慣れない手で返事を書いている為、やはり字は読みづらい。それでも懸命に書いている様子は目に浮かぶが、顔が浮かばない。やはり写真を見せて貰えばよかったと後悔する。どんな表情で試合に出ていたのか、背はどれぐらいなのか、今になって見ないと意地を張っていた自分に後悔する。利き腕は左らしく、慣れない右で書くのは勉強をするため、そして――
『さっちゃんと文通したいから』
この言葉だけで、皐月の顔は真っ赤になる。
これはもしかすると、自分に興味があるのかもしれない。期待していいものなのか。葵が引っ越して以来、ずっと会っていない彼が自分を好きであるなんて、そんな舞い上がった事を考えてしまう。
「ちょーっ! うわっ、ええ? 葵くんてば大胆!」
「皐月と文通したいから右って、サウスポーにもびっくりしたけど、皐月、もちろん付き合うわよね?」
「何でいきないりそんな話になるの! 会ってもいないのにそんな事にならないから」
それに今は先日決まった支部大会へ向けて、更に細かい練習に励まなければ。色恋にうつつを抜かす場合ではない。
バドミントン部の女子が泉河中学校に葵の姿がないとキャーキャー言っていたらしいが、彼女らはその真相を知らない。
そういえば、皐月も何故骨折したかは聞いておらず、葵も教えていないのだ。知りたいし見舞いにも行きたいが、自分には葵の代わりに全国大会に行くという義務がある。ここはぐっと堪えるしかない。部活に身を投じていれば、色恋など気にならないはずだ。
『葵くんへ
県大会突破したよ。支部大会は八月末! あと一ヶ月ないから、もっと細かい所を調整していかないと全国には行けない。支部大会抜けて、全国大会が終わったら、お見舞いに行ってもいいですか?』
色恋なんて、そう思っていたのに何という手紙を送ってしまったのだろう。見舞いに行ってもいいか、等、会う事を前提とした手紙を。
その事を、部活の昼休憩中に葉子と杏に話してしまった。
「ヤバイ! 恋フラグ! 皐月のドキドキがいつもテンポ六十ぐらいなら、これ書いた時はマーチテンポぐらい!?」
「もっと早いかもしれないわよ。だって皐月の顔、トマトみたいだもの」
そんなに赤いのだろうか。顔が熱いのだか赤いのだろうが、トマトはないだろう。
「やっぱ皐月さ、葵くんの事好きなんでしょ」
「イケメンだものね」
「だから写真見てないってば!」
会ってもない人を好きになるなど、ありえない。
とにかく練習だ。全国大会に行くために。楽器を吹いている間だけは恋の気持ちを忘れられる。
『さっちゃんへ
来てくれるの? 嬉しいよ。でも全国大会終わるまで結構あるね。それまでが長いな。そうそう、八月末頃にギプスが外れて、リハビリが始まる予定なんだ。学校には医者に無理言って、テスト前から行き始めてるけど。確か支部大会も八月末頃だよね? さっちゃんは大会、俺はリハビリ。互いに頑張ろう。……早く会いたい』
最後の一文が余計だ。こんなのを読んでは、練習に身が入らなくなってしまう。早く会いたいのは皐月も同じだが、その為に全国大会へいかなければならない。そうだ、手紙の返信は支部大会が終わってからにしよう。余計な邪念を払うために。
『葵くんへ
ギプス取れるまで結構時間かかるんだね。快復してるようで安心した。リハビリって何するのかな。会ったら、どういうお手伝いすればいいのかな』
邪念など払う事が出来ず、手紙を出してしまう。そして手紙の返事を楽しみにしている皐月。
――彼の事が好きなのだろうか。
無意識のうちに、楽器で好き好きと音程を取っている皐月は、自分の中で葵の存在が大きくなっていると感じる。認めた方が楽かもしれない。イケメンで、手紙からはおそらく性格もいいだろう。彼女がいるかもしれないが、会いたいというからには――
「みんなー! 絶対全国大会行くよー! さ、基礎合奏始めるよ!」
「はいっ!」
いい方向に考えて練習しよう。全国大会に行って全部終われば、葵と会えるのだから。
そして大会前日に届いた返事。
『さっちゃんへ
いよいよ支部大会だね。もう終わってったらごめん。俺はギプスが取れて、来週からリハビリが始まるんだ。自分の腕じゃないみたいでさ、まずは日常生活が出来るように、受験までに動かせるようにするよ。さっちゃん、全国大会に行けるように、祈ってるから』
この返事はお守りだ。これがあればきっと全国大会に行ける。葵を喜ばせるために、彼と笑顔で会うために。
普段手紙を持ち歩かないが、本番当日は鞄に忍び込ませていた。
「全国大会行くぞー!」
「おー!」
顧問であり、指揮者である教師にも気合が入っている。これまで共に作り上げた音楽を、ステージで演奏するのだ。
チューニングルームというリハーサル室から舞台袖に移動する。
五十人全員に緊張が走るが、テンションは高い。顧問が一人一人と視線を合わせ、頑張ろう、いける、やれるぞ、と小声で伝えていく。自由曲では皐月のフルートソロがある。絶対に外せない。
「皐月、葵くんの為にも頑張ろうね!」
「絶対代表になって、会いに行こう」
「うん!」
前の学校の演奏が終わる頃、部員全員が深呼吸をし始めた。
そして演奏が終わり、会場からはブラボーの歓声と大きな拍手が湧き上がる。歓声だけで分かる。ここは金賞、代表となるだろう。自分たちも代表になればいいのだ。
舞台袖からステージへ進む。席に着き、譜面台に楽譜を置き、持ち替えの楽器も右側にスタンド毎置く。
さあ、本番だ。
「プログラム十八番――」
アナウンスが流れると、指揮者と共に楽器を構える。
課題曲はコンサートマーチ。今年の一番人気であろう曲だ。出だしは音もぴったり合い、順調に曲が進む。楽しさで溢れる曲は、トリオへ進み、曲終盤へ向かって盛り上がる。そして課題曲は終わった。
乾く唇を分からないように舌で潤し、次の自由曲に集中した。
中盤には皐月のソロがある。川が流れるように、水のように、練習した通りやれば問題ない。
自由曲が始まった。練習通り、いや、それ以上ではないか。とても活き活きとした曲に仕上がっている。暗さがなく、完成度が高く感じた。そしてソロ――。
部長の葉子が休符の間に聴いて思った正直な感想。
(皐月のソロ、今までで一番いいじゃん!)
このソロには葵への想いが込められているのだ。
そして自由曲の最後、打楽器アンサンブルが入る数小節で、客席がざわついた。何が起こったのか、皐月たちはすぐに分かった。あるはずのティンパニーの音が消えたのだから――
自由曲が終わった。客席からは拍手が沸いたのだが、ブラボーの声は二テンポ遅れてやってきた。
ああ、もう駄目かもしれない。誰もがそう思ったのだ。
舞台から降りて泣く皐月達だが、それ以上に泣いたのはティンパニーをやっていた二年生の男子。彼は部員全員、一人一人に謝っている。
「すみません、先輩。最後のコンクールなのに、俺のせいで……!」
何が起こったかというと、振り下ろしたマレットが空中で折れてしまったのだ。
飛んで行った先はホルンの杏の頭に落ちてしまった。彼女が構えてブレスを取ったときに。痛みを堪えて練習通りに音を出せたが、楽器にぶつかってしまった。
「それに、楽器もまで……」
「仕方ないわよ、あんなハプニング誰も予想できないし」
「アタシとしては、怪我人が出なくて良かったよー。あんたも大丈夫?」
そうだ、杏と葉子の言うとおり、何がそんなハプニング予想出来ないし、頭上に落ちた杏の頭が大したことなかったのだからいいのだ。
「それにまだ結果は分からないしね。結果発表まで諦めない、もう謝らない! それに最後のコンクールでこんな事って、一生忘れない思い出だよ。むしろありがとう」
「先輩……!」
皐月達は誰も責めない。予想外のハプニングだったが、自分達にとって今出来る最高の演奏をしたのだから。
そして、閉会式。
理事や役員の挨拶が長く感じ、会場に集まった出場者全員に緊張が走る。出場順で発表される結果だが、十八番と後半部にあるのだ。
「それでは、結果を演奏順で発表します。ゴールド金賞、銀賞、銅賞、最後に代表となる推薦校を――」
「ああああ! きたー! この瞬間が一番嫌! 緊張するー!」
「大丈夫よ。私達なら、今年こそ行けるわ!」
葉子と杏も取り乱しそうになる。この結果が、全てを左右するのだ。
皐月は葵の事が浮かんだ。葵が見守ってくれてる。鞄に入っている手紙を取り出し、ぎゅっと抱きしめた。――大丈夫。葵に絶対に会える、と。
「プログラム一番、若葉中学校、ゴールド金賞!」
朝一番の演奏でありながら金賞を勝ち取った学校がある。早朝は不利とされ、ホールも響かず、会場内も冷たい。朝で楽器に息が通らない等、不利な条件が山のようにありながらも、金賞を勝ち取った学校は、大歓声を上げた。
金賞の枠が一つ減り、皐月達に僅かながら焦りが浮かぶ。順々に結果が発表され、金賞を勝ち取った学校も増えてきた。そして、順番が近づく。
「プログラム十七番、大空中学校、ゴールド金賞!」
大空中学校から歓声があがり、もどかしい。
「ほら、やっぱり大空中金賞だよ!」
「次よ、次! 皐月ぃ」
「葉子と杏まで情けない声出さないでよ」
「プログラム十八番、月丘中学校――」
手を繋いで結果に耳を傾ける。早く、一秒でも早く知りたい、結果を。この一瞬の間が、一分に感じる程長い。
「ゴールド金賞!」
「やったー! やったよ皐月ぃー!」
「葵くんに会えるわね」
「まだ分かんないけど、でも良かったー!」
この結果で一番喜んだのは、マレットを折ってしまった男子。自分のせいで結果を残せないと思っていたが、そうではなかった。
とにかくまずは第一関門突破。残る結果に金賞は二つあり、銀、銅の学校は皆泣き崩れていた。
「それでは、全国大会への推薦校を発表します。演奏順で――」
それは分かったから早く、早く言ってくれ。
祈るように手を握る皐月達に力が入る。推薦校はたったの三つ。およそ十分の三の中にはいらなくてはならないのだ。
「プログラム五番、曙中学校」
「また曙だー。強すぎ」
「去年も代表だったものね」
ここは納得できる。そして次。
「プログラム十七番、大空中学校」
ああ、やはりここだ。舞台袖で聴いた時に分かっていた。予想通りだが、あと一枠。
葵からの手紙をぎゅっと抱きしめる。葵の代わりに全国大会へ進む。
来い、来い、来い、十八番!!
「プログラム」
そして全国大会が終わったら会えるのだ。十年振りに。
「二十一番、天海中学校」
その瞬間、皐月達の夏が終わった。
***
それからの月日が経つのは早いもので、あっという間に受験日を迎えた。
夏のコンクール以降、葵には返事を出せていない。その為、葵からの返事も来ていない。
リハビリはしているのだろう。どの高校を受けるかも聞いていなかったので、もう会う事も文通をする事もないかもしれない。葉子も杏も違う学校で寂しくなる。
皐月はそう思っていた。
満員電車に飲み込まれないよう電車のポールに掴まる。
早朝から復習をしていたので、少し眠い。音楽をやっていた頃は楽しかったのに、受験は辛い。同じ高校を受験すると思われる中学生も多く乗り込んでいるが、やはりサラリーマンも多い。
受験する秋山高校の最寄駅に着いた。雪崩のように大勢が降りて行く。
すると履いている右のローファーが脱げてしまった。
「すみません、靴が……っ!」
探しに戻ろうとするが、雪崩に逆らえない。ぱたーんと扉が閉じてしまい、電車は次の駅へと旅立ってしまった。
駅員さんに事情を話して、見つかったら連絡して貰おうか。それを言いに行くと受験会場に入るのが遅れてしまう。このまま行くか、もう片方の靴を脱いで靴下で歩いていくか考えている中、同じ受験生が奇妙な目でちらちらと見ながら通り過ぎていく。
すると、長身の男が近づいてきた。
「あの、もしかしてこの靴……」
手に持っていたものはまさに皐月の茶色いローファー。がしっと掴むように手を伸ばした。
「あー! そう、これです! ありがとうございます」
「俺の足元に転がってきたから、持ち主が見つかって良かった。もしかして、秋山高を受験すんの?」
靴を履いて、上を見上げると背の高い顔のいい男がにっこりと笑う。
何というイケメンだろう。まるで乙女ゲームのような展開だ。
「うん、そう。あなたも……?」
「じゃあ一緒だな。よかったら一緒に行かない? 転んだら靴拾ってやるから」
「転びません、縁起でもない」
「あはは、ごめん」
受験会場の秋山高校までは駅から徒歩十分ぐらいの距離がある。
何ともない普通の会話をしながら歩いている皐月は、その男の名前を聞かない。受かっているならともかく、もしどちらか落ちてしまったら気まずいから。
「へぇ、吹奏楽やりたくて秋山高にしたんだ。確かに強いって話聞くな」
「知ってるんだ。やっぱり有名なんだね」
「ん~、俺は運動部だから文化部の事は良く知らなくてさ。でも好きな子が吹奏楽やってて、それでちょっと調べたんだ」
その時、ふと葵の事が浮かんだ。全国大会に行けなかったと伝えられず、そのままになってしまった葵の事が。
それにしても好きな子の為に調べるとは、そんなに好きなのか。
「もしかして秋山高を受けた理由って、その子と一緒がいいから、とか?」
「へへ、わかった? でも学校が違うからどこ受けるか知らなくて、秋山高だったらいいって願望でここにしたんだ」
「秋山高にいなかったら?」
「そん時は、他の吹奏楽のある学校に行った友達に聞いてみるかな。ま、運命的な出会いとか期待してないし、そうなりそうだけど」
笑う顔が可愛いと思う皐月は、ぱっと視線を逸らした。
春頃に葉子や杏が見た葵の写真はイケメンだと騒いでいた事を思い出す。
他校、吹奏楽、その繫がりだけで、この男が葵だといいと思うが、人生はそんなに甘くはない。そんな出会いは少女漫画の世界でしかないのだ。
「吹奏楽やりたいってさ、吹奏楽の大会に出てた?」
「うん、まあ。支部大会で落ちちゃったけど……」
何でこの男に悔しい結果を話してしまったのだろう。
「そっか、俺実は好きな子を一目見たくて、実は見に行ったんだよね。結果は見てないけど、すごい演奏だった。感動したよ、月丘中学校」
「え? 月丘?」
自分の学校を口に出され、思わず反応してしまう。
すると秋山高校に到着してしまい、男とはそこで別れてしまった。
結果は悔しいものだが、吹奏楽をやった事のない運動部が自分たちの演奏で感動したと言うのだ。ましてや他校の男が。コンクールの悔しさが、彼の嬉しい一言で救われた気がする。
すっきりしたところで、受験はいい結果を残せそうだ。皐月は心の中で感謝しつつ、共に受かる事を祈った。
受験が終わったその日、皐月は燃え尽きていた。
翌日以降も結果を待ってそわそわと落ち着きがない。
話題は受験、結果、受験、結果、落ちたらどうしよう、この無限ループに陥っている。こんな時にタイムマシンがあればいいのにと、皆次々と口にしていた。
そして結果発表という運命の日を迎える。
受験当日に靴を拾ってくれたあの男は何処にいるのだろう。
結果が張り出されないかと待ち望んでいる人の中で、あの長身イケメンを目で探すが見当たらない。
「あっ、来た、出た!」
周りの声に、張り出されている大きな紙から皐月は自分の受験番号一六五八を探した。どうやら左から右へ、縦書きで書かれているらしい。一六四九を見つけた。その下に貼るはずだと目で追って行く。コンクールの結果発表より緊張する。
そして見つけた。受験番号一六五八を。
「やったぁ!」
念願の秋山高校合格。これでまた吹奏楽を続けられ、今度こそ全国大会への道へ進める事ができる。
「佐山ー! お前どうだったよ! 受かったよな!」
「もちろん! よかったー!」
「皐月ぃー! やったよー! あたしも合格したああああ!」
クラスの仲間がちらほら集まり、皐月と共に喜びを分かち合っている。
その彼女達の横に立っていた長身の男がその様子を不思議そうに見ると、皐月と視線が合った。
「あ、靴の人! どうだった?」
「合格、した、けど……」
「やった! 春から同級生だね! 私、佐山皐月。よろしくね」
合格して皆喜んでいるというのに、その男は気まずそうに視線を逸らしている。すると――
「おーい、和久井ー! 和俊も合格したってよー!」
「また葵くんと一緒になれる、いやあああ! 超嬉しいいいいい!!」
その視線と悲鳴のような歓声は、目の前の長身の男に向けられている。
皐月は頭の整理ができず、合格した、という事実はすっぽり抜けてしまった。
「え、ワクイ……えと、アオイって……」
「俺だよ、さっちゃん。……ごめん」
目の前の長身イケメンが葵。文通していた和久井葵。夏の吹奏楽コンクール支部大会以降、ずっと返信していなかった複雑骨折していた相手の和久井葵。しかもあの演奏を聴かれて、好きな子が月丘中学校に……。
皐月の頭の中で整理が追い付かない。
好きな子という事は、本当にそんな事が有り得るのか、と。
「なぁ、葵。その子がお前がガキの頃から好きっていう皐月ちゃん?」
「バカッ! 言うんじゃねーよ晴巳!」
晴巳の口を塞いだ葵が恐る恐る皐月の方を見ると、彼女の顔は完熟トマトのようになっている。
そして逃げるようにその場を退散した。
「……逃げられたな。フラれた葵初めて見たわ」
「終わった。俺の高校生活、入る前から終わった……」
天国と地獄が一度にやってきた葵は、落ち込みながら爆弾を投下した晴巳と共に秋山高校から去って行った。
皐月はというと、家の近所の公園で葉子と杏と合流し、混乱している現状を説明する。だが、それは訳の分からない言葉になっており、葉子は困ってしまう。
「えーとつまり、葵くんに告白されたのね!」
満面の笑みの杏が皐月にあった出来事を簡潔に纏めた。
「うっそ! ほらやっぱり両想いだったんじゃん! もちろんOKしたよね皐月!」
「出来る訳ないじゃん! 逃げてきたのに……。それに会ったの十年振りだし、文通始めたのだって去年だし、馴れ馴れしくしちゃて私ったら……!」
もはやすっかり合格発表の日という事を忘れてしまった皐月と葵。知らぬまま再開し、知らぬまま告白していた事に気づく。
受験というのは別の意味でも恐ろしいと学んだ二人は、ある事を決意した。
***
入学式。皐月と葵は互いを気にしながらその日を迎える。
ちょっと早く行こう、と新し制服を身に纏って校門を潜った皐月は、生徒玄関に立っている葵を見つけた。
互いに上手く視線を合わせられない。挨拶すらできない。心臓の鼓動が高まる皐月は、平常心を装って持ってきた内履きに履き替える。
「あのさ、さっちゃん。これ……」
動いたのは葵。彼は照れくさそうに手紙を左手で差し出す。骨折していた左手が動くようになったのだ。
受け取った皐月も持ってきた手紙を、ぷるぷる震える手で葵に渡すると、新しい教室へと走って行った。
互いに書いた手紙の中は、こういうものである。
『全国大会行けなくて返事しなかった。ごめんなさい。葵くんが好きです』
『さっちゃんの事が子供の頃から好きです。付き合って下さい』
九年の月日を経て始まった文通。
絶対ないと思っていた皐月の恋は、手紙で始まり、手紙で新たなスタートを迎えた。