ハナダイロ(卅と一夜の短篇第16回)
「お前なんかうちの子じゃないよ! あのドブ川の河原で拾ったんだから!」
今日もまたその言葉で追い出された。ぐいと口元をぬぐうと、痣の浮いたその手に血がなすりついた。
母親が荒れるたびに、ヒカルは暴言と共に家を追い出されていた。
ヒカルの母親は酒を飲むと必ず荒れる。そして時々連れて来る男と喧嘩した後は余計に荒れる。
もっとも、機嫌よく男を連れ帰った時も追い出されるのだが、その場合は母親か男が千円札を一枚投げてよこすのでまだマシだった。
ヒカルが拾い子などというのは母親の嘘だ。
「昔はなかなかの美人だったのにねぇ」と言われる母親に瓜二つの顔を持っていることは、近所の人なら誰でも知っている。
だが体型は父親の方に似たのだろう。ここ二年ほど、ヒカルは背ばかりひょろりと伸びた。どうやら母親はそれも気に入らないらしい。
ヒカルはもう顔も覚えていないが、彼女には嫌な記憶しかないのだろう。
「生意気に背ぇばかり伸びやがって!」と言われて殴られることもある。
まともに食べられていないのに、何故自分の身体は伸びることなんかに貴重な栄養を使うのだろう、とヒカルは思う。
お陰で彼は小さい頃よりももっとひもじい腹を抱え続けることになった。
――さて今日はどうししよう。
ヒカルは追い出されたことをさほど気にするでもなく、ぼさぼさ伸びた髪を整えた。それから投げ捨てられた靴を手に取る。足の裏の土埃をはたき落とし、靴に足を押し込む。
靴の中で足指が窮屈だと文句を言うがしょうがない。なに、このまま成長したところでほんのちょっと足指が曲がってしまうだけのことだ、とヒカルはどこまでも楽観的だった。
問題は晩飯だ。何しろ珍しく母親がご機嫌で夕食を用意してくれ、さて食べようかという時に件の男からの電話で状況が一変したのだ。
なんでもこの週末会う約束をしていたのに、仕事のせいでキャンセルになるかも知れないとか。それをヒカルに当たられても困るのだが、母親はそういう性格なので仕方がなかった。
そんなわけで、ヒカルの胃袋は足指以上に猛抗議している。
これが、最初から今日は無理だなとわかっていればここまでうるさくないものを。やっかいな胃袋である。
しかも今日は男が来ないらしく、千円札のお伴がない。
ヒカルはぐうぐうと鳴り続ける腹の音を聞いて、ため息をついた。
――さて、コンビニへ行くか、多少遠いが二四時間営業のスーパーに出向くか……それともいっそ、母さんが『ドブ川』と呼ぶあの川まで行ってみようか。
ようやく野宿でも寒くない、むしろ心地よい涼しさの季節になった。
たまに雨に降られることもあるが、雨宿りできる場所もいくつか頭の中の地図に入っている。
ヒカルは鼻歌混じりで夜の散歩に踏み出した。
* * *
「こんな時間にどうしたの?」
河原を歩いていたら土手の上から声が掛かった。少女の声だ。
「こんな時間って……まだ九時じゃない」
ヒカルは答える。
彼にとっての『こんな時間』は、午前三時や四時だった。
「ふぅん……で、何しに来たの?」
少女の声はどこか楽しそうだった。
夜の闇の中に、更に暗いシルエット。声がなければその姿が少女だと想像もできないだろう。
ヒカルは答える代わりに土手を登る。
「きみこそ『こんな時間に』に散歩?」
ガサ
じゃり
じゃり
河原を歩いていた人影が自分の方へ向かって来ることに気付いた少女のシルエットは、一瞬身体を震わせた。
「あたしは散歩じゃなくて――そうね、見回り? うちの近所で変な物音がするから誰か見て来いって……その、兄さんたちが」
ヒカルは少女の兄たちの言い分が信じられなかった。母親からしつこいくらいに『女の子は大切に扱うべきだ』と言い含められているからだ。
もちろん、その『女の子』の中には母親自身も含まれていた。
「それで女の子のきみが? 兄さんたちってことは、年上の男が何人もいるんだろ? そいつら腰抜けだな」
草が伸び放題の土手を最短距離で登ったせいで、剥き出しのすねや腿はちくちくとむず痒い刺激に絶え間なくさらされた。
じゃり、と最後の一歩を踏みしめて土手を上がりきるとヒカルは息をつく。
少女は意外に背が低く、ヒカルの鼻の辺りまでしかなかった。
「――こんな小さな子に」
思わず付け足した言葉で、少女はぷっと吹き出した。
「失礼ね。これでもあたし、結婚できる年齢よ?」
「え……ごめん」
結婚できるということは、まだ声変わりも始まっていないヒカルより年上なのだろう。
「……うち、来る?」
唐突に少女は問う。
「え?」とヒカルが問い返す。
「お腹、減ってるんでしょ? お祭りの前だから、友だちや近所の人も出入りしてるし何かしら食べる物はあるし……大したものはないけど」と少女は言い、ヒカルの手を引いて歩き始める。
「さっきから、きみのお腹がすごく自己主張してる」
「え、あぁ……ごめん」
指摘されてヒカルはやっと自覚する。当たり前のこと過ぎて、腹の虫がずっとぐうぐう鳴っていたことに気付いていなかったのだ。
「でも知らない人の家に」――勝手に上がって乞食のような真似をしたら許さないから、と母親はいつも言っている。
「じゃあ今から友だちね、それならいいでしょ。うちすぐそこだから」
少女は気にした様子もなく微笑んだ。
* * *
「またなんか拾って来たんだな、ハナダ」
平屋の一軒家に招き入れられたヒカルは、好奇の視線で迎えられた。
「友だちになったの、ええと――」
「ヒカル、です」
ヒカルは頭を下げて挨拶する。
「兄さんたちよ」とヒカルに微笑むハナダは、明るいところで見てもやはり幼い顔つきの少女だった。大きな目がヒカルをじっと見つめる。
「どうも」
もう一度頭を下げて、そこにいた兄弟らしき数人を見回す。彼らはハナダと呼ばれた少女によく似た顔つきをしていた。
「お前――ヒカル、随分でかいなぁ」
その中の一人が愉快そうに笑った。
彼らがハナダよりも更に一回り小さいことに気づき、ヒカルは目を丸くした。やはり先ほどの年齢の話は冗談だったのかも知れない、と思ったが、水を差すようなことは言わないでおく。
「まずお風呂使ってらっしゃいよ。着替えを出しておくわ」と、ハナダがうながし、兄弟の一人がヒカルの手を引いた。
「こっちだ」
初対面にも関わらず、まるで旧知の友人のような態度を取る彼らを、ヒカルは不思議な気持ちで見ていた。うながされるままに風呂を使い、真新しい着替えまでもらって、ヒカルは呆然としたまま広い部屋に戻った。
ハナダの言う通り大勢の人たちが右往左往している。
みな色とりどりの浴衣を着ており、祭りの準備らしくどこか空気自体が浮かれていた。廊下を挟んで向かい側には台所があるらしかったが、そちらからも賑やかな声が聞こえて来る。随分大人数で調理しているらしい。
「好きなもんつまめよ」と、ハナダの兄弟の一人が声を掛けた。ヒカルはペコリと頭を下げ、渡された皿にいくつかの料理をよそって隅の席で食べ始める。
「あんた、今日は泊まってくんでしょ?」と、通り掛かった中年の女性がヒカルに問う。その口調は泊まるのが当然だと言うようだった。
「えっと……」と、ヒカルが言いよどんでいる間に、中年女性はどこかへ行ってしまう。
「あんた名前は?」
「初めて見る顔だねぇ?」
「細いねぇ。もっと食べな」
誰もが親しげに話し掛けて来る。ヒカルはそのたびに「はぁ」とか「えぇ」とか答えながら食べ続けた。
次々と新しく料理が運ばれ、そのたびに誰かしらがヒカルの更に料理を追加して行く。普段あまり食べていないため、胃が受け付けてくれるか心配したが、そんなヒカルの心配をよそに、胃袋の方は食べる気満々で次々と平らげていく。
こんなたくさんの料理を一度に食べるのは生まれて初めてだ、と思いながら。
ようやく腹がくちくなると、途端に睡魔が襲って来る。
皿を下げて目をこすっていると、同じく眠たそうな顔をしたハナダの兄弟が「ヒカルも寝るか」と声を掛けて来たので従った。
風呂とは反対方向の奥の十二畳ほどの部屋に、布団が何組も並べて敷き詰められていた。既にヒカルの兄弟たちや見知らぬ少年など数人がすやすやと寝ている。
「適当に場所を決めればいいよ」と言われ、ヒカルは一番隅の布団にもぐり込む。
数年振りに心も腹も満たされ、目を閉じた途端に深い眠りに落ちて行った。
* * *
――ざわざわしている……?
何人もの話し声で目が覚めたヒカルは、自分がどこにいるのかすぐには思い出せなかった。
「お、起きたかヒカル」
笑顔で話し掛けて来た少年の顔をしばらくぽかんとしたまま見つめ、徐々にゆうべのことを思い出す。外を見るとまだ薄暗い。いや、遠く見える山並みを縁取るように、空には淡いピンクや紫色がにじんでいるようだ。
「今何時?」
ヒカルが少年に訊ねると「六時くらいかなぁ」という答えが返って来た。
六時ならもう少し明るくなっていたはずだ。むしろもう陽が昇っていてもおかしくないのに……とヒカルは首を傾げる。
「これから祭りが始まるんだ。ヒカルもこれ着な」
少年は当然のような顔で何かを押しつけて来る。見てみると浴衣だった。
「あの、これ?」
「祭りに出るやつはみんなこれを着るのさぁ」少年はにかっと笑う。
「自分でできないんなら、その辺にいる誰かに頼みなよ」
ヒカルが戸惑っていると小太りの中年女性が寄って来て「あらあらまあまあ、寝坊助さんだねえ」と言いながら浴衣をヒカルの手からもぎとり、有無を言わさず着付け始めた。
「朝からお祭りするんですか?」
されるがままでヒカルは問うてみる。すると女性は、あははと快活に笑った。
「もう夜だよ。あんたよっぽど疲れてたんだねえ。ずっと寝ていたんだから」
それを聞いてヒカルは息を飲む。
――帰らなきゃ……
朝になっても帰宅していないと、母親はまた酷く不機嫌になるのだ。
うっかり出勤時間を十分ほど過ぎた頃に帰宅した時など、三日間水しか与えられなかったこともある。
母親が留守にする時は、ヒカルが家にいなければならない。それが母親のルールだった。
「すみません、僕帰らなきゃ」
首だけひねりそう言うと、帯を巻きつけている女性はきょとんとして答えた。
「そんな必要ないだろ? 祭りに出るんだから」
「いえ、でも母が――」
「きっとあんたのお母さんも祭りを見に来るよ。はい、できた」
女性は快活にそう言うと、ヒカルの背をポンと叩く。
「あんた、なんならここにずっといたっていいんだよ?」
ヒカルの伸び掛けの髪を後ろになでつけながらくすくすと笑う女性に、ヒカルは蒼ざめる。咄嗟に返事ができなかった。
「でも僕は――母が寂しがるので」
ほんとにそうだろうか。
あの母親が、ヒカルがいなくて寂しく思うとは、ヒカル自身にも信じられない。むしろいない方がせいせいするのではないだろうか、と考えたことは何度もある。
だが、「あんたが勝手なことをすると、あたしのせいになるんだよ!」と言われるので、『勝手に』いなくなることができないのだった。
「寂しい、ねえ……こんなに、あざだらけで。かわいそうに」
ぽつりとつぶやく女性の言葉に、ヒカルはたとえようもない羞恥を覚えた。だがヒカルが何か言うより先に、女性はまたポンと背中を叩く。
「まぁ、今日の祭りで何か変わるといいね。折角なんだから楽しんで行きな」
何もかもわかっているかのような言い方をした女性は微笑み、また準備に戻って行った。
* * *
「ヒカルくん、やっと起きたぁ」
ハナダはヒカルの顔を見て嬉しそうに微笑む。濃い青色の浴衣を着て髪をきれいに上げたハナダは、昨日より幾分大人びて見える。
「カッコイイね、浴衣、似合ってるよ」
そう言われてヒカルは照れた。
「えっと、ハナダさんも、その紺色の浴衣――」と、社交辞令のように褒め掛けると「ハナダ」と遮られる。
「え?」
「ハナダ色っていうの。紺じゃなくて。紺よりももっと明るめの色でしょ?」
ハナダはそう言ってくるりと一回転してみせる。「夏の夜の空の色だよ」
ハナダイロ。
ヒカルは口の中で言葉を転がす。その色はハナダによく似あっていた。
「お祭りが始まるよ」
ハナダはにっこりと微笑み、ヒカルの手を取る。
それが合図だったかのように、ハナダの兄弟たちもそれぞれ下駄を鳴らし、歓声をあげながら外へ飛び出して行く。
「あたしたちも行こう」
ハナダはヒカルの手を強く握った。
「お祭りはどこで?」
外に出て少し歩いたが、祭り提灯も屋台の匂いも見つけられずヒカルは問う。
「向こうの、川の方」とハナダは手にしたうちわで川を指した。
「でも何も見えない――」そう言いながらヒカルが目を凝らした時、川の方からわぁっと歓声があがる。そして何かがふわふわと浮かんでいるのが見えた。
「あれが『お祭り』よ」
どうやら土手の上にも、河原の方にも、既に大勢の人がいるようだ。ふわふわと揺れる光に照らされて大勢のシルエットが浮かぶ。
早足で進むハナダに手を引かれ、慣れない草履でヒカルも小走りに急ぐ。
その時、ふ、と風が吹いた。
またわぁっと歓声があがる。
河原にも、土手の上にも、そしてヒカルたちの近くにもふわふわと何かが舞っている。ひんやりした色の小さな光。それはまるでヒカルたちを誘うように周囲を飛び、ふわりと高く舞う。
「あぁ……僕、初めて見るよ」
そう言って隣にいるハナダを振り返ったヒカルは、ハナダが淡い光に包まれていることに気付いた。
「ハナダ、それ……?」
「ヒカルも」
くすくすとハナダが笑う。ヒカルは驚いて自分の手を見ると、ヒカルもほんのりと発光していた。
「どうなってるの? どういう仕組み?」
きょろきょろと自分の身体を見回したヒカルは、更に驚く。
「人が、下に……っ」
土手に、河原に、集う人たちはヒカルたちを見上げて微笑んでいる。
「ど、どうして。僕、飛んでる? どうなってるの?」
驚きのあまりバランスを崩しそうになる。だがハナダはくすくすと笑うだけで答えない。
「ヒカル……」
かすかに呼ぶ声が聞こえた気がして、ヒカルは群衆を見下ろした。
土手の中腹、白い浴衣を着て髪を結い上げた母親の姿を見つけ、ヒカルは息を飲む。懐かしさと恐怖が綯い交ぜになり、胸の中がざわざわと波立った。
だが母親はヒカルの方を見ようとはせず、中空を指さして傍らにいる男性に微笑み掛けている。
「母さん……」
母親は自分を呼んだのではなかった。目の前に舞う小さな光のことを、男と話しているだけだったらしい。それを理解したヒカルは安堵し恐怖が消えたが、同時に何かもっと違うものも抜け落ちてしまった気がした。
「ふぅん、あの人がヒカルのお母さんなの?」
さして興味がない風にハナダは眺めた。
「それよりもお祭りに行こうよヒカル。ずっと、ずっと、飛んで行こう」
ハナダはヒカルの手をもう一度強く握り、更に上空へと舞い上がる。
夏の夜の空はハナダイロ。
ヒカルは無言でうなずいた。