【6】
エルフォードの家に新たな家族が加わって一週間ほどが過ぎた。初めの一週間、養女を含めた彼の一家は何事もなく、順調に日々を積み重ねていった。
当主ダグラスは危惧して家族を見守っていたが、自分の気苦労が徒労に終わったことに、とりあえずはほっと胸をなでおろしていた。引き取った子はとても大人しく、彼の心配していたようなことを起こすような子には見えなかった。
引き取られた子、アイリュスは六歳の女児である。もう少し経てば七歳になることを考えても、エルフォードの姉弟とは三つ四つ年が離れている。父からすれば年が離れていることは不安の種であったが、長女シンディは彼女とすぐに打ち解けた。シンディは念願だった妹が出来て、大変張り切っているようだ。近頃は学校が終わってすぐ、寄り道もせず帰宅し、妹と時を過ごすようになっていた。
母、コーネリアも同じようなものである。長男、長女たちが外出している間、彼女は絵本を読んで聞かせたりして、新しい娘との交流を図っていた。先日彼女は、年頃に成長した我が子たちは、近頃相手をしてくれず、内心寂しく思っていたのだと口にしていた。絵本を読み聞かせるなど久々のことだと、近頃機嫌が宜しい。
家族に善い影響を与えている養女に、ダグラスも満更悪い気持ちでもなくなりつつあった。少女は幼いながらおとなしく、賢く、節度ある少女は家族にいい刺激を齎している。少々口数が少ない気がするが、打ち解ければきっとそれも変わっていくだろう。
ついでにバトラーだが、使用人は新たに主人が増えたことに不満は無いのだと言う。強いて彼が言った言葉を述べるなら、“手間が掛からず、若いのにコーヒーの味が分かるいい子だ”とのことである。
ダグラスが思った以上に、アイリュスはすんなりと家族に馴染んだ。当人があまり笑顔を見せないのは気になることだが、孤児院に居た誰しもが、“機嫌がよくてもクスリとも笑わない”と言っていたので、そういうものなのだろうと思うことにした。それも、この家での暮らしに慣れれば変わることだろう。
ただ、気がかりな事が無いわけでは無かった。当主としては、あとはその気がかりな事が取り除くことを考えるだけである。
ダグラスは“それ”を、今夜にも実行に移すつもりでいた。
その日の夜、ダグラスはフィオンを書斎へ呼び出した。時刻は九時を回ろうとしていた。いつもならば、この可愛らしい腕白少年はそろそろ床へついているべき時間である。
フィオンはいつもの腕白さはどこへやら、おびえた様子で静かに部屋を訪れた。こんなに夜遅くに起きて家の中を歩くのは、ずいぶんと無かったことである。そんなことをすれば、普段なら父にも母にも叱られるのだから。
久々に歩いた夜の廊下は、少年にとっては未知と不気味さに溢れていた。証明は殆ど落とされて、足元の見えない様な薄明りの中を壁に手をついて歩いていくのである。慣れた道であるはずなのに、彼には全く別の場所の様に感じられた。
先の見えない道を歩きながら、突然背後や正面から得体の知れないモノが顕れるのではないだろうか、と、フィオンは怯えながら歩いた。ようやくたどり着いた部屋に父の姿を認め、初めて安堵でため息が出た。情けないことに、フィオンは今でも、夜に用を足すのには姉の同伴が必要な程、暗闇が苦手だった。
「フィオン、座って。」
手招きされるままに父の対面へ座ると、落ち着きなく辺りを見回した。廊下程では無いにしろ、部屋は不気味に薄暗い。
目前の机に置かれたロウソクの火が、どこからともなく入ってくる隙間風にゆらゆらと揺られている。部屋にそれ以外の明かりは無い。ぼうっとした薄明かりで、周りに本棚があるのがうっすらと見える。分厚い本が隙間なく並べられた本棚は、何故だか昼間見るよりもずっとぶきみで恐ろしいモノにみえた。敷き詰められた本が歯の様に変化して、自分をかみ砕いてきそうだ。
かといって本棚から目を逸らすと、見えるのは闇ばかりである。部屋の隅まで光は届かず、深く、吸い込まれそうな暗がりが部屋の角を削り取っていた。まるで壁などなく、闇はどこまでも果てしなく続いている様である。
……やめよう。何を馬鹿なことを言っているんだ、この場には父だっている。怯えることなんて何もないじゃないか。あの暗がりの向こうには壁があるだけなんだ、ここはおれの家だぞ。
そう自分に言い聞かせながら、フィオンは肌寒さで身震いをした。
「フィオン、寒いのかい?」
父はほんのり笑いかけながら、子に語り掛けた。フィオンは声に応えようと、顔を上げた。父の優しい表情が視界に入ると、不思議と不安は和らぐものであった。例え恐ろしい闇でも、あの優しい表情を恐ろしげに変貌させることは出来ないのだ。
「ううん、寒くない。」
そういうと、フィオンは部屋に入って初めて笑みをこぼした。父は安堵して、声には一層愛情が籠った。
「そうか、ならよかった。今日は少し話があってね。」
変わらず優しい笑みを崩さずに、ダグラスは話し始めた。
「妹とは上手くいっていないみたいだね?」
「っ……。」
フィオンは何かを言おうとした様だが、言葉に詰まってしまう。そんな様子を見て、「ああ、いや。別に怒ろうって言うんじゃないんだ。」と、ダグラスは頭を撫でた。
洗ったばかりの濃いブロンド髪は指触りが良い。ダグラスは、フィオンには少しでも落ち着いて話を聞き、そして話しをしてもらいたかった。
ダグラスはコホンと咳払いをして言った。
「新しい家族が来て、色々と戸惑うことは多いだろう。僕にはそういうことが無かったから、フィオンの気持ちは分からない。だから、フィオンがどう思っているのかを聞かせてほしいんだ。」
責める様な口調にはなっていないことを祈りながら、一句ずつ選んで言葉を綴った。
アイリュスが来てから、フィオンだけは唯一彼女と馴染めないでいた。実際に今日までの一週間、両者、あまり言葉を交わすことは無かった。
アイリュスは言葉数が少なく、良く言えば聞き上手な子である。故に、自分から話しかけない限りは会話があまり起こらない。つまりは、フィオンはあまり、彼女と話そうとはしなかったのだ。
ダグラスの眼には、どことなく、息子が新しい妹を避けて居る様な気がしていた。
最も、無理もない話ではある。妹でも良いとか、ちゃんと仲良くするとか言っていたが、所詮は考え無しの子供の言葉である。遊び相手が一人増える程度にしか考えずに言っていたのであろう。そういう考えだったなら、いざ家族として一人を歓迎する、となると、こうしてしどろもどろしてしまうのも仕方が無いことなのである。
ダグラスはそういう考えをしていたので、フィオンを責めはしなかった。ただ、妹となる子とは、せめて仲良くしていて欲しかったのである。しかしその障害となっているものがあるのだとすれば、それの正体は一体なんなのか、彼は知っておきたかった。父として、家族の不仲は見過ごせないのだ。
「フィオン、いいかい。迎えたからには、アイリュスはこれからも家族として一緒に暮らすことになる。だから、ずっとこのままってわけにはいかない。例え苦手な印象があったとしても、だ。言ってることがわかるかい、フィオン。」
「違う、そうじゃないよ、父さん。」
フィオンは思わずダグラスの言葉の終わらないうちに声を上げた。
「別に嫌いとか苦手とか、そういうのじゃないんだよ。アイリュスはいい奴さ、それは分かってる。おかあさんもねえちゃんも、バトラーだって仲良く出来てるんだから。……ただ、なんか話すのは気まずくてさ。」
言葉を選びながら言う彼の声は、心なしか上ずって聞こえる。ただ、口調は真剣そのものだった。フィオンは珍しく本気で考え、本音を口にしていた。この言葉は、考えなしのその場しのぎの言葉ではない。
そこでダグラスも深く考え込みながら、少しずつ会話を進めることにした。
「嫌いや苦手じゃないなら、特別避ける理由も無いんじゃないのかい?」
諭す様な口調で、ダグラスは尋ねた。
「そりゃそうさ。……でも、わかんないよ父さん。ただ、なんとなく気まずいんだよ。なんか、そわそわするって言うかさ。」
フィオンは心底困り果てた表情をつくり、俯いた。
「俺だって仲良くはしたいよ。だけど、そう思って話しかけようとすると、どうにも出来ないんだ。なんとかしなきゃいけないのもわかってるし、ねえちゃんにも言われてる。けど、どうにもし難いんだよ。」
心なしか声にも元気が無いように感じられる。話を聞きながらうんすんと頷いていたダグラスだったが、ふいに腑に落ちたと言わんばかりに手のひらをぽんと合わせ、俯いた。
なるほど、そうきたか。
“新しい家族が出来た”という体験は、自分にとっては未知だ。だが、どうやら“珍しい外部者”として彼女を見ているわけではないらしい。フィオンが彼女に受けているその感覚には、ダグラス自身にも覚えがあった。
「フィオン、あの子が好きか?」
「ち、違うよ! 父さんまでそういうことを言う!」
思わずソファから立ち上がり、声を荒げてしまった。フィオンは自分の顔に血が上るのを感じていた。この態度では肯定してるようなものである。しかしなんとか否定しようと精一杯考えた結果、最期には顔を背けてそっぽを向いてしまった。
その様子を眺めていたダグラスだが、笑ってやればいいのかからかってやればいいのか、大変悩んでいた。しかし、何はともあれ自分の息子が“そういうこと”に関心を持ち始めたことに少しばかり嬉々とし、心が温かくなるのを感じた。
「しかし、だな。フィオン。」
大きく咳払いをすると、そっぽを向いたままの子に言葉を投げかけた。
フィオンの成長を感じた直後に、こんなことを言わねばならないのは大変気鬱で、気の進むことでは無かった。しかし、ダグラスは心を鬼にして、言わなければならないことがあった。
一拍ほど、どう切り出そうかと考えた。書斎は一瞬、しんと静まり返った。
次の言葉が来ないなと、フィオンはちらりと父を見遣った。そんな息子の視線を感じて、ダグラスは少々言葉の纏まらないまま、切り出した。
「好きな子に話しかけると言うのは勇気が居る。それは分かる、父さんにもあったことだ。だがな、……。」
「だから、そんなんじゃないんだったら!!」
フィオンはダグラスの言葉をせき止めようと、声を張った。
鐘の様なキンキンした声は、屋敷中に響き渡った。眠りかけていたシンディはたぶん飛び起たに違いない。コーネリアも……いや、彼女は寝たままだろう。バトラーに関しては、部屋で何事かと首を傾げているかもしれない。
それに、アイリュスの耳にも入っただろう。それほど大きな声だった。
あまりに大声を出すものだから、風も吹いていないのにロウソクの火がびりびりと身を揺らした。
ダグラスはフィオンが呼吸を整えるのを待つと、ため息をついた。
「それなら結構だが。……彼女はお前の妹なんだから、そういう想いを持っていられると困るんだ。」
「そんなんじゃないから安心して良いよ、もう。父さんにまでからかわれるとは思わなかったよ。」
と、ぶつぶつと呟いた後、不意にフィオンは真面目な顔をした。先ほどまで赤面していたのはなんだったのか、すっと血の気が引き、フィオンは冷たくため息をついた。
「……父さん。おれ、アイリュスと仲良くできるかな?」
フィオンは再びソファに腰掛けた。
そして、徐に話し始めたのだった。
「実はさ、あいつの荷物を運んでやろうとして、その……。すごく嫌われちゃって。」
「あの黒い箱のことか?」
アイリュスの荷と聞いて、ダグラスの脳裏には、黒く長い木の箱が思い出された。彼女が家に訪れた時、バトラーに部屋まで運ばせたものだ。持ち主の少女の身の丈より長い、凄く目立つ箱だ。
黒塗りの箱はずいぶんと古いもののようで、ところどころ欠けたり割れたりして歪な形になっていた。馬車の中で軽く会話した際、彼女はあの箱に触られるのをとても嫌がっていた。バトラーに運ばせることを了承させるまで、馬車での移動時間分たっぷりと交渉したものだ。
「そうだよ。……そう、話しかけづらいのは、それが原因なんだ。」
フィオンはじろりと父親を睨んだ。対してダグラスはやれやれと肩を竦めた。本当にこっちが原因らしい。
「あいつが来た次の日、部屋から持ち出そうとしてたから手伝おうと思ったんだ。そしたら、凄く睨まれちゃって。」
「それで、話しづらくなった?」
「……それも、ある。」
そういうとフィオンは再び俯いてしまった。
むむむ、と、ダグラスは唸った。人当たりのいいアイリュスが睨み付けたりするものか。
箱に拘る所以を考えれば、そうもなるか。ダグラスは黒い箱について、孤児院で聞いた話を思い返した。
やれやれ、これは思ったよりも面倒な問題だ。
ダグラスは唸るのをやめ、フィオンをじっと見つめた。
「そうだなぁ、フィオン。ちょっと話すから、聞いてくれ。」
呟くように沈黙を破った。
ぽつぽつと話し始めた父は、先ほどまでの優しい響きではなく、真剣な面持ちで息子と向き合った。
フィオンも父の様子に気づいたか、背筋を伸ばして向きなおった。
「あの子はもう、何度も孤児院を転々としてきているんだ。この町を含めて廻った町は五つ。けれど、あの子はどこの町にも馴染めなかった。……まぁ、普段からあんなに大きな箱を持ち歩いている子を、周りの子たちは特別視するだろうからね。」
「いじめられてたってこと?」
「……いいや、そういうことも起らなかったみたいだ。無口で、箱に近づく子たちに強く嫌悪する彼女には、誰も近づかなかった様でね。……まぁ、そういう子が居ると困るってことで、色々な場所へとたらいまわしにされていたみたいだ。」
「たらいまわしって?」
「小さいころ、シンディのおままごとに誘われたらフィオン、別の友達を紹介してやり過ごそうとしただろ? あれと同じようなものだよ。」
「アイリュスが嫌だから、別の人に渡して面倒事を回避したってこと? ……でも、箱に触らなきゃ悪い奴じゃないよね? ……っていうか、なんでそこまでして、あいつはあんなボロ箱を……。」
フィオンは神妙な面持ちで首を傾げた。
確かに、事情を知らなければ不思議にも思うだろう。幼く可憐な少女が、汚らしい箱に縋るのは傍から見てとても歪に映る。幼いながらに、その歪さを感じているのだろう。
「彼女にとってあれは、ただの箱じゃないのさ。アイリュスのあの箱は、他の人には触られたくはないモノなんだ。例えば僕が触っても、たぶんシンディが触っても、同じような顔をすると思う。」
「そんなに大切なものなの? ……あれは、一体なんなの?」
「そうさな。」ダグラスは大げさにため息をつくふりをしながら、考えた。ため息を吐き出す時間を最大に使って、どう表現したものかと考えた。考えに考えを重ねた。その末に言ったのは、
「あの子にとっては、形見の様なものだね。」
という当たり障りのない言葉だった。
「カタミ?」
フィオンはぽかんとした。まだ年端もいかない少年には、あまり聞きなれた言葉ではなかっただろう。
「遺品……でもわかりづらいか。……簡単に言えば、見て居ると死に別れた父親や母親を、思い出すようなモノのことかな。彼女にとって、アレは本当に親と自分とをつなぐ、数少ないモノの一つなんだよ。」
自分の語彙力の無さにやきもきとしながら、なんとか説明を試みた。むつかしい言葉を並べて論的な説明をするのは得意だが、子供に言って聞かせるのはコーネリアの方が余程上手に出来る。
「本当の親って……。アイリュスのお母さんとお父さん、死んじゃったの?」
「あぁ、みたいだ。」
ダグラスはううんと唸った。この手の話は子供に言って聞かせて穏やかで居られる話ではない。現にフィオンは息を呑んで、事の重大さに目を真ん丸に見開いていた。
しかし彼女と家族になるのなら、いずれは知ることになることである。ダグラスは少し躊躇ったが、このまま話を続けることにした。
「アイリュスは戦争でご両親を亡くしているんだ。二年、いや、もう三年ほど前の話になる。隣国のアレマーニ・ランドの空襲で、アイリュスはご両親と住む村を失くしたんだ。」
「またアレマーニ……。あいつら、いきなりこっちに飛行機飛ばして襲って来るんだ! 人が人を殺すなんて、そんなの酷い……。それによりによって、アイリュスの町も、おかあさんやおとうさんだって……。そんなの、やっていいことじゃないよ……!」
怒るフィオンを見つめながら、ダグラスは考えを巡らせた。誰もがこの子の様に、素直に人の死を哀しめるのなら、こういった悲しい出来事は無くなるのではないだろうか。
多くの子供は、人を傷つけることが悪いことだと知っている。無論、彼らは何かしらで人を傷つけることはあるだろう。けれどその後、悪いことをしたと悔いて謝ることが出来る。そして子供は悔いる時、涙を流すことさえあるのだ。例え小さな悪行にも、心の底から悔やみ、後悔することが出来るのだ。
大人になる程、こういう感覚はどんどん薄れていく。ダグラスも例外ではない。仕方ない事なのだと諦めて、理屈的に丸め込む自分が居ることには気づいている。よくある話なのだと、悪意を見て見ぬ振りをする自分には気がついている。
「ねえ、父さんだってそう思うだろ!」
大人全てが、子供の優しさを思い出せる生き物であったのなら、アイリュスは今頃、ご両親と共に暮らしていたのかもしれない。こんなにも傷つかずに済んだかもしれない。……けど、そうでないのが現実だ。
息子の問いかけに対して、真っ直ぐに答えることは出来ない。ダグラスは目伏せがちに、
「ああ、そうだ。その通りだよ、フィオン。」と、寂しそうに呟いた。




