【1】
その朝は晴天に見舞われた。雲一つ掛からぬ青空からは、燦々と太陽の光が降り注ぐ。開け放たれた窓からはまばゆい日の光が差し込み、春先の朝らしい冷たい風が差し込んだ。窓の外からは、風に戦ぐ木々の音色と、小鳥の歌声が聞こえる。人里から僅かばかり離れた地にあるこの屋敷は、外界のあらゆる騒音を排除していた。
ソファで横になっていた男は、一陣の冷風を首筋に受け、身を震わせて目を覚ました。
「あぁ、またか……。」
寒気に見舞われ、身を縮めながら、男は小声でつぶやいた。薄く目を開けると、背の高い本棚の列と、本棚の全てを埋めるようにびっしりと隙間なく並べられた本の背表紙が見える。どうやら寝入ってしまったようだ。しかも書斎のソファの上という、あまり行儀の良いとは言えない場所で。硬いソファに寝ていたことが災いして、背中を中心に体の節々がぎしぎしと痛む。男の口からは、自然と唸り声が漏れ出した。
何か物事に集中すると、翌日の朝は毎回このように迎えることになる。男にとってこれはもう生活習慣の一環とも言えることだったが、忌むべき習慣であることは言うまでもない。しかし性分なのだろうか、直すつもりで居るのにもかかわらず、毎度こうして朝の冷えた空気に諌められ、厳しく起こされることになるのだ。
昨日の自分はどうやらこうなることを察していたらしく、身に纏う衣服は寝間着だった。一見賢いことをした風だったが、薄着の寝間着を着ていた故に、朝の冷気が身体に染みた。
さて、微睡む男は額に手を当て、意識を繋ぎとめようと努めた。しかし、冷たさを帯びる風と共にやわらかい陽の光が、交互に男の頬を撫でる。包容力すら感じさせる日差しを浴びていると、無理をしてまで身体を起こす必要などないのでは、と思えてくる。不意に吹き付ける冷たい風に身を震わせ、気づくと体は自然と硬いソファの上で丸く縮こまっていた。
男はそっと目を閉じると、深く息を吐き出した。このままもう一度、深い眠りにつけそうだ。静寂に身を任せて力を抜くと、すぐに意識は常闇へと落ちて行った。
「ダグラス様!」
「うわっ!?」
書斎にしわがれた、それでいて強く耳の奥まで良く通る声が響いた。不意にかけられた大きな声に驚いて、男は飛び起きた。まるで尻尾を踏まれた猫の様に俊敏に体を起こし、そのついでにどんくさい野良犬の様にソファから滑り落ちてしりもちをついた。
「い、いたたた……。バトラー、起こすにしても、もう少し方法を考えて起こしてくれないか。」
“ダグラス”と名を呼ばれた男は、目の前に居る礼儀正しそうな、奥ゆかしい老人に悪態をついた。
「失礼しました、ダグラス様。しかし”明日の朝は何があっても起こしてくれ“と申されたのはダグラス様でありまして……。あぁ、眠気覚ましにコーヒーをお持ちしました。」
バトラーと呼ばれた老人は一礼すると、手に持った銀のカップとケトルをテーブルへと置きながら答えた。
バトラーは白髪交じりの老人ではあったが、若き日に鍛えられたその体は衰えないしなやかさを誇り、未だ活力にあふれる黄土色の瞳や、威厳と謙虚さを兼ねる物腰はその年齢を感じさせない。常に動きに無駄がなく、機敏に、そして優雅に振る舞う彼のことを齢70を超える高齢者だと言って、一体誰が信じるのだろうか。彼をバトラーとして雇っているダグラスでさえ、実年齢は詐称しているのではないかと疑って見ているほどだ。ダグラスは度々、この自称老人は、実は皮膚の皮だけ老人のモノを被った同世代なのではなかろうか、等と考えていた。
「頂こう。」
ダグラスはソファに腰掛けなおすと、深いため息をついた。「今は頭をすっきりさせたい気分なんだ。昨夜は頭を使いすぎたみたいでね、少し調子が悪い。」
「それはそれは、夜分遅くまでお疲れ様でした。差し支えなければお聞かせ願いたいのですが、昨夜は遅くまで何をなさっていたので?」
「……それを思いだすためにも、頭をすっきりさせたいんだ。」
つんとした口調でダグラスは答えた。目の前で銀のカップに真っ黒なコーヒーがなみなみと注がれる。白い湯気が上がり、温かみのある深い香りが部屋に漂う。外から吹くひやりとした草木の香りも、この香りの存在感には敵うまい。ダグラスは注がれたコーヒーを目前へとやり、香りで肺を満たして、心身の寒気を彼方へと追いやった。
カップに口をつけると、苦みを打ち消す程の香ばしい風味が口に、そして鼻の奥にふわっと広がった。ダグラスは苦みの濃いものは苦手だったが、バトラーの淹れるコーヒーだけは好物として、好き好んで飲むことが出来た。
「お味の方は如何でしょうか?」
開けっ放しになっていた窓を閉めながら、バトラーは尋ねた。窓から吹きつけていた、冷たい朝風がぴたりと止む。ダグラスは熱いコーヒーが奥底から体を温めてくれるのを、より一層強く感じた。
「あぁ、いつも通りだ。」
「いつも通りと申されますと?」
「旨いってことだよ。言わなくてもわかるだろう、バトラー。」
主人はため息交じりに苦笑した。言い直さなくとも伝わっているであろうに、態々聞き返すのだ、この老人は。
過去、いつを振り返ってもこの執事が自分に味の悪い物を出した試しはない。それは偏に、彼が優れたバトラーであるからである。彼は朝に用意するコーヒー一杯にしたって、文句のつけようの無い物を提供するのだ。
老人は主人のまごまごとした称賛を確認すると、うっすら意地悪く笑った。それから主人へと向き直ると、「さて、朝食の準備は致しておりません。ダグラス様が食事よりも睡眠時間を優先される方だというのは肝に銘じております故、では、早速準備に取り掛かりましょう。」
と、遠回しに主人を急かした。
「何の準備だ? 今日は休暇のはずだったが……。」
バトラーの言葉に、ダグラスは怪訝そうに顔を顰めた。思い当たることがないか頭の中を探ったが、未だに靄掛かっている思考の中を探索するのは難しいことだった。首を傾げているダグラスに、バトラーはやれやれと首を振った。
「おやおや、まさか本当にお忘れで? 今日が何の日か。ご友人のマクレン氏は昨日より待ちわびている日のハズですが?」
「……あぁ、しまった。今日だったか。」
“マクレン”の名を耳にした時、ダグラスの表情が一変した。ただ、“しまった”と口にした割には表情以外に態度に変化はなく、代わりにコーヒーをもう一口啜ると、口の中で風味を味わいながら呑み込んだ。
「……いい味だ。」
「のんきを言っている場合ではございませんよ。昨日まではあんなにしっかりと、ご予定を確認なされていたのに……。根 を詰め過ぎると逆効果だといういい例ですな。」
「説教はいいよ、バトラー。」
今度はむっとした表情を作って、バトラーを睨み付けた。
話しに出てきたマクレンというのは、ダグラスの友人の名だった。
ダグラスは特別に友好関係の広い人間ではなかったが、一度交友関係を持った人間との繋がりは大事にする人間だった。そんな彼にとってマクレンとは、特に古くから仲を保つ人間であり、互いに心から友だと信じ合う人物である。
ただ、件のマクレンは時折、ダグラスに無茶難題を吹っかけることがある。長年の付き合いとはいえ、あまりに遠慮の無い頼みをされる時、毎度ダグラスは彼の面の皮の厚さに呆れるばかりだった。そして今日もまた、ダグラスはマクレンに悩まされることになりそうなのであった。
「あぁ、これで僕の休日が消えてしまうんだな、バトラー。一か月前の自分を責めつけてやりたい気持ちでいっぱいだ。強引にでも断ってしまえばよかった。何故引き受けてしまったんだか……。」
ダグラスは頭を抱えるような仕草をした。今日マクレンと会うことになったのも、いつもの無茶の類に準じた事柄が発端だ。しかも今回の事柄は、彼が今までに経験したこれまでとはまるで質の異なる、とても厄介な頼まれごとだ。
ため息をつきつつも、今更になって約束を反故にするわけにはいかない。彼と約束をしたのは紛れもなく自分である。若干残る眠気にきっぱりと見切りをつけると、ダグラスはソファから立ち上がった。
「乗り気でないとはいえ、約束の時間に遅れるわけにはいかない。バトラー、急いで着替えを持って来てくれないか……。」
「お召し物は、既にこちらに用意させて頂きました。」
ダグラスの言い終わるが早いか、目の前に洋服の一式が差し出される。ベージュ色のテールコートを主とした、外出には無難な一式だ。ダグラスは苦笑した。
「流石だな。手回しが早い。流石ついでにバトラー、馬車を回してきて……。」
「表に待機させております、ダグラス様。いつでも出られます。」
「そうか、それなら今すぐ出られるな。」
執事の準備の良さは折り紙付きだった。関心を通り越して呆れたダグラスは、どこか投げやりな返事を返した。
「あぁ、お待ちください。その前に、身だしなみを整えられた方が宜しいのでは? このまま貴方様をお送り致しましたら、エルフォードの屋敷の執事はとんだ無能の給料泥棒だと誤解を受けてしまします。」
ダグラスは自分の髪を手で撫でてみた。つんと跳ねた寝癖は、単に撫でた程度では収まってくれそうにない。少しばかり心配になって、バトラーに首を傾げて見せた。
「……そんなに酷いか? 済まないが鏡を用意してくれないか。」
「ええ、こちらに御座います、ダグラス様。」
ダグラスの言葉が終わるよりも早く、一体何処から取り出したのか、バトラーはいつの間にか手鏡を手にしていた。鏡を受け取りながら、ダグラスはため息交じりに言った。「君以上に心強い友人は居ないな。僕のことを僕以上に理解して準備してくれる。」鏡に映った自分の姿を見ると、短く刈りそろえたダークブラウンの髪が、ほんの少し外にはねているように見える。……寝起きにしては癖は少ない方だろう。思ったよりは酷くない。
「もし私以上にダグラス様を理解されている方が現れたなら、私は職を辞さなければなりませんね。主を理解し、そして主の状態を最善に保つよう工面するのが、私の義務です故。」
ダグラスは髪の毛のはねた場所を何度か撫で、ため息をついた。バトラーの完全主義には時折困らせられる。仕事に行くわけでもなし、この程度なら別に構うことは無いだろう。ダグラスは横着を決め込んだ。
それからバトラーの軽口に小さく笑いかけ、手鏡を返した。
「出かけてくる。」
そう告げた時、バトラーが少しむっとした表情を浮かべたのをダグラスは見逃さなかった。進言を無視されたのだ、思うことがあったのだろう。
しかし良く出来た従者であるバトラーはすぐに表情を治すと、「わかりました。こちら、招待状と必要な書類を纏めておきました。よき一日になりますよう。」
黒革の手提げ鞄を手渡すと、一礼して見送った。
「あぁ、ありがとう。行ってくる。」
ダグラスは言うが早いか、慌ただしく部屋を後にした。




