【13】
「家に帰るのではないのですか?」
アイリュスは声を上げた。がさがさと草木をかき分けて、少女は血の繋がらない兄に続いて歩いていた。予想だにしなかった事態に、実のところ少々戸惑っていた。
「少しだけ寄り道! ちょっとでいいから、付き合ってよアイリュス。」
明るい声を出すフィオンだったが、アイリュスはその声には答えず、しぶしぶといった様子でとぼとぼ歩みを進めた。
そんな様子に気がついて、フィオンは引いた手を放すと、一度立ち止まった。
「駄目かな。やっぱり、帰りたい?」
少年は少しばかりトーンの下がった声で言う。悟られない様にしているのだろうが、残念に思っているのは明らかだった。
少女は少し考えたが、
「フィオンにい……、フィオンが行きたいのなら、構いません。」
と、そう結論づけた。
「……けれど、どこへ行くんですか? この先に何かあるんですか?」
「それは後でわかるよ。」
そういうと、フィオンは再びアイリュスの手を引いて、林の中をずんずん進んだ。
頭上を覆う木の葉たちから、真紅色の木漏れ日が注ぐ。夕日は薄暗い林の中を照らし、二人の歩む先を赤々と染める。林は二人の周囲に薄暗く影を落とし始めていたが、今のところは視界に困る程のことは無い。暗闇よりも、生い茂った草に苦戦しながら二人は林の奥へ進んだ。
フィオンはアイリュスを気にかけて、ペースを考えながら背の高い草を踏み倒して歩いた。しかし、彼が心配するほど、彼女の速度は遅くは無かった。フィオンに引っ張られるようなことは無く、むしろぴったりとついて歩いている。引っ張る手にあまりに引き応えがないので、平地を歩くよりも早いのではないかと錯覚しそうになるほどだ。
おかげで彼が考えるよりもずっと早く、目的地に辿りつけた。落ちかけた夕日はまだ、山に身を着けたばかりだった。
兄に続いて歩いていたアイリュスは、不意に足元に踏みしめていた草の感覚が柔らかくなったことに気が付いた。弾力に富んだ雑草を踏んだ時のそれとは違った柔らかな感覚が、彼女の靴底から伝わってくる。いきなりやわらかい地面を踏みしめることになったものだから、少女はつんのめって転びそうになった。
「大丈夫?」
手を握っていたフィオンは、妹が転ばない様に支えてやった。
「平気です。……ここが、その?」
「あぁ、そうだよ。」
フィオンは満足げに頷いた。
周囲を見渡すと、そこは木々の無い開けた場所だった。円状に広がる空間は、小規模な広場の様でもある。
開けた空間の真ん中には、周囲の木よりも太く、そして高く聳える大木がある。昔本で読んだ、ご神木に近いイメージが持てる。と、アイリュスは思った。
東洋の国には場を開拓する際、こうした太い木を人の住む地に一本だけ残し、それを、その場の神様として崇める習慣があるという。開けた場所に立った一本で存在するあの目立つ木は、そういったものが持つ様な、神聖な雰囲気を感じさせる。
アイリュスはフィオンの手を放すと、ふらふらと広場を走ってみた。そうしながら手を広げてくるりくるりと回ってみる。そんなことをしても平気なくらい、のびのびとした空間が、薄暗い林の奥深くに存在していた。
足元は踏み心地の良い、背の低い柔らかな草で覆われている。周囲を囲うように存在するしげみの、がさがさとした雑草とはまるで違うものだ。二、三度ほど足踏みをして感触を確かめると、草はさくり、さくりと耳障りのいい音を立てた。
「アイリュス、こっち。こっちだよ。」
ふと声をした方を見遣ると、フィオンが手招きしている。彼は広場の中心に堂々と立つ大樹に手をかけていた。
「この木、ここから登れるんだ。」
言いながら、一番低い枝にぴょんと飛び乗る。少女がぼうっとその様子を眺めていると、
「ホラ、上に行くんだ。一緒に。」
と、少年は上から手を差し出した。
「……木登り、ですか?」
「そうさ。おれが手伝うから、一緒に来てよ。」
「……うーん。」
アイリュスは唸った。手に持った黒い箱と、フィオンとを交互に見遣って困った顔をする。
「……わかりました。少し待ってください。」
だいぶ迷った後、いつも持ち歩いている黒い箱を手放し、大樹に立てかけた。少女は少しの間、箱をまじまじと眺めた。古く草臥れた箱は、差し掛かる夕日の赤い光を受けて、鈍く表面を輝かせる。元はもっとつやがあったのだが、塗られた黒の塗装は殆ど剥げてしまっている。それに、持ち手の金具は錆びて軋んだ音を立てるようになってきて、メッキが剥がれてずいぶんみすぼらしく見える。
他人から見たら、なんの価値も感じられないみすぼらしい箱に過ぎない。しかし、この箱は彼女にとっては何よりも大切なものだ。後ろ髪をひかれるような思いを抱きはしたが、アイリュスは箱に背を向け、兄に向きなおった。少しの間手放すだけで、こうも不安になるものか。
少女は差し出された手を握ると、強い力でぐいっと引っ張られる。少女は兄に習ってぴょんと飛び上がり、太い枝にしがみついた。
「ちょっと大変だろうけどさ、ちゃんとついて来て。上までは結構あるけど、おれも小さいころから登ってる場所だから、何とかなると思うんだ。」
「小さいころから、ですか。」
「あぁ、今のきみよりもっともっと、小さいころね。」
フィオンは得意げに言うと、次の枝に手を掛けた。大人の太股程の太さの枝はがっしりとしていて、少年が乗ってもみしりと音を立てることさえない。
最初フィオンは、見るからに体を動かすことが不慣れでありそうな妹を全力で支える所存だった。仮に登れない場面があろうものなら、引っ張り上げてやろうとも思っていた。……のだが、アイリュスは思った以上に身軽に、フィオンの後についてきた。年上であるフィオンが上る際にじたばたする様な場所でも、彼女はひょい、ひょいといった具合に軽々とついてきたのだった。
「ねぇ、もしかしてこういうの、得意?」
あまりに余裕そうについてこられたものだから、フィオンは気になって尋ねた。
「……ずっと前、まだ両親と暮らしていたころは、そういうことをする機会もありました。」
彼の問いかけに、アイリュスは答える。
フィオンは相槌を打った。男子である自分よりも身軽なのは、なんだか釈然とはしなかったが、すいすいと身軽に昇るその様には、優雅さすら感じる。
「……? どうかされましたか、フィオン?」
アイリュスは登る手を止めて、フィオンを見上げた。
「なんでもないよ。」
首を振って答え、頭上を見遣る。木の頂上までは、もう幾分もかからないだろう。
「それより、あともう少しで頂上だ。頑張って。」
フィオンが言った通り、程なくして二人は頂上付近に辿りついた。夕日は尚も傾き続け、その身を半分ほど山へ隠している。
「アイリュス、見てごらんよ。」
周囲の木よりも高い大樹は、文字通り林から頭一つ抜けた存在だった。
フィオンは、アイリュスに諭しながら、遠くを指さした。
「……町、ですか?」
アイリュスは眼を細めた。
フィオンが指差す先にあるものは、先ほどまで自分たちが居た町だった。
ずっと下に見える街並みは、まるで豆粒のように小さく見える。丘の上の、更に高い木の上から見下ろすと、町の全体が一望できる。赤い日の光は町の反面を明るくその色に染め上げ、もう反面に長く大きな影を作る。光と影が際立って目立ち、画家が趣向を凝らして拵えた風景画の様な景色となっている。万人が見ても絶景と言える景色であるだろう。
夕日に染められた赤い町を眺めながら、フィオンは呟いた。
「この場所はさ、ちょっと特別な場所なんだ。」
「特別な……?」
フィオンは頷いた。
「ホラ、ここからだと全部見えるだろ。おとうさんの職場に、おれの学校に。あそこら辺は前一緒に行った酒場と雑貨屋。それと……えぇっと、アリッサの家……じゃなくて、図書館もほら、見える。」
フィオンはそれぞれを指差した。
「すげー良い景色。だからここはおれの特別な場所。他の奴にやたら教えたらみんな来ちゃうだろ、こんな場所。そしたら特別じゃなくなるから、ここにはおれが認めたやつしか案内しないんだ。」
得意げに話すフィオン。アイリュスはそれを受けて、少し躊躇いがちに返した。
「……そう、なんですか。」
他になんと返せばいいのか、咄嗟に浮かばなかったのである。アイリュスは少しだけ、申し訳なさそうにした。
フィオンはと言えば、会話を繋げようと躍起になっていた。
「そう。それで、えっとー……。だから、なんだ……?」
言いたいことを纏められず、フィオンは足をじたばたさせながら考えた。あまり考え込みすぎて、危うく枝から落ちそうになったが、隣にいる少女に支えられて事なきを得る。
再びバランスを取り戻す頃、フィオンは次の言葉を考え付いていた。
「えっと、それでだ。ここへ連れてきたってことはさ、おれはアイリュスの事を認めてるってことなんだ、よね。それをしっかり知ってほしくて、それでついて来て欲しかったんだ。……口で言うだけじゃなくて、行動で示さなきゃアイリュスだって信用できないだろ。ここを教えたからには、きみは、おれにとってはとっても、なんていうか……。近しい間柄だってことなんだ。……ここは、そういう意味を持った場所なんだ。」
しみじみと言う少年の言葉に、アイリュスは耳を傾け続けた。少年は、じっと見つめてくる彼女の目から、一体何を想っているのか、全く読み取ることが出来ないでいた。
正直なところ、フィオンは臆していた。妙なことを言っているのではないだろうか。余計なことを口走っていないだろうか。
「だから、その。良ければなんだけれど。アイリュスも、もっと親身になってほしいんだ。そりゃ、まだ来たばかりで難しいかもしれないけれどさ。……だけど、あそこにある、ミニチュアみたいに小さく見える町と、この林と、それとおれの家。その全部が、アイリュスの場所なんだ。これからはこの全部が、きみが自由に過ごして、どこかへ出かけても、いつか帰って来るべき場所なんだ。」
ただ、フィオンは言い続けた。例え変に思われても、思ってることは全部言い切ってしまおう。伝えたいことはちゃんと伝えるべきだ。この場所に来たのだって、その為だ。
「変な言い方かもしれないけど、ここでの生活には慣れるしかないと思うんだ。きみが前に居た町とは違うかもしれない。だけど、ここだって良いところはあると思うよ。だから、自分の街だって思って、馴染んで欲しいんだ。その方がきっと楽しく過ごせると思うし……。それに、きみが必要だって言ってくれるなら、おれに出来る事だったら、なんだってやるよ。」
フィオンは静かに言った。心から思っていることは、ずいぶんとすんなり言葉に出来る。
一通り言い終わったころ、じっと聞き入っていたアイリュスが口を開いた。
「……わたしは、先ほども言った通り、この家の人間ではありません。……なのに、なんでフィオンはそこまでしてくれるんですか?」
「必要とされたいんだ。」
反射的に、フィオンは言った。そして言った後で、自分が妙なことを口走ったことに気が付いた。
フィオンは急に恥ずかしくなって顔を背けたが、アイリュスはそういったことには全く関心は無く、代わりに更に質問を続けた。
「どうしてですか?」
「どうしてって……。そりゃ、きみが……ええっと。家族で、妹だからさ。下の兄妹には頼られたいって、そう思うものなんだよ。」
「……けれど、わたしは“エルフォードじゃ……。」
アイリュスが言いかけたのを、フィオンは頷いて、制した。
「おとうさんがどうして、君の名前をそのままにしたのか、それはおれにはわからない。けれど、きみが考えているような、悪い意味じゃないと思うんだ。きっとおとうさんには、何か考えがあるんだって、おれはそう思う。」
父、ダグラスは、自分にこの子を任せると言ったのだ。確かに父は、彼女がここに来ることに、家族の中で一番否定的ではあった。だけど父は、きちんと養子縁組をしないことでそういったことを表現するような、そんな歪んだ大人ではないはずだ。
アイリュスの名前を変えなかったことには意味がある。フィオンは、本気でそれを信じていた。
「それに、名前なんて大した問題じゃないさ。おれもそうだけど、シンディも、おかあさんも、アイリュスのことは本当に大切に思ってるんだから。」
「……本当にそうでしょうか。」
「本当だよ。……きっと、すぐわかるさ。」
フィオンは確信を持って、力強く言った。自分以外の家族の思いも、”行動”でわかってもらえるはずなのだ。
びゅうっと乾燥した風が吹きすさんだ。二人は互いに顔を見合わせて、ぶるりと身震いしをした。太陽はその姿を山へ沈め、空は宵闇に染まりつつあった。
「……そろそろ帰ろうか。寒くなってきたし、あまり遅いと真っ暗になっちゃう。」
フィオンは低い枝へと飛び移った。アイリュスは彼の後を追い、その後ろをついて降り出した。
「……えっ?」
戸惑いの声は、アイリュスのものだった。
地面へ降り立ったフィオンは、アイリュスの手を引いて歩こうとした。
しかし、握った手は、その次の瞬間に払われることになった。
フィオンは驚いて振り向くと、アイリュスはその場に立ちすくみ、先ほどの様にか細い声を上げた。
「どうしたの?」
フィオンが尋ねると、アイリュスは振り返ることなく、震える声でぼそりと言った。
「……無いんです。」
ただ事で無いことを察して、フィオンは彼女の見ている先へとまわった。
少女は大樹をじっと見つめている。ただ、その目は見開いていて、小刻みにふるふると震えている。
何が無いのか尋ねようとしたとき、アイリュスはふらりと倒れかかり、地面に膝をついた。
「箱が、無い……!」




